第九話 魔王の日記「解せぬ」


 ※


「やれやれ……まさか、今頃勇者がやって来るだなんて……考えもしませんでしたねぇ、陛下」


 たっぷりとした銀髪を櫛で丁寧に梳きながら、サギリが重々しい溜息を吐きながら言った。彼はジルと幼い頃からずっと一緒に居る、腐れ縁の幼馴染だ。

 自分のことに無頓着なジルの世話をするようになったのは、一体いつの頃からか。お互い魔王と大臣という役職になった今でも、何故だかそれだけは変わらない。

 というのも、ジルが成長するにつれ彼に触れる度に気を失ったり鼻血を出したりする者が続出したからだ。それも、老若男女問わずだというのだから性質が悪い。

 自分としては、サギリ程気を許せる者は居ないのでこのままでも良いのだが。サギリにそれを言えば、「つべこべ言わずに、早くこの役割を代わってくれる奥方様を持て」と説教されるに違いない。


「まあ、でも恐れていた程強くも無かったですね。将軍達が居ない状態で、絶体絶命かと思いましたが」

「……どうだろうな」

「え?」

「彼女は全く本気を出していなかった。或いは、もっと力を秘めていることに彼女自身も気が付いていないだけかもしれないが」


 鏡越しに、背後に立つサギリを見やりながらジルが言う。確かに、あの瞬間はジルの圧勝であったが。勇者オリガにはまだ、未知なる『可能性』とも呼べる力があるような気がする。

 それがジルにとって脅威になるかどうかは不明だが。いや、そもそも存在自体がある意味脅威か。


「はあ、そうですか。でも、今更なんですけど……勇者が魔王に一目惚れだなんて、そんなことがあり得るんですね。前代未聞じゃないですか?」


 慣れた手付きで髪を緩く結いながら、サギリ。そもそも史実における魔王と勇者の関係は血生臭いものばかりであることを踏まえると、今回が異例なのだ。

 ジルが玉座に着いてから、約十年。『先代』のせいで荒れるに荒れた魔界を統制するべく尽力するばかりで、人間界のことなど気に掛けてもいなかった。

 勇者と名乗る者は一人も来なかったし、これからも来ないものだと思っていたが。


「人間界と最後に争いがあったのは、先々代の頃だからな。もう何十年も、魔族は人間界に足を踏み入れていない。最早、争う理由は無いのかと思っていたが」

「シェーラが聞いた話では、魔王が即位するのと同時に、勇者の剣が新たな勇者の元に現れるのだそうです。先代の頃に勇者は来ていませんから……この城に来る途中で息絶えたのでしょうか」

「流石にそれはわからないな。それにしても……一目惚れか」


 そういえば、先程もオリガが何やら喚いていたような。一目惚れという現象に関しては経験が無いのでわからないが、ジルの容姿に一瞬で恋に落ちる者は凄まじく多いのだそう。

 なんて迷惑な話だ。


「一目惚れといえば……サギリは経験があるのか? 一目惚れ」

「は? ……いえ、無いですけど。どうしたんですか、急に」

「一目見て惚れる、という現象があるのなら……二目惚れ、という現象もあるのだろうか?」

「ええっ、うーん……辞書にそんな言葉は無かった筈ですが。現象としては、あるんじゃないんですかね」


 よく知らないですけど。と、素っ気ない返事。最近では二人きりの時でも、ジルのことを名前で呼ばなくなったサギリだが。こういう媚びることをまるで知らない態度は全く変わらない。

 サギリの性格にあれこれ言う者も多いが、ジルにとってはとても好ましく頼もしい友人だ。


「そうか……やはり、あるのか。良かった」

「初対面で恋に落ちる、というのは理解出来ませんが。何度か会って、話をして、そうして同じ時間を過ごしていく内に恋愛に発展していく方が自然だと僕は思いますよ」


 結った髪を黒のリボンで纏めると、サギリがジルから離れた。ジルにとって、腰に届く程の長い髪は邪魔でしか無いのだが、実はこうして結んだり飾りを付けたりするのも苦手だったりする。

 寝る時に髪が首に巻き付いて何度か死ぬ思いをしてから、サギリにこうして結って貰っているのだが。いっそのこと切ってしまいたい。膨大な魔力のせいですぐに伸びるんだが。


「はい、出来ました」

「ん、助かる。ありがとう」

「これくらいご自分で出来るようになってくださると、僕もラクなんですけどねー」


 チクチクと嫌味が刺さる。髪を結うどころか、リボンを結ぶことすら出来ない程に不器用なことを知っているくせに。

 抗議するようにジルが嘆息するものの、サギリに真意は伝わらなかったようで。


「さ、明日こそは早起き出来るようにさっさと寝てくださいね」

「……寝坊をした記憶は無いんだが」

「僕に殴り起こされているようなら、寝坊と同じですよ! たまにはご自分でスッキリ目を覚ましてください。あ、でも日記はちゃんと書かなければ駄目ですよ」


 寝室を去り際に、サギリがこちらを向いてぴしゃりと一言。突き付けられた指先はジルではなく、窓際にある机の上に放られた一冊の本を指し示している。

 黒い革張りの分厚いそれは、なんてことはないただの日記帳なのだが。


「もう三日も書いてませんよね? インクが全く減ってませんから、わかるんですよ!」

「いや、昨日書いたぞ。敢えての血文字で」

「怖いな! ……誤魔化すなら、もっとマシな嘘を吐いてくださいよ」

「仕方がないだろう。ここ数日は特に、大して変わった出来事など無かったのだから」

「言い訳しないでください! とにかく、今日こそはネタがある筈ですからサボらず書くように!!」


 主君相手にも怯まずに、威勢よく一喝して。ようやく部屋を出て行ったサギリを見送りつつ、もう一度大きく溜息を吐いて。そうか、インクを減らすのを忘れていたか。

 魔王ともあろう者が、失念していた。


「面倒だな。私の日記など、誰も読まないだろうに」


 歴代の魔王によって、それぞれの代での嗜好やしきたりは様々なのだが。それでも長年に渡って変わらずに伝えられている数少ない習慣の一つが、この日記だった。

 一体誰が始めたのか。日記など誰かに見せるものでもなければ、見られたいものでも無いわけで。魔王専用の書斎には、歴代の魔王達が残していった日記が山積みになっている。

 それも、誰かに見られないようにそれぞれ思考を凝らした封印魔法が施してあるのだから、表紙を開くどころか持ち上げることすら無傷では済まないものも多い。最早危険物だ。

 ジルの日記は、今のところ何もしていない。面倒なのもあるが、見られてもこれといって困ることが無いからだ。


「ふむ、ネタか……」


 このまま寝てしまいたかったが、不意打ちでサギリが部屋に突入してくることも考えられた為に大人しく机の前に着席する。羽根ペンを片手に、三日ぶりに日記帳を開く。

 そして、流麗な字でさらりと一行。


『今日は勇者がやって来た』


「…………」


 子供か、と我ながら呆れる。しかし、これ以外に書くことが無い。何も思いつかない。どうしたものか、インクが全く減っていないじゃないか。


「……せめて、もう一行くらい書かなければ」


 それで何とか、日記らしくなる筈。ジルはうんうんと唸り、麗しい顔面を顰め頭も抱えて。ついには締め付けるような頭痛までしてきたものの、何とか文章を絞り出すことに成功した。

 自分としては数時間悩んだような疲労感覚えるが、時計を見やるとまだ五分も経っていない。


「……これで、良いか。ああ……今日は疲れたな」


 ペンを置くなり、ジルはふらふらと覚束ない足取りでベッドに倒れ込む。インクの蓋は開いたままなのだが。全てを放り出してベッドに潜り込んだジルを諌める者は、残念ながらこの場には居ない。


 恐らく今日という日は、魔王の生涯で最も重要な出来事であっただろうに。三日ぶりに手が加えられた日記帳は、頭上に輝く銀色の満月だけに、今日の出来事を静かに物語っていた。



『今日は勇者がやって来た』


『私は、彼女に二目惚れをしたのかもしれない』

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