4.ネガティブフラワーはネガティブである
1
ぼやけたレンズを通したように、世界の輪郭が歪んでいた。
花紗里と別れ、由は一人で家路にある。……その光景を、今の由自身が、異なる第三の視点から見ている。
やがて突然、歩く彼の背後に、何者かの影が現れた。
それは速やかに獲物の意識を奪い、瞬き一つの間に連れ去って――
……赤く暗い非常灯めいた明かりだけが、地下のその部屋を照らしていた。
曖昧な視界。どうやら元は飲食店か何かだったらしい。左の壁にはカウンター席が並び、右には椅子とテーブルの残骸がまとめて積み上げられている。
それなりに古い廃墟なのだろう。床は何箇所かで黒く欠け、天井には
悪夢。
そうであれば、まだよかった。
由は目を見開いた。急激に意識が覚醒する。彼は動かない手足を見た。そして自分の体が今、何重にも巻き付けられた細い糸によって、天井から吊り下げられていることを知った。
「あら。やっとお目覚めかしら」
正面から声。
いつの間にか銀髪の少女が現れている。いや、最初からいたのかもしれない。
「だ――」
誰だ。
由はそう問おうとして、やめた。おのずから分かった。このようなことをする相手など一つだと。
「……バッドか」
「へえ。意外と冷静なのね。そうよ」
少女は事もなげに頷く。
セーラー服のスカートの裾を、芝居がかって摘んで見せる。
「キヌって言うの。よろしくね、南ヶ川由くん」
「な……」
だが、その口から発せられた自分の名前は、不穏な響きを持って由の精神を揺さぶった。
なぜ知っているのか。その反応を一瞥し、キヌは再び小さく頷いた。
「よかった。ちゃんと合ってたみたい。ネガティブフラワーのお友達」
「……!」
彼女の声は抑揚を欠き、それだけに潜まされた意図が怖ろしい。
由は歯を噛んだ。顔に険を作り、精一杯の力を込めて人ならぬ少女を睨みつける。
「……何をする気なんだ」
「当然、あなたをエサにして、あの魔法少女を誘き出す」
それをまるで意に介すことなく、キヌは平然と答えを返す。
「そして殺す。魔法少女は死んでも生き返るそうだけど。もう二度と生き返りたくないと思うまで、何度でも殺すの」
少年は凍えるような感覚を味わった。
この相手は本気だ。それが分かる。そのために花紗里の情報を集め、であるからには十全の備えをしているのだろう。
由は力を振り絞って暴れ、己を縛る糸から抜け出そうとした。……ぴくりとも動かない。当然、そのようにしたはずだ。キヌはただ黙って無駄な足掻きを見ていた。
「……どうして……そんなこと、するんだよ」
やがて、由の体力が尽きた。
彼は荒く息をつきながら、掠れた声で問いを向ける。
「あいつが、私の大事な方を殺したから」
「……それは、お前たちが人を襲うからじゃないか……!」
「そうね」
キヌは歩み寄り、細い手を由の頬に添えた。死人のように冷たい手だった。
「私たちは、こちらの世界で多くの生物を狩れば、より高次の存在へと昇ることができる。別に虫や獣だっていいんだけど、人間が一番得点が高いの」
「勝手な――」
「ええ。私たちは勝手にしているわ。だから魔法少女が邪魔をしてきたって、それに文句を言ったりはしない。人間の勝手だもの」
彼女はなおも顔を寄せる。長い睫毛のかすかな震えすら、文字通り眼前のものとなる。
由は間近で赤い瞳を見た。宝石細工と見紛いかねない、無機質で固形の輝きを。しかしてその奥底に、渦巻き爛れる溶岩のごとき熱が通っているのを見た。
「けれど」
そして不意に、キヌは離れた。
「そう割り切ってあげるのは自分の時だけよ。お姉様が私の知らないところで、どうでもいい誰かの手で死んだなんて、絶対に認めない。許さない」
何も、変わっていない。
少なくとも外見上はそうだ。無表情であり、言葉にも感情は乗っていない。
だが、目の奥の
由と向き合うキヌの姿には、明らかに先程までとは違って、胃が冷たくなるような忌まわしさがあった。
「……お前が殺す相手にだって、死んでほしくないと思う人間はいるんだぞ」
「よく分かっているわ。だからあなたみたいな人質が有効になる。……さて」
少女は背後を振り返った。
由が拘束されているのと反対側の壁には、地上からこの場所へ通じる階段がある。
「仲良しの子が来たみたい。暖かく迎えてあげてね、由くん」
そう言うと、キヌは人外の脚力で跳躍し、天井の隅の暗闇に潜む。
由は叫んだ。
「山潟さん、来ちゃダメだ!」
あまりに虚しい台詞だった。
こんな場面にお決まりの、言われたからとて素直に帰れるわけもない、意味のない言葉。
だが実際に口にせざるを得ない立場になって、由には初めて分かった。本当に無力な囚われの身には、他にできることがないのだと。
五秒。十秒。
少年の声が残響し、やがてそれも消える頃になっても、変化は起こらない。
……一見は。
突然、キヌの潜む暗がりから、粘つく糸の束が放たれた。
それは一直線に部屋の入り口を目掛け、何かに振り払われて宙に散る。
(見破られてる……!)
由が抱いたのは焦燥だ。
何が起きたかは彼にも察しが付く。姿と音を消して突入した花紗里が、敵の初撃を剣で弾いた。魔法少女の武器たるレイピアは、不浄な糸の付着を受け付けない。それはいい。
だが何故キヌは彼女を狙えたのか。今とて由の目には花紗里が見えない。かつてのバッドと同じように、不可視化に対抗する能力があるのか。
だとすれば――
「生意気ね」
巨体が地に降りた。
由はおぞましさに呻いた。セーラー服のスカートが、裾を大きく広げている。その下に現れた体積に押し退けられて。
銀髪の少女の腰から下は、不気味な大蜘蛛に変じていた。青白い表皮、深紅の複眼。八本の脚の半ばから先は、黒々とした大爪に置き換わる。
「今ので大人しく捕まっておけば――まあ、楽に終わらせてあげる気はないけれど。それでも少しは加減してあげたのに」
ギチギチと蜘蛛が牙を鳴らす。その上に跨るような姿勢の少女が、
それは先とは違う場所へ飛び、またも中途で切り払われる。
つまり、防御する必要があった。そしてその時には既に、多脚で急激に加速した大蜘蛛が、暴走車じみた勢いでその地点に迫っていた。
「ぐ……っ!」
鈍い音。苦痛の声。見えない何かが跳ね飛ばされ、椅子とテーブルの山に突っ込み、耳障りな崩落を起こす。
「はい、おしまい」
キヌはごく淡々と事実を述べた。
倒れ伏し、糸に巻かれ、廃品の山に圧し掛かられた少女に、もはや抵抗の術はない。紫の帽子の鍔の下で、その表情が痛みと悔しさに歪む。未だその手に握られた、しかし動かすことのできない剣が、無頓着に冷然と輝いていた。
「ネガティブフラワー。これから、あなたを殺す」
怪物が宣告する。
そして爪と床との間に硬い音を立てながら、それは歩み寄った。由の元へ。
花紗里の目に驚きと恐れが満ちた。
「でもその前に、友達に先に行ってもらいましょうか」
「やめ……げほっ、こほっ!」
花紗里が咳き込む。不自然な姿勢に固められたまま。
キヌは反応を返すこともなく、脚の一本を持ち上げて、巨大な爪を由の胸に添えた。この暗い地下の空間にあって、それは黒々とした光沢を見せた。
「言い残すことはある?」
バッドが尋ねる。
彼はただ魔法少女を見た。恐怖はない。不思議なことではなかった。
花紗里は苦しげな呼吸をしながら、どうにか糸を脱そうともがいている。その悲壮な姿の方が、命の危機よりも強く心を裂いた。
キヌを見る。変わらず眉一つ動かしていない。そこに慈悲があろうとは思えなかったが、縋るしかなかった。
「頼む。僕は殺していいから、彼女のことは――」
「意味のない提案ね」
言い終わらぬうちに、大蜘蛛の爪が体を突き抜ける。
視界が真っ赤に染まる。明滅しながら薄れる意識の中、最後に花紗里の悲鳴が聞こえた。
「――仲良しの子が来たみたい。暖かく迎えてあげてね、由くん」
目覚めは激しい衝撃を伴った。
胸を見る。傷はない。キヌは天井に跳び上がった。自分は未だ糸に縛られている。
あの時と同じだ。授業中に巻き戻しが起こり、変わらない場面が何度も繰り返された時と。
「くそっ……!」
つまり、状況は何も好転していない。
由は
激痛。飛び散る自身の血。花紗里の悲鳴。そして。
(……あれ……?)
そして、何かに気付いた。目が機能しなくなる直前の一瞬に。
己に強いて光景を想起する。飛び散る自身の血。それが床を濡らし、染め出した。
そのままではほとんど見えない、細い、何本かの……糸?
「――山潟さん! 糸が張り巡らされてる!」
思い出すと同時、由は叫んだ。
おそらく、それが感知する手段だ。姿も足音も消した花紗里の位置を、部屋中に張った糸の震動で、まさしく蜘蛛の巣のごとく知る。
闇に潜むキヌが身じろぎする。動揺によって。
それでも彼女は遅滞なく攻撃した。放たれる糸。結果は既に知る通り。花紗里にも記憶が残っている以上、初手には問題なく対処できる。
正体を現したキヌが降る。その表情にはほんのわずか、不快げな困惑の陰がある。
「……よほど勘がいいのかしら。それとももう何度目かのやり直し? 本当にずるいわ」
言いながら、キヌは再び糸を放つ。不可視の剣が切り払う。直後に襲った体当たりも、此度はただ空を切る。
彼女は横を見た。そちらに花紗里が移動したのだろう。脚の何本かを持ち上げて寄せ合い、盾じみて防御する体勢を作る。魔法の剣と黒爪がぶつかり合い、硬く澄んだ音を立てる。
「……でも」
直後。
キヌが……大蜘蛛が、立ち上がった。
後脚の二本だけで体を支え、残りの六本を大鎌のごとく構える。上向いた蜘蛛の口が剣呑に唸り、濃緑の毒液の涎を垂らした。
「居場所が分からなくなったわけじゃない。かくれんぼだけが能の弱虫に。私が……負けるものですか」
大蜘蛛の腹の先が反る。不可視の敵へ狙いを定める。
射出口に似たその先端から、膨大な粘糸が迸る。扇状の洪水めいて、白い糸は波打って押し寄せ、端の一部が不自然に
花紗里は心臓の音のない鼓動を聞きながら、自らに噛み付いた糸を断ち切る。……その腕に、新たな糸が絡んだ。蜘蛛の背で、少女が上体を持ち上げ、花紗里へと手を向けていた。
糸が獲物を引き寄せる。
花紗里は成す術なく宙を舞う。その先には抱擁するがごとく広げられた六本の爪。苦し紛れに光と音の爆発を起こす。キヌは動じない。
由は凍りついてそれを見ていた。胸の内に生じた昂揚は影すらも残っていない。
やがて、糸の途切れた先端、すなわち花紗里の体がある所に、蜘蛛の爪が振り下ろされた。
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