3

「……すみません、先生。保健室に行ってきていいですか? 少し具合が悪くて」


 花紗里はそう言って立ち上がった。


「ああ、いいぞ。一人で行けるか?」

「はい。大丈夫です」


 ――バッドが出現したのだ、と由には分かった。

 教室を出た彼女の行く手、廊下の窓に、白い鴉が舞い降りるのが見えたために。


「えー、では次。『すると上人は頷いて、わしは中年から――』」


 由は考える。

 松村千に聞いた話が、あれ以来ずっと頭の中を巡っている。

 花紗里と親しかったという総来賢哉なる人物。彼は花紗里と喧嘩をして、その後この世を去った。

 ……おそらく、和解することのないままに。花紗里や彼女の母親、そして千の様子から、そうなのだろうと思う。


 花紗里は彼を蘇らせる気なのだろうか。そのために魔法少女になったのだろうか。

 だとしたら、自分が関わる隙間はあるのか。

 元々彼女たちの関係の中にいなかった人間であり、花紗里のように魔法が使えるわけでもない自分が。


(「……だから、もしきみがあの子を好きなんだったら、気を紛らわせてあげたらどうかなって」)


(……それは、きっと邪魔をするだけだ)


 浮かび上がった声を否定する。

 そう――答えは見えている。自分にできることはない。

 花紗里はいずれ自分で道を拓く。余計な手出しは無用なのだ。


 思えば最初からそうと察しつつ、自分の願望を通してきた。

 もう十分満足すべき時だ。未練は感じる。だがそれはきっと、子供っぽい欲求というやつで――


「えー、では次。『すると上人は頷いて、わしは中年から――』」

(……あれ?)


 不意に、違和感が思考を現実に引き戻した。

 先程も同じことを聞いた気がする。そう思って周囲を見回すも、クラスメイトに不審がる様子はない。

 我ながら集中していたとは言えないのだし、ならば単純に気のせいか。


 そう納得しようとしたが。


「えー、では次。『すると上人は頷いて、わしは中年から――』」


 まただ。

 話の流れも明らかにおかしい。にも関わらずまた誰も指摘しない。

 背中に嫌な汗が浮くのを感じた。時計を見て時間を確かめる。10時12分。さらにノートに適当な文を書き込む。


「えー、では次。『すると上人は――」


 ――時計を見る。10時6分。ノートを見る。書いた文が消えている。


「あ、おい! どうした!」

「すみません! 僕もちょっと体調が!」


 驚く教師と友人たちを尻目に、廊下へ飛び出す。

 気のせいではない。何かが起きている。異常なことが。

 真っ先に浮かぶのは山潟花紗里。彼女はどこに行ったのか?


 グラウンドへ走る。見通しのいい平らな砂地に、人の気配はない。

 ざっと見回して踵を返す。

 直後、眩暈がした。


「えー、では次」


 気が付くと教室に戻っていた。教師は何度も繰り返した箇所を読み上げ、生徒は初めてのようにそれを聞いている。

 もはや言い訳もせずに飛び出す。校舎の中を見て回る。三階まで確認し終えるのに、途中で二度戻された。

 校舎の裏手へ回る。白い鴉が飛び来たった。


「白鴉!」

「申し訳ありませんが、この先はお通しできません。危険です」

「……いや。悪いけど、行くよ」


 答えは聞かず、彼の横をすり抜ける。


「……なるほど」


 妨害はない。代わりに短い呟きが聞こえ、羽音がすぐ背後に続いた。


 その先の空間には、見覚えがあった。

 校舎と、プールや体育館との隙間。立ち並ぶ桜の花は散り、今はただ枝葉のみを広げている。


 いつかと同じように、そこに花紗里がいた。

 紫の帽子に、紫の長衣。右手には銀色に輝くレイピア。

 彼女は肩で息をして、元々白いその顔は、今は病人のように青ざめていた。


「山潟さん!」


 思わず呼びかける。

 こちらを向いた彼女が目を見開く。


「南ヶ川くん!? 来ちゃ」


 その瞬間、“何か”が暴れた。


 目に映るものは何もないのに、突如花紗里が跳ね飛ばされる。鈍い音。細い体が宙を舞い、成す術もなく地面に落ちる。

 彼女は歯を食い縛って立ち上がる。ふらついている。その周囲で大気がうねる。


 花紗里は剣を突き出した。当てずっぽうだったのだろう。仮に捉えていたとしても、弱々しい刺突では効果があったかどうか。

 直後、湿った音が響いた。肉を潰し切るような、怖気のする音が。


「あッ――」


 少女の体が傾く。

 帽子の陰に隠れた頭の、おそらくは首があるところから、夥しい血が噴き上がる。

 それはぼたぼたと音を立てて降り、周囲の地面を赤く染め、彼女の紫の衣装を汚した。


「や――」

「えー、では……?」


 またも、教室。

 突然大声を出した自分を、教師やクラスメイトが驚いて見ている。


 ――走る。

 再び校舎裏へ。白鴉は今度は何も言わない。

 花紗里もまた同じ場所にいた。彼女は一瞬だけこちらを見た。その顔がどこか悔しげに歪んだ。


「……いる、のか。バッドが」

「はい。見ることはかないませんが」


 傍らに立つ白鴉を見る。

 彼は至って冷静だった。


「……どうなってるんだ?」

「当初、ネガティブフラワーは姿を消した状態で臨みましたが、見破られました。それからは魔法を使っていません」

「じゃあ……まずいじゃないか。一度逃げるなりした方が」

「難しいですね」


 不可視の怪物の攻撃が始まった。

 わずかな風の動きだけを頼りに、花紗里は大きく横へ飛び退いた。その左腕が深く抉られる。

 押し殺された悲鳴が上がる。


「ここでネガティブフラワーが退けば、敵は他の人間を襲うでしょう。そうなれば、勝ち逃げを許す可能性があります」

「勝ち逃げ?」

「はい。多数の生物を殺したバッドは、自らこの世界から退去します。すると最早倒す手段は失われ、修復も不可能になる。被害を取り戻すことができなくなるのです」


 唇を噛み締める。

 ここは学校だ。バッドにとっての獲物が密集している。止める者がいなくなれば、短時間で多数の犠牲者が生まれるだろう――それは分かる。

 だが。


「だったら……だったら、どうするんだ。このままじゃ山潟さんが――!」

「平気。……慣れてるから」


 激昂しかけた自分に水を浴びせるように、抑揚のない声が言う。

 血に染まった左腕をだらりと垂らしながらも、花紗里の目は怪物を、それがいるのであろう場所を見据えていた。

 慣れている。その言葉の意味に思い至る前に、言葉は続く。


「何度か、戦って……なんとなく、分かってきた。こいつ、多分」


 再び、空気が渦を巻く。

 その瞬間、桜が作り出す小さな木陰に、おぼろな影が見えたような気がした。

 花紗里は剣を指揮棒のように振り、空に向けて高く掲げる。


 魔法の力が走った。

 まるで太陽が消え失せたかのごとく、辺りが夜の帳に包まれる。


 驚いて見回す。しかし頭上の太陽に変化はなく、離れた地点には未だ日が射す。

 察するにこの付近にだけ、届く光の量を制限したのか。


 そして、狙いは功を奏した。

 目をみはる。今まで何もないと思えていた場所に、醜悪な怪物の姿がある。

 ワニとカメレオンを掛け合わせ、自動車並みに大きくしたかのごとき外見。

 それは隠身を暴かれたことに気付いてか、飛び出た目玉をぎょろぎょろ動かし、牙の並ぶ口から激しい威嚇音を発した。


「……やっぱり。明るいところでだけ、姿を消せる」


 怪物が襲いかかる。巨体に見合わぬ敏捷性。粘つく涎を撒き散らしながら、少女の体を食い千切らんと迫る。

 魔法少女はレイピアを構える。鏡のようなその瞳に、跳躍するバッドが映る。


 その次のやり直しリトライで、花紗里は勝利した。







 猛獣じみた怪物が消える。

 力なく地面に横たわり、その身を銀色の霞へ還らせて。

 同時に魔法は役目を終え、辺りに白昼の光が戻る。


「山潟さん!」


 それを待つこともできず、由は花紗里に駆け寄った。

 彼女は最後には傷を負わなかった。その表情は普段通りに見える。あのようなことの後だというのに。


「南ヶ川くん……」

「ごめん」


 由は頭を下げた。

 花紗里は困ったような顔をして、帽子の鍔を少し目深に下ろす。


「……そうだね。危ないから、来ないでほしかった」


 違う。そして、そうだ。

 顔を上げることができないまま、由はどうしようもない苛立ちを感じていた。

 危ないに決まっていたではないか。人を殺す化物と戦うのだから。にも関わらず何を自分は、ヒーロー相手のように無邪気に褒めそやしていたのか。


「これからは、駄目ね。おかしいと思っても、じっとしてて。私も……負けるところとか見られると、恥ずかしいし、さ」


 これから。

 無論、これで終わりではないのだ。彼女はこの先もバッドと戦う。時に今回のように敗れ、死にながら。


「……そうやって山潟さんが戦うのは、総来さんを生き返らせるためなの?」


 しまったと思った時には既に、その質問が口をついて出ていた。

 花紗里が息を呑むのが聞こえた。


「……誰から聞いたの、そのこと」

「……松村千、さんに」

「そう。……そうなんだ」


 そっと目を上げる。

 彼女はどこか別の場所を見ていた。松村千がそうした時と、二人の印象は奇妙に似ていた。


「違う。……私は、そんなつもりなんかない」

「……そうなの?」

「そうでしょ。だって、あの人を生き返らせて、それで私はどうするの? その後もまた魔法を使って、松村さんから奪ってでもみる?」


 少女は笑った。

 それはおそらく、由が初めて目にする、山潟花紗里の笑顔だった。


「みじめすぎるよ」


 由の全身を、おそろしく熱いものが駆け上がった。


「――なら、もういいじゃないか! 山潟さんが苦しみながら戦う意味なんか、それじゃ――」

「やめて。……この魔法だけが、私が、私の思いが、特別だったことの証なんだ」


 熱が、詰まる。

 ……思いの強さが、魔法少女の素質。

 そして今、その思いは、彼女の目尻に雫となって光っている。


「山潟さん――」

「……ごめん。私、今日はもう帰るね。白鴉、後はお願い」


 そう言って、花紗里は背を向けた。白鴉が静かに了承の返事を返す。

 由は何も言えずにその姿を見送った。彼女が視界から消えてもなお、しばらくそうして立ち尽くしていた。


 どこかの教室から授業の音が聞こえる。

 日常は変わらずに回っている。その隅で誰かが悲しみを抱えていても。


「……白鴉」

「はい」


 由が呼びかけると、すぐに反応があった。


「魔法少女は……バッドに負けると、時間が巻き戻るってことなのか?」

「そうなっています。その際に記憶を保持するのは、魔法少女と介添、そして介添の体の一部を持つ者だけです。あなたのように」

「つまり、自分が死んだ記憶も、山潟さんには……」

「残ります。魔法少女はそれによって前回の死因を学習し、最終的にバッドに勝利することが期待されています」


 由は振り返った。

 佇む白鴉の様子は、普段と何も変わらない。


「……どうして、教えてくれなかったんだ」

「ネガティブフラワーに止められておりました。心配されたくないからと」


 白鴉は言った。


「幸いにして、死の記憶による精神への悪影響は、彼女にはさほど見られません。その点では、彼女はやはり才能があると言えますね」

「それは……。……そう、なんだな」


 もっと言うべきことがあるような気がする。花紗里もそれを考えて、白鴉をここに残したのだろうから。

 だが、由はただ頷いた。今は何も思いつく気がしなかった。


「……ありがとう。もう、大丈夫だ」

「よろしいですか?」

「ああ」


 一度だけ首を傾げて、鴉は飛び去った。

 由は校舎に戻ろうとした。数歩行ったところで、彼は躓いて転んだ。反応が遅れて手を突きそこね、したたかに額を打ち付ける。

 血が流れ出し、ひどく痛んだ。


(……死ぬのは、この何倍痛いんだろう)


 果たして今日は、何度時間が巻き戻っていただろうか。

 その度に花紗里は死んでいた。とても想像が付かない。

 想像が付かないようなことを、彼女はこれまでずっとやってきたのだ。


「……僕は、馬鹿だ」


 呟いた声は誰にも届かず、ただ春の暖かな空気に溶けた。

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