2
敗北と死が続いた。
花紗里は幾度も爪に斬り裂かれ、毒の牙に噛み砕かれ、あるいは少女の手によって貫かれた。
キヌはそうする余裕さえあれば、必ず先に由を殺した。戦いが重なるにつれ、そうなる頻度は増した。花紗里にも劣らない死の経験が、少年の記憶に蓄積していった。
「……山潟さん」
既に何度目のやり直しかも分からない。
その時部屋の入口に現れた花紗里は、もはや姿を消してもいなかった。剣を持つ手はだらりと下げられ、顔は俯いて帽子に隠れている。
「もういい。逃げてくれ。このままじゃ駄目だ。僕のことはいいから」
「そうなったら、私は彼を殺して、あとは適当な人間で数を満たすことにするわ」
由の言葉を、キヌが遮る。
極度の疲弊を見て取ったゆえか。彼女は最初の攻撃を繰り出さず、蜘蛛の体を床に下ろす。
「よほど負けが込んでるみたいね。もう何回やられているの? そろそろ諦めた方がいいんじゃないかしら」
巻き戻しの記憶を保持しないがために、キヌは
この場においてはただ彼女だけが、定まっていない未来を眺め、生の期待を抱く一人だった。
平坦であり続けていた態度にも、隠しようのない喜色が滲む。
「……本当に」
対して、花紗里の声は亡霊のそれだった。
「……もう、嫌だ。こんなになってまで。私、何も」
由はきつく目を閉じた。悔しかった。彼女にそう言わせることが。自分が本当に何もできないことが。
どんなに強く想おうと、奇跡が助けてくれたりはしない。そんなものは馬鹿げた空想だ。いかに魔法が存在するとしても。
……いや。魔法が確かに存在してさえ、目の前の状況は覆せないではないか。
「可哀想」
キヌはくすくすと笑った。
大爪が無造作に花紗里の腿を刺す。消耗した喘ぎと共に、彼女は床に引き倒される。
「……私の、力は」
怪物は容赦なく傷口を捏ね回した。尻餅を突いて座り込むような姿勢の花紗里の足元に、徐々に赤色が広がっていく。
蹂躙を無抵抗に受け容れる彼女が、うわ言めいた言葉を漏らす。苦痛に全身を震わせながら、魔法の剣の柄を強く握る。
由が何事か叫んでいる。
「本当、こういう時、どうしようもないんだ」
その切っ先に輝きが灯る。
見下ろすキヌには死角だった。花紗里の体が遮蔽となって。あるいはそうでなかったとしても、仇敵をいたぶる喜びに囚われ、注意を払わなかったかもしれない。
なにしろ彼女はもう知っているのだ。花紗里の魔法は音と光の操作。用途となるのは隠密や撹乱。それが通じない相手には無力。
「でも、今は、おかげで……すごく、ひどい気分だから」
輝きは剣全体を包み、脈打ちながら膨れ上がり、極めて長大な光の刀身となる。
彼女はそれを打ち振るった。高熱の刃が閃き走り、キヌの頭から床へと抜けた。
「な――」
無力、だった。
驚きを
花紗里の足の痛々しい傷と、煙を上げる床の亀裂を残して。
魔法少女の真の敗北は、心が折れることによって成る。
しかしネガティブフラワーにとって、そこに近付くことは有利でもあった。彼女は最初から負の思考を抱えている。そして、魔法の出力は思いの強さで決まる。
であれば絶望しきった時こそ、その魔法は最も強くなる。普段は目眩ましにしかならない光を、レーザーの域にまで束ねられるほどに。
由は呆気に取られてそれを見た。
すると唐突に糸の拘束が失せ、体を床に投げ出される。
打ちつけた衝撃が骨に響き、また縛られた四肢が痺れてもいた。だが彼は自らに鞭打って、よろめきつつも立ち、駆けた。
「山潟さん!」
振り返る動きは鈍かった。
顔色は白を越して蒼白になり、浮かんだ汗に髪が張り付く。片足にはぞっとするような穴が空き、出血がスカートを不気味に染めている。
“修復”によって治るのだろうとは言え、直視が躊躇われるほどの傷だった。
痛みと緊張で半ば茫然としながら、彼女は言った。
「……ごめん。ごめん、なさい」
由は面食らった。
謝るのは自分の方だと思った。自分が捕まったせいで彼女は無理に戦わねばならず、結果として大怪我を負っている。
「何度も……。私、弱くて。何度も、南ヶ川くんを、助けられなかった」
「……あぁ」
一方で、気にしなくていい、などと単純には否定できなかった。自分が花紗里と同じ立場なら、同じことを考えただろうから。
由は
「……確かに、僕もひどい目にあったけど。山潟さんは僕よりずっと大変な思いをして、こうして助けてくれたんだから、感謝する以外にないよ」
だが、笑いかけるのには失敗した。
顔の両側を熱いものが伝うのが分かった。花紗里の表情が泣き出しそうに歪む。そんなつもりではなかったのに。
「本当に、良かった。僕は、山潟さんが……ひょっとしたら、今度こそ――」
そこから先は、言葉にならなかった。
「ごめん。……ごめん」
なんとかそれだけを口にすると、花紗里の目からも涙が溢れた。
震える由の肩に縋って、彼女は子供のように声を上げて泣いた。
◆
どうやって家に帰ったのか、由はよく覚えていない。
次の日の記憶も曖昧だった。
心の
気が付けば夜になっていて、母親が心配げに様子を見に来た。体調が悪いとだけ伝えていたのを、その時になって自分で思い出した。
その翌日はいくらか調子が戻り、学校にも行った。
そこで花紗里が昨日から続けて休んでいることを知った。風邪を引いたという連絡らしかったが、実際の原因が別にあるのは容易に確信できた。
文化祭で連れ回しすぎたんだろう、という友人たちのからかいには、どのように反応したのだったか。
その夜のことだった。
自室で覚束ない考えを巡らす由の耳に、カツカツと窓を叩く音が聞こえた。
見れば暗いベランダに、小さな白い影が佇んでいた。彼は驚いてガラス戸を引き開けた。影は恭しく礼をして部屋に上がった。
「……白鴉? どうしたんだ、一体」
「夜分に申し訳ありません。ネガティブフラワーはこう仰いました。南ヶ川くんが心配だから行ってあげて、と」
由は力なく苦笑した。いかにも花紗里らしい指示の出し方だった。
「……どちらかと言うと、山潟さんの方が心配だよ」
「そうでしょうね」
白鴉が頷く。由は彼を見た。少し、普段と様子が異なっている気がした。
「……怒ってるのか?」
「私が? なぜですか?」
「それは……僕が、山潟さんを危ない目に遭わせたから」
「ふむ。それは誤解があります。……失礼ながら、机の上をお借りしても?」
「あ、うん」
了承を得ると、彼は軽やかに飛び、教科書類の載った机に居所を取った。
由も椅子を引き、それに座る。あるいはそうさせるためにこそ、白鴉はそのように求めたのかもしれない。
「前提として申し上げさせていただくと、魔法少女となった時点より、彼女たちは常に危地にあります。いつ現れるか分からないバッドとの戦いに、進んで身を投じるのですから」
「……それは、そうかもしれないけど……」
「その上で、あなたはネガティブフラワーの身を案じ、彼女に善い影響を与えてくださいました。私が不満に思う道理はありません」
「僕が?」
由は目を瞬かせた。白鴉はごく自然に首肯する。
「あなたと出会って以来、ネガティブフラワーは楽しげな様子でした。直接あなたの名前を出すことはさほどありませんでしたが」
「……たしか、山潟さんの魔法少女の素質は、負の思いの強さが大きかったんじゃないっけ?」
「はい」
「じゃあ、そのせいで、魔法の力が弱まったりもしたのかな」
「はい」
「……じゃあ、やっぱり白鴉にとっては迷惑だったんじゃ?」
「いいえ」
遠い記憶を仰ぎ見るごとく、滑らかな嘴が上を向く。
そこから紡がれ出す言葉には、幾度も語られた話に宿る、古い詩のような響きがあった。
「魔法少女は、みないつか辞めます。子供の思いはどんなものであれ強い。ですが、それを変わらず持ち続けるものは極めて少ない」
「……山潟さんが、そうなるってことか?」
「時期までは分かりませんが、いずれ。死を嫌ってではありません。彼女の心もやがて凪ぐ。それが幸いなのでしょう」
由の脳裏に様々な光景が去来した。
一昨日の顛末。見えぬバッドとの苦闘。尋正と自分を共に救ってくれた時のこと。
そして、いつか最初の記憶。殺されるのを待つばかりだった自分を運命から解放した、風変わりな少女の姿。
「……僕は……」
傍から見ていてさえ恐ろしかった。彼女の死は想像を絶する責め苦だった。花紗里本人はどれだけ戦いが恐かっただろう。自分が二度と経験したくない死を、花紗里はどれだけ乗り越えてきたのだろう。
しかし、そこには美しさがあった。単なる視覚の情報だけでない、生きて意思を通すことの美しさが。それに自分は惹かれたのではないか。
「……少し、嫌だな」
白鴉が首を傾げる。
嫌だ、というのは正確ではないかもしれない。言葉を探す。
「……もったいない、気がするよ。いや、どっちにしても身勝手なんだけど」
「……ふむ」
「せっかく、山潟さんが……後ろ向きなところもあるんだとしても、そういう山潟さんのままでさ。人を助けたり、そのために魔法を使ったり、すごいことをしてたんだ。それが……あぁ、なんて言ったらいいんだろう」
「ネガティブフラワーの、今の性質が、失われるのが惜しいということでしょうか」
「そう。……そうなのかな。そうだと思う」
花紗里が魔法少女であることは、彼女の痛みが、それを抱えたままでいることが、世界に受け容れられていた証であったような気がする。おそらくは彼女本人も、似たように考えていたのではないだろうか。
過去への苦悩を捨てずに生きていても、意味のある行いを為し、善い未来に歩を進めることはできる。
……そうであると、思いたい。負の思いを全て否定して、それがなくなったからめでたしだ、と短絡的には考えたくない。
花紗里に安寧が訪れること自体は、喜ばしいのだけれど。
「……白鴉。山潟さんは、どうしてるんだ?」
「精神的な疲労が見られましたが、おおむね回復しています。ただ、自身の死亡はまだしも、あなたを死なせてしまったことについて、自分を責めている様子でした」
「本当に、そんなのはいいんだけどな。……会いに行っても大丈夫かな?」
「拒否はされないかと」
由は壁にかかったカレンダーを見た。
都合よく、と言うべきか、明日は休日になっている。
「……じゃあ、よかったら明日にでも行ってみるよ」
「かしこまりました。お伝えしておきます」
「あ、ごめん。お願いする」
「はい。では、私はこれで」
由が来た時と同じ窓を開けると、白鴉は翼を鳴らして飛び去り、夜の闇の中へと消えた。
その日の眠りは深く、夢を見ることもなかった。
◆
「ただいま戻りました」
由の家から戻った白鴉を、寝間着姿の花紗里が迎える。
泣き腫らした目も、その下の隈も、今は大方もう癒えている。
「……南ヶ川くんは、どうだった?」
声だけは、まだ少し嗄れていた。
痛む喉を指先で押さえて話す様は、格好も相まって消耗を印象付ける。
「あなたを心配していらっしゃいましたよ、ネガティブフラワー」
「……私なんか、いいのに」
どこか不満そうに彼女は言い、再びベッドに腰を下ろした。
白鴉も小さく飛行し、この部屋における彼の定位置、テーブルの上の止まり木に収まる。
「ついては明日、こちらへいらっしゃりたいということでした」
「そう。……分かった」
花紗里が頷き、会話がひとたび途切れる。
時計の針の進む音だけが、静かな空間に時のあることを示す。
「……考えたんだけどさ」
「はい」
やがて、花紗里が口を開いた。
「決めた。私、魔法少女はもう、これまで」
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