3

「朝早くにすみません。山潟さん――花紗里さんのお見舞いをさせていただけたらと思って伺ったんですが」


 玄関を開けた花紗里の母に、由はそう言って頭を下げた。

 彼女はまず驚きを、次いで喜びをその顔に浮かべた。


「……まあ、まあ、まあ! 痛み入ります! あの子も喜ぶわぁ!」

「は、はい。ご迷惑ではないですか?」

「ぜんぜん! ささ、入って入って!」

「うわっ」


 いつぞやと同じように腕を掴まれ、有無を言わさず引きずり込まれる。

 由はたたらを踏み、あやうく転倒を回避した。


「もうね、あの子ったら急に体調崩しちゃって。夏風邪? なのかしら? いっつも食が細くって、ちゃんと体力つけなさいよって言ってたのに。あ、あたしは食べ過ぎなんだけど」

「いや、それは……」

「さささ、上がってちょうだい。本人はだいぶ良くなったって言ってるけど、友達の顔を見た方が元気になるでしょ。人見知りのくせに寂しがりなんだから」


 なんと返したものか迷い、結局曖昧な笑顔で誤魔化す。本当の原因を知っている身としては耳が痛かった。

 靴を脱ぎ、揃えて、廊下に上がる。花紗里の母はその後から続く。


「あっ、でも」


 と、背後から慌てた声が聞こえた。

 どうしたんですか、と振り返る直前、廊下に面した戸の一つが開いた。


 由はそちらを見た。

 ほのかに湯気を上げる白い肌があった。黒い髪がしっとり濡れている。上気した頬は薄桃色に染まり、どこかいつもより柔らかそうだ。

 脱衣所から出てきた花紗里は、バスタオルを一枚巻いただけの姿だった。


「……あの子は今、お風呂に入ってるところ……だったのよねえ……」


 固まる二人の視界の端で、花紗里の母は冷や汗を浮かべて笑った。







「……その、申し訳ない」


 テーブルの向こうの花紗里に対し、由は深く頭を下げた。

 ありったけの誠意を込めた、心からの謝罪だった。


「……ううん。悪いのはお母さんだし」


 花紗里は視線を斜め下方に逸らして言った。

 今はもちろん服を着ているが、その顔にはまだ赤みが残っている。湯上がりの熱のせいであることを由は切に願った。


 止まり木の上の白い鴉は、挨拶の後は微動だにしない。

 別段、話すべき時以外は控えているのはいつものことだ。感情のまるで浮かばない、黒真珠めいた両目も。

 だが、この状況下におけるその佇まいは、由に場の空気をなおさら気まずく感じさせた。


「あー……それでさ。ええと、もう大丈夫?」


 強引に気持ちを切り替えて、彼は尋ねる。


「……南ヶ川くんこそ。一昨日は、学校休んだって聞いた」


 花紗里は上目で睨むようにして返した。内側に強い不安を隠した、小動物の威嚇を思わせる仕草だった。

 由はやや眉根を寄せた。


「僕は平気だよ。そりゃ少しは応えたけど、山潟さんが遭った目よりは全然ましだ」

「だから、私は慣れてるもの。もっとひどい死に方だってしたことある。あれくらいで心配される必要ない」

「必要ない、って……そんなわけにいかないだろ。だいたい、山潟さんは二日も休んでたじゃないか」

「それは……だって、南ヶ川くんを巻き込んじゃったから。本当は、私だけが復讐でもなんでもされてれば良かったのに」

「良いもんか。僕は自分より、山潟さんが苦しい思いをする方が百倍嫌だ」


 二人は視線をぶつけあった。互いに譲る気はなかったし、互いにその意思を相手から感じ取った。

 ……ゆえに、両方が折れるしかなかった。二人はどちらからともなく溜息をつく。


「……そっか」

「……そうだね」


 由は両手を後ろにつき、身を反らして天井を見上げた。

 気勢を削がれた思いだった。もっと深刻な話になるかと考えていたのだが。


「……昨日、南ヶ川くんが白鴉に話したこと、少し聞いたんだ」


 その耳に、花紗里の声が届く。穏やかだった。


「私に、魔法少女を続けてほしいと思ってるって。でも私、もうやめることにした」

「え?」


 由は慌てて上体を戻した。

 花紗里は何も取り乱すことなく、ただ淡々と語っている。


「私のせいで、身近な人がバッドに襲われるのは……南ヶ川くんはそう言ってくれるけど、やっぱりすごく怖いし――」

「だ、駄目だ!」


 思わず上げたその声は、自分でも驚くほど大きくなった。

 目を丸くする花紗里に対し、小さく咳払いを挟んで続ける。


「あ、いや、強制できる立場じゃ全然ないんだけどさ……。って言うか、立場だったとしても、そんなことしたいわけじゃないんだけど。でも、自分のせいでとか、思わないでほしいんだ。魔法少女の役目はすごく立派だ。山潟さんが、山潟さんのままでやってきた良いことを、他人に遠慮してやめちゃうのは……」

「…………うん。ありがとう」


 由はたじろいだ。

 花紗里は微笑んでいた。それは控えめだが冒しがたい、小さな花のような笑顔だった。


「でも、それだけじゃないんだ。この前の戦いでちょうど、願いを叶えられる分のマターが集まったから」

「……山潟さんの、願い?」

「そう。亡くなった人を、生き返らせること」

「……!」


 思わず白鴉を見る。

 彼はいつものように頷き、自分が語るべきことを語った。


「正確には、死ななかったように過去を変える、ということになります。修復に似た処理ですね。したがって、対象となる人物が死亡した事実を覚えているのは、改変後にはお二人のみです」

「……その、対象となる人物って、やっぱり」

「うん。総来賢哉、――さん」

「でも、どうして? 山潟さん、前はその気がないって」

「そう、思ってたんだけどね」


 花紗里は由をやや斜めに見た。悪戯っぽく。


「南ヶ川くんが、あんまり馬鹿みたいだったから」

「な――何だよ、それ」


 由はつっけんどんに返した。

 くす、と花紗里は再び笑う。


「……ほら、文化祭の日にさ。助けてもらった分を返したいって言ってくれたじゃない。正直、今日日きょうびまっすぐすぎる、って思ったんだけど」

「……」

「でも、そういうのも良いな、って。私も、あの人には小さい頃から、色々面倒見てもらったんだもの。その分を返すの」


 ――たとえ、自分を見てはくれないとしても。

 ほんの一瞬だけ浮かべた寂しげな影を、彼女はすぐに首を振って打ち消す。


「だから、恩返しして、それで終わり。私の何が変わるわけでもなくて……ただ、一区切り付けるだけだよ」

「そっか。……そっか」


 由は頷いた。しばしの間を置いて、二度。

 言葉は出ない。まだ惜しむ気持ちも、心のどこかにはある。だが、それが出てこないのは――


「……本当のところ、そんな簡単に、バッド退治を他人に任せていいのかとも……思うんだけど」

「それは……どうかな」


 ――単純に、正解など分からないから。

 ネガティブフラワーがいなくなれば、彼女が受け持っていたバッドの出現を、他の誰かが担わなければならない。……あるいは、そのせいで無理が生じて、怪物の犠牲となる人間も出てしまうかもしれない。

 一方で全体から見れば、影響は所詮小さなものだ。魔法少女はみないつか辞める。その事実を踏まえた上で、白鴉やその仲間たちは行動し、新たな魔法少女を導いている。


 花紗里は助言を求めて白鴉を見た。

 彼は首を振った。横に。


「魔法少女の契約は自由意志です。介添たる我々は、そこに意見を述べることを許されていません。ただ」

「……ただ?」

「悩むのは尊いことです。自分の選択を、行動を、結果を。悩み省みてこそ、より善い道に繋げられる。どうぞそのようになさってください」

「……うん」


 花紗里は俯き、今一度自身の内を見つめた。由も白鴉も、それを黙って待った。

 由は想った。魔法を初めて目にした時の感情を。魔法少女ネガティブフラワーを。それらが失われることを。

 するうち、想いは由の心を出、空気に溶けて拡散し、目の前の少女と同じになった。そして永遠のものとなった。それは魔法の時間だった。


「……分かった。私はやっぱり、魔法少女をやめる」


 やがて、花紗里は言った。

 白鴉は言葉を返すことなく、ただ目を閉じて深々と頷いた。




 淡い光が彼女を包み、最後の変身が行われる。

 紫色のとんがり帽子に、同じく紫色の長衣。胴部を革のコルセットが締め、それら衣装の全体に、黒い花と蔓草の紋様。

 ネガティブフラワーは懐を探り、小さなポーチを取り出した。大きさも形状も様々な、薄緑色の水晶片めいたものが、その中にぎっしりと詰まっていた。


「……確かに。間違いなく、あなたの願いを叶えるに足る量があります」


 注意深くそれを検分し、白鴉が言う。

 花紗里がポーチの紐を彼の首にかける。次いで、自身の介添に、契約の証たる武器を返す。

 白鴉は器用に鳥の両足を使い、魔法の剣の柄を持った。


「お別れです。ネガティブフラワー」


 由が、部屋の窓を開けた。

 からからと鳴るサッシの音が、夏の空気にやけに響いた。


「多くの魔法少女の介添を務めてきましたが。あなたは、最も素晴らしい主人の一人でした」

「……そう。……私も、感謝してる」


 帽子の鍔を下げ、花紗里は目元を隠した。

 その衣装もまた、白鴉が還れば消える。


 ポーチと剣という荷物を持ちながら、魔法の使者は軽々と飛び立った。

 中天には太陽が輝き、澄み渡る空には雲一つない。

 その彼方へ飛ぶ白い輪郭が、徐々に小さくなっていく。花紗里と由は並んで見送る。やがて白が青に溶け、目で見ることが叶わなくなっても、二人はしばらくじっと動かずにいた。

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