2
「忘れ物ない?」
「大丈夫のはず」
由は靴を履きながら答える。
爪先の具合を確かめつつ振り向くと、上がり口に立つ花紗里からは見下ろされるような格好になった。
白鴉は見送りには出てきていない。果たして、彼はこの家でどういった扱いになっているのか。
「それじゃあ、また……学校で」
「うん」
何と言うべきかわずかに逡巡し、結局は無難な言葉を選ぶ。花紗里が頷く。
……その姿を見て、ふと、自分はこれからどうするのかと疑問が湧いた。
当初気になっていたことは聞けた。では、これで満足して、自分は自分の日常に専念するのだろうか。
「……どうしたの?」
「あ、いや――」
そんな思考が顔に出たのか、首を傾げられてしまった。
「――なんでもない。ま、また学校で!」
「……? はい。またね」
慌てて取り繕い、背中を向ける。怪訝そうな眼差しが痛い。
早く去ろうとドアノブに手を伸ばす。次の瞬間、扉が向こう側から開いた。
目を瞬かせて見守る先で、小柄な人影がのそのそと入り込み、呑気そうな声を上げた。
「ただいま――」
そして、それと自分の目が合った。
中年の女性。どこか花紗里と印象が似ている。
「――まあ。まあまあまあ! 花紗里のお友達!?」
途端に、彼女は喜色を
花紗里の表情が視界の端で歪んだ。
「あ、」
お邪魔してます。
そう口にするよりも早く、がっちりと両手で腕を掴まれる。そしてぶんぶんと上下に振られる。
「もう帰っちゃうの? ちょっと待って、お茶お出しするから! それともこの後用事とかある? ない? なかったらぜひ!」
「や、それは大丈夫です、けど」
思わず正直に答えてしまう。バカ、と背後から小さな声が飛んだ。
時既に遅し。半ば引きずられるようにして、再び家の中に招待され、
「さあ、食べて食べて!」
――そして今、大皿に盛られた茶菓子の山に、さらに大量の追加が注がれた。
その手前に置かれた湯呑みからは、湯気と共に緑茶の香りが立ち昇っている。ただし、湯呑みはビールジョッキ並に大きい。どこで売っているのだろうか。
「あたしはお茶するのが好きなんだけど、ついつい買いすぎちゃうのよねぇ。あの子も最近は友達とか連れてこなかったから」
そう言う花紗里の母親は、なるほどふくよかな体つきをしていた。
由は曖昧に笑うしかない。
リビングのテーブルに座っているのは、由と花紗里の母の二人だけだ。
花紗里は早々に自室に退避した。母親は二、三小言を言ったものの、娘の意志は曲げられなかった。
「あの子――花紗里は、どう? 学校では」
「それは……」
「……やっぱり、あんな感じ?」
答えに詰まると、にこやかな笑顔が少し
それを見ると、訳もなく心が痛む。
曰く、以前の花紗里は、もっと元気が良かったのだという。
由としては意外なことだった。彼女は元来あの気質なのかと思っていたために。
「……まあ、明るい方じゃなかったけど。それでも、あそこまでじゃなかったのよ」
そう言って、母親は自分用の湯呑みを取って飲んだ。
それもやはり巨大だった。
「今もたまに出かけてはいるみたいだけど、学校や友達の話なんて全然しないし。だから、南ヶ川くんが来てくれて、ちょっと安心したわ」
「……なら、良かったです。僕も、そんなに親しくさせてもらってるわけじゃないんですけど」
ぽつぽつとした言葉のやり取り。
その間、由はやや上の空でいた。以前はもっと元気だったという言葉が、耳の中で反響しているようだった。
尋ねるのは簡単だ。
だが、踏み込む理由が――権利が、自分にあるのか。そもそも今ここにいるのも、
南ヶ川由は山潟花紗里にとって、果たしてどれだけの存在であるだろう。自分がやろうとしているのは、ただ自分の欲求のために、外野から口を出す行為なのではないか。
(……けど。じゃあ、いるかも分からない他の誰かに任せるかって言ったら――それは、違うだろ。……と、思う)
間違っていない自信はない。
本当は、もっとしかるべき立場の人間がいるのかもしれない。あるいは、花紗里本人が全てを決めるべきで、他人が首を突っ込むことではないのかもしれない。
……それでも。そこまで考えても消えないこの気持ちを、今は信じたい。
「……その。訊いても、いいですか?」
由が不意に発したその問いを、花紗里の母親は黙って促した。
「何か……きっかけとかが、あったんでしょうか。山潟さんが、変わるような」
「……そうね。前に仲が良かった人たちと、ちょっと、色々あってからだと思う」
ただ一歩を踏み入るだけでも、寿命が縮まる思いがした。
しかし、ここで終わらせては意味がない。礼儀の枷を無理矢理引き剥がしながら、さらに一歩入り込む。
「……その人たちの家を、教えていただくことはできますか?」
――玄関を出て、空を見上げた。
だいぶ長居をしてしまったが、春の太陽はまだ高い。聞き出した住所も歩いて行ける距離だ。
(それとも、さすがに日を改めて、事前に連絡してから行くべきかな……いや)
頭を振り、常識的な思考を追い出す。
現状に限っては、それは逃げだ。今しがたの無謀な勇気が残っているうちに動かなければ、きっと二度と訪問はできないだろう。
由は決意を固めて歩き出した。
◆
そこそこの規模のマンションの四階。
一階にセキュリティがあるタイプではなく、ここまでは滞りなく来ることができた。
玄関前のインターフォンを押す。
幸いにして、反応はすぐにあった。
『はーい。どちら様?』
若い女性の声だった。
「……山潟花紗里さんの知り合いです。松村千さんのお宅がこちらだと聞いて、お尋ねしたいことがあって窺ったんですが」
――返答はない。
しばらく待ち、やはり失敗だったかと思いかけたところで、目の前の扉が唐突に開いた。
「いいよ。上がって」
先程と同じ声の持ち主が言った。
「は――はい。お邪魔します」
緊張を押さえ込み、由は敷居を
通された部屋もまた彼女の自室だったが、同じ女性でこうも違うかと思わせるほど、花紗里の部屋とは様子が異なった。
一言で表せば色彩が多い。特に目を引く物品は、何個かある大きなぬいぐるみ、段ごとに色分けがされた本棚、由にはなんだか分からない数々の小物、など。
ゆえに行き届いた整頓に反して、視界の中の情報量は豊富だった。
「……それで? あの子の知り合いだって?」
松村千自身の印象も、その部屋に見合ったものだ。
年は由よりも少し上か。ライトブラウンの髪を波打たせ、若草色のカーディガンを着ている。
垢抜けている、と言うのだろう。
「はい。南ヶ川由と言います。山潟さんのクラスメイトです」
「ふうん」
興味薄げに返しながら、彼女は由に座椅子を示し、自分は背凭れを抱くような姿勢で机の椅子に座った。
自然、由は彼女を見上げるような位置になる。
「聞きたいことっていうのは?」
「僕は――」
山潟さんが今のようになった経緯。
そんなことを思い浮かべかけて、否定する。それで話が通じるなら世話はない。
「……あなたと山潟さんは、どんな関係だったんですか?」
「ふむふむ」
千は頷き、由をじっと見つめる。
真剣なようでも、ふざけているようでもある。
「そういうの、聞いてどうするの?」
「……正直に言って、分かりません」
「へえ?」
「だから、何ができるかを知るために、聞かせてもらえればと思っています」
「……ほほー」
少しだけ、感心した様子の声だった。
あるいはそれも、おどけた演技だろうか。
「……まあ、いいか。私があの子と会ったのは、私の彼氏を通してだったの」
「彼氏……」
「そう。近所に住んでて、小さい時からよく一緒に遊んだんだって。妹みたいな奴だ、って言ってた」
「……」
知らなかった。
と言うよりも、そう――由は花紗里のことを、未だ何も知らないに等しいのだ。
彼女の十五年ほどの人生の中で、自分が関わったのは半月にも満たないのだから。
「それで、その彼氏を通して、一緒に出かけたりするようになったんだけど。私とあの子は、あんまり仲良くはなれなかったな」
「そうなんですか?」
「まあ、そりゃ、ね。それでも一応、付き合いは続いてて。でもしばらくして、あいつとあの子が喧嘩したの」
「……彼氏さんと、山潟さんが」
「うん。大喧嘩。私はその場にいなかったけど、すごかったらしいよ」
「それは、どうして?」
「あいつもそう言ってた。どうして怒らせてしまったのか分からない、って。バカだよね」
ふふ、と千は笑った。
懐かしくも苦い記憶を想起するように、ここではないどこか遠くを見ながら。
「……その、彼氏さんは、今どちらに?」
由は問いを重ねた。
花紗里の母親から教えられた住所は、実のところここだけだった。
だがこの話が本当なら、彼こそが最も花紗里と縁のある人物のはずだ。
「総来賢哉」
「え?」
「そうらい、けんや。そいつの名前」
「あ……はい。じゃあ、その総来さんは」
千は再び彼方へ視線をやった。
ひどく不吉な予感が由を襲った。その表情が、なんでもないようであるのに、とても悲しげなものに見えて。
「死んじゃった」
「は……」
「事故で。よくある話でしょ」
果たして、予感は現実となった。
由は震えた。彼は総来賢哉のことを知らない。ただ、親しかった者たちがいたということを除いては。
かつてそれが起こった時、目の前の松村千はどうしたのだろう。
そして、山潟花紗里は。喧嘩をしたという二人の関係は、最後にはどんなものであったのだろうか。
「ねえ。私からも、一つ聞いていいかな」
やけに近くで千の声が聞こえ、由は我に返った。
気付けば目の前に彼女がいた。
「はっ――はい?」
声が裏返りかける。
その様子を見て
「きみ、花紗里ちゃんに気があるの?」
「……それは……」
そんなことはない、と思う。
少なくとも今このような行動をしているのは、彼女への好意からでは……ない、気がする。
「あれからさ、よく来るんだよ、あの子」
答えを待たずして、千は話を続けた。
立ち上がり、気まぐれに部屋の中を歩きながら。
「……山潟さんが、ここに?」
「うん。なんか、私を慰めようとしてくるんだよね。自分だってひどい顔してるくせに」
花紗里の母親の話を思い出す。
たまに出かけてはいるみたい、と言っていた。バッドと戦うためだと思っていたが、それだけではなかったらしい。
「……ひどいこと言うようだけど、いい加減
「……どうにか、なる?」
「そういえば、きみもさっき言ってたっけ。何ができるかを知りたい、って。ないよ。死んだ人が、戻ってくるわけでもないんだから」
――その瞬間、由の頭で繋がるものがあった。
魔法少女の報酬。願いを叶える。
確かに死人が蘇ることはない。だが、それは通常の手段であればだ。
「……だから、もしきみがあの子を好きなんだったら、気を紛らわせてあげたらどうかなって」
千は由を見て、再び笑った。
そうすることで他の感情を寄せ付けまいとする、防壁のような笑みだった。
続く言葉は、誰に向けたものか。
「いい加減、そろそろ前を向く頃なんだ」
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