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 県立宮址森みやしもり高校の校門は、ささやかな非日常がもたらす活気と、独特な緊張感に包まれていた。

 立てかけられた看板には“入学式”の文字。その横を通って登校する生徒たちの中には、制服の馴染み具合を試しながら歩く者がおり、きょろきょろと辺りを見回す者がおり、そして彼らを懐かしげに見ながら通り過ぎる者がいた。


「……南ヶ川くん。南ヶ川なかがわよしくん……」


 ――そんな光景の片隅に、瀕死の九官鳥じみた声がひとつ。


「だ、大丈夫? 尋正ひろまさ

「いや、マズイ……俺はここまでかもしれない……」


 その場には二人の人間がいた。

 一人は黒髪に、やや幼さを残す顔立ちの少年。真新しい紺の制服を隙なく着込み、特に問題を抱えた風ではない。

 もう一人は――ひょろ長い体躯を苦しそうに折り曲げ、明らかに顔に血の気がない少年。茶色がかった頭髪も、心なしか活力を失い、へたり込んでいるように見える。

 こちらが、最初の声の主だ。


「肩を貸すから、早く保健室に行こう。いや、それとも先生を呼んでこようか?」

「ち、違う。そういうんじゃない」

「え?」


 彼らは校門の内側、生徒の流れから少し外れたところにいた。

 目立たない位置だが、尋常でない様子の人間は目を引く。どうしたのかと足を止める者が、周囲に何人か現れ始めていた。


 そんな野次馬を、尋正と呼ばれた少年は顔を歪めて見回した。

 次いで、自分を気遣う友人――由に、精一杯の切実さを込めて言う。


「由。……どっか、トイレ探してきてくんない?」

「……トイレ?」

「そう。緊張しすぎて腹が痛いんだ……」


 そう言って、尋正は両手で腹を押さえた。

 由は密かに安堵した。確かに問題ではある。苦しいのも事実なのだろう。しかしいくら初めて来る学校とは言え、それくらいは探すまでもなく見つけられるはずだ。


「だったら、早く校舎に入ろう。そうすれば、どこか見えるところにあるだろうし」

「だ、駄目だ!」

「え?」


 そのように考えた由の言葉を、尋正は焦燥も露わに否定した。


「だって――入学初日からトイレに駆け込むとか、絶対噂されるじゃんよ! 俺、そんなんで目立ちたくないし! 恥ずかしい!」


 春のうららかな風が吹き抜けた。


「い……言ってる場合か!」

「いや、頼む! 一生のお願い! どっか人にばれないで入れそうなトイレ探してきて! 俺はその間、こう、押さえ込んどくから……!」

「あ、あのなあ……」


 由は呆れ顔で友人を眺めた。

 だが――拍子抜けしつつも周りを見れば、こちらをうかがう人数は先程よりも少し増えている。このまま真っ直ぐトイレに向かえば、尋正の不安は大袈裟にしても、数人程度の話題には上るかもしれない。

 それにどちらにせようずくまる尋正は、今は動くことができなさそうだ。


「……貸し一つだぞ!」

「急いでくれ……!」


 結局、彼は駆け出した。

 その背中にかけられた声は、どうやらより死期が近付いているように感じさせた。







 由は校舎の裏手に回り込んだ。

 当然、土地勘はない。ただ人目を避けられるという条件を念頭に置いて、生徒のいる場所から離れ続けた結果だった。


 そこは学校の裏庭――と言うよりは、たまたま生じた敷地内の隙間に、少しばかり彩りを添えてみた、といった風情の空間だった。

 前方に水泳の授業で使うプールがあり、隣には体育館のずんぐりとした巨体。

 それら二つと校舎との間に、まばらに間を空けて桜が植えられていた。人気のないこの場所で、誰に見られるでもない花が風に揺れている。


 最初、由は彼女を見落としそうだった。

 生徒たちの声もここからは遠く、あまりに静かで、その上彼自身も急いでいたために。

 ざっと見回して目当ての存在がどうやらここにはないことを知り、きびすを返しかけたところで、彼は視界の隅の人影に気付いた。


 この学校のものに相違ない、紺色のブレザーを身に着けた少女。

 黒髪を肩の上で切り揃え、肌の白さはやや青ざめても見える。

 桜の木の一本に背中を預け、動く様子は少しもない。細い顎先を持ち上げて、ただ一心に、あるいはぼんやりと、頭上にあるどこかを見つめていた。


 ふと。

 何かに教えられたかのように、唐突に彼女が由の方へ向いた。

 由の目と、少女のわずかに緑がかった目とが合った。


「――っ!」


 途端、由は眩暈めまいがするような感覚に陥った。

 咄嗟に片手でこめかみを押さえる。既視感、とよく言われるものを、何倍にも強めたかのごとき衝撃。

 慌てて再び少女を見ると、彼女の表情にも変化があった。伏せ気味だった目を大きく見開き、驚きの色を示している。


「……ちょ、ちょっといいかな!」


 気付けば、由は前に踏み出し、少女に向かって声を上げていた。

 小さな肩がかすかに震えるのが見えた。由は足を止め、ともすればまくし立てそうな感情をなだめ、落ち着いて振る舞えるように努めた。


「その……変なことを聞くけど、どこかで会わなかったっけ?」

「……さあ。気のせいだと思う」


 返答は素っ気ない。しかしその低く抑えた声は、彼の確信をますます強めた。

 いつか、どこかで会ったことがある。そして自分は、彼女に……彼女に、何だったか。記憶に色濃く残ることがあったのは間違いないはずなのに、その内容を思い出せない。

 少女が自分を意識の外に置きつつあるのが分かる。そうなればきっと機会がなくなる。そんな奇妙な予感がある。


「じゃ、じゃあさ」

「……なに?」


 何かを言わなければならない。

 空転する由の頭に、苦しむ友人の顔が浮かんだ。彼は思わずそれに飛びついた。


「……トイレって、どこにあるか知らない?」

「…………トイレ?」

「そう。できれば、あんまり目立たないところがいいんだけど」


 少女は呆気に取られた顔をして、数度ばかり目をまたたかせた。

 口に出してしまった後で、由の胸中に恥ずかしさが湧き出す。異性への質問としてはいかがなものだろう。それに友人を利用したようで気が咎める。


 しばし胃を痛めそうな沈黙が降りた後、少女は指である方向を示した。

 由がそちらを視線で追うと、校舎から体育館へ向かうための、開かれたままの通用口が見えた。


「あっち。あそこから入れば、あんまり見られないで行けるんじゃない?」

「……! ありがとう!」


 由は急いで頭を下げ、友の元へ戻るべく走り出した。

 これで良かったのかどうかは、正直まったく分からない。だが一方でなんとなく、うまくいったという感触があった。







 由の姿がその場から消え、少女は再び空を眺めた。

 間を置かず静かな羽音が生じ、白い鴉が傍らに舞い降りる。それは少女と向き合うと、落ち着いた男の声で話した。


「やはりこの学校の敷地内に、バッドの反応を感じます。しかし――」

「具体的な位置は分からない?」

「はい。擬態能力を持つ個体と思われます」


 少女はかすかに眉間に皺を寄せた。

 考えるが、妙案は出ない。事が起きた時に素早く駆け付けられるようにするくらいしか、今のところはないだろう。


 彼女は緩やかに頭を振り――それから思い出して、つい今しがたここであったことを伝えた。

 以前に助けた少年と偶然顔を合わせた、と。

 鴉は興味深そうに首を傾げた。


「ふむ。修復を経ても不完全ながら記憶を残している、と。比較的現実改変事象に強い人物のようですね」

「どうしたらいい?」

「特に規定はありません。知らせるのも、知らせずにおくのも、あなたのご自由に。ネガティブフラワー」

「……そう」


 気の重い考え事がまた増えた。

 少女は小さく溜息をついた。

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