第八話 魔王はカウンター攻撃を繰り出した。勇者のハートに会心の一撃!


 待ち焦がれた名前は、案外すんなりと知ることが出来てしまった。彼が言うには、魔王は名前の他にも血筋と、歴史に名を残した魔王の名前を受け継ぐしきたりとなっているらしい。

 これは魔王特有のものなので、人間であるオリガにどう説明しようか悩んでいた。先程の沈黙はそういう意味だったのだそう。


「ジル・シキ・ティアレイン……つまり、魔王ジル?」

「そう呼ぶ者も居る、多くはないが」

「ふーん……」


 冷静を装ってはみるものの。オリガの心は、まるで満開の花畑で踊り狂っているかのように浮かれていた。まさか、本当に本人から直接名前を聞けるとは。

 流石、勇者。計画通り……!


「魔王、ジル……それなら、今からあんたのことをジルって呼ぶから。呼び捨てにするから!」

「呼び捨て?」

「ふふん、あたしは人間界から来た勇者だもの。たとえあんたが魔界で一番偉い王様だろうと、あたしには関係ないもんっ」


 オリガの勝手な言い分に魔王、改め、ジルが微かに眉を顰める。その表情は不快、というよりは意味がわかっていないらしい。


「だから、人間で勇者のあたしには、魔族で魔王なあんたを敬う義務は無いってことよ。それに……いずれあんたはあたしのお婿さんになるんだし? あたし、どちらかと言うと旦那さまをさんとか様付けで呼ぶ、みたいな優雅でオホホホな感じより、ずっと名前呼び捨ての恋人気分でベッタベタしていたいのよ!」

「……ふむ、貴殿の言いたいことはわかった。……最初の四分の一、くらいは」


 なる程、とジルが頷く。ううむ、それにしてもこの男。せっかく綺麗な顔面をしているのに、表情がほとんど変わらないからイマイチ感情がわかり難い。

 まあ、嫌がってはいないようだから良しとしよう。


「それにしても……勇者殿はなぜ、そこまで私に執着するんだ? 私は魔王、貴殿は勇者。常識で考えるなら、我々は敵同士であると思うが」

「ふふん。ジル、あんたって若いくせに古臭い考えしているのね? 良い? あたしは確かに勇者だけど、国王からの命令は『人間界の平穏を脅かす魔王を倒せ』だったの。でも、あんたは人間界に侵略するどころか、玉座に座って居眠りしているだけじゃない」

「いや、これでもやるべきことは片付けているんだが――」

「とにかく! あんたがこのままぐうたらしているのなら、あたしが剣を抜く必要は無いの!」


 ビシィッ! と、ジルの鼻先に指を突き付けて――とは言いつつ、ジルとはかなり身長差があるので鼻先には届いていない――宣言する。

 魔王が人間の脅威になり得ないのならば、オリガもまた勇者の目的を果たす必要は無いのだ。


「むしろ、あんたが変なことを考えないように見張る必要があるわ! だからジル、あたしをお嫁さんにしなさい!」

「私の行動を見張るだけなら、婚姻を結ぶ必要は無いと思うが」

「うぎー! じれったいな! とにかく、あたしは、あんたに惚れたの。一目惚れ! あんたが魔王だろうがなんだろうが、関係ないの!!」


 ジルのことは、残念ながらまだ名前しか知らない。だが、城内で働く魔族達の表情を見ていればわかる。

 彼は、人間が思っているような邪悪な存在ではない。

 

「関係、無い? 私が、魔王であろうがそうでなかろうが……勇者殿には関係無い、と?」

「そ。まあ、あんたが魔王じゃなかったら、人間界に連れて帰れたのになーってちょっと悔しいけど。魔界に嫁入りも、悪くないかもって思ったし……ジル?」


 不意に、オリガが気付く。相変わらずの無表情だが、紅い瞳がオリガをじっと見つめている。

 熱くも甘くもない視線は、なんていうか新種の動物でも発見したかのような。


「……その目は何? 言いたいことがあるなら言いなさいよ、聞いてあげるから」

「いや。何でもない」

「ふうん? まあ、良いや。とにかく、そういうわけだから。今日はこれで勘弁してあげるけど、明日からは覚悟してなさいよ!」


 考えてみれば、魔界には最低限の荷物しか持ってきていない為に勝負服も勝負下着も無い。流石に鎧姿で夜這いに行くわけにもいかないし、ジルの名前を聞けたので今夜はこれで満足しておこう。

 オリガがほくほく顔で、先程教えて貰った部屋を探すべく踵を返す。そろそろメノウも戻ってくるだろうから、自慢してやろう。そう企んでいた、


 正にその時だった。


「オリガ」

「ん? 何……えっ」


  それは、あまりにも自然な呼ばれ方だったから。脊髄反射で振り向いて、驚愕。オリガの名前を呼んだのはメノウでも、シェーラでも無かった。

 銀色の長髪を揺らして、優雅でありながら堂々とした歩み。『魔王』としての威厳を纏いつつも、そこに息苦しい威圧感は無い。


「え、あ……あんた今、あたしの名前……」

「お前の相棒から聞いたんだ。オリガ、か。魔界では、『聖なる』という意味の名前になる。神に選ばれた勇者……お前にぴったりの名前だな」


 くすくすと、魔王が微笑する。紅い瞳は暖かで、氷のように無表情だった美貌が一瞬で華やぐ。表情だけで、雰囲気ががらりと変わるなんて。


「え、えっと」

「勇者が人間界ではどのような立場であるのか、まだ私にはわからないが……お前の言い分では、私もきみに敬意を払う必要など無いのだろう?」

「あ……確かに」

「それならば、これからは私もお前のことを名前で呼ばせて貰う。しかも呼び捨てで。文句は無いだろう、オリガ?」


 猫のように目を細めて、悪戯な笑みを浮かべるジル。おいおい。この男、こういう顔も出来たのか。

 おいチビ大臣、聞いてないんですけど!


「改めて……この城への滞在を許可したのは、お前と相棒が魔族を必要以上に傷つけない者達であると判断したからだ。だが、もしも理由無しに魔族を傷つけた場合は、相応の処置を取らせて貰う」

「う、うん」

「私は、こう見えても魔界の主。魔界に住まう全ての者達は、私が命を賭してでも護るべき宝だ。たとえ、人間を敵に回すことになろうとも……それだけは絶対に譲れない」


 不意に、ジルの様子が変わる。静かに穏やかな、しかし息が詰まる程の迫力。余計な口を挟むどころか、有無さえ言わせないような、そんな迫力。先程までは無かった表情。一分前までは、ぐうたらな寝惚け眼だったくせに。

 間違い無い、ジルは己の美貌をどう使えば良いかを熟知している。魔王の名は伊達ではないということか。

 つまり……この男、今まで本性を隠していたな!


「まあ、シェーラとはすっかり仲良くなったようだし。サギリもそれ程警戒していないようだから、お前達は魔族をも思いやれる優しい者達なのだろう。私はそう信じている。だからオリガ、私の期待を裏切らないで欲しい」

「わ、わかった……」

「ふふっ、よろしい。何か困ったことがあれば、シェーラやサギリに言うと良い。では、おやすみ」


 そう言い残して、ジルは踵を返してその場から去って行った。気儘に揺れる銀髪が見えなくなるまで、オリガは何も考えられないまま、ただそこに立ち尽くすしかなくて。


「あら? オリガ、アンタまだこんな場所で油売ってたわけ?」


 いつの間にか、大量の石鹸やら化粧品類の小瓶を抱えながら。一人で戻ってきたメノウに呆れ顔で名前を呼ばれるまで。オリガは夢見心地だった。

 だって、名前を呼ばれたのだから。他でもない、魔王ジルに。


「ねえ、見て見て。シェーラが作った石鹸、凄く可愛いの。花びら入りとか、なんかよくわからない木の実のエキス入りとか。他にも……オリガ、どうしたの?」

「ねえ、メノウ……あたし、さっきジルに名前呼ばれた」

「ジル……ああ、魔王さまね。こんな場所に居たの? 良かったわね、名前が聞けて」

「あの声で、イケボで名前を呼ばれた……妊娠した」

「何でそうなる。ほら、良いからさっさと部屋に戻るわよ」


 脳みそが沸騰してしまったオリガの首根っこを掴み、引きずるメノウ。ジルの嫁になると豪語するオリガではあったが、あの男が自分の横に居たら萌え過ぎて爆発するかもしれない。

 結局、その夜は歩くことすらままならず。魔界でオリガが過ごす初めての夜は、メノウに介護されるだけで終わったのだった。




 

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