2
県立
立てかけられた看板には“入学式”の文字。その横を通って登校する生徒たちの中には、制服の馴染み具合を試しながら歩く者がおり、きょろきょろと辺りを見回す者がおり、そして彼らを懐かしげに見ながら通り過ぎる者がいた。
「……南ヶ川くん。
――そんな光景の片隅に、瀕死の九官鳥じみた声がひとつ。
「だ、大丈夫?
「いや、マズイ……俺はここまでかもしれない……」
その場には二人の人間がいた。
一人は黒髪に、やや幼さを残す顔立ちの少年。真新しい紺の制服を隙なく着込み、特に問題を抱えた風ではない。
もう一人は――ひょろ長い体躯を苦しそうに折り曲げ、明らかに顔に血の気がない少年。茶色がかった頭髪も、心なしか活力を失い、へたり込んでいるように見える。
こちらが、最初の声の主だ。
「肩を貸すから、早く保健室に行こう。いや、それとも先生を呼んでこようか?」
「ち、違う。そういうんじゃない」
「え?」
彼らは校門の内側、生徒の流れから少し外れたところにいた。
目立たない位置だが、尋常でない様子の人間は目を引く。どうしたのかと足を止める者が、周囲に何人か現れ始めていた。
そんな野次馬を、尋正と呼ばれた少年は顔を歪めて見回した。
次いで、自分を気遣う友人――由に、精一杯の切実さを込めて言う。
「由。……どっか、トイレ探してきてくんない?」
「……トイレ?」
「そう。緊張しすぎて腹が痛いんだ……」
そう言って、尋正は両手で腹を押さえた。
由は密かに安堵した。確かに問題ではある。苦しいのも事実なのだろう。しかしいくら初めて来る学校とは言え、それくらいは探すまでもなく見つけられるはずだ。
「だったら、早く校舎に入ろう。そうすれば、どこか見えるところにあるだろうし」
「だ、駄目だ!」
「え?」
そのように考えた由の言葉を、尋正は焦燥も露わに否定した。
「だって――入学初日からトイレに駆け込むとか、絶対噂されるじゃんよ! 俺、そんなんで目立ちたくないし! 恥ずかしい!」
春のうららかな風が吹き抜けた。
「い……言ってる場合か!」
「いや、頼む! 一生のお願い! どっか人にばれないで入れそうなトイレ探してきて! 俺はその間、こう、押さえ込んどくから……!」
「あ、あのなあ……」
由は呆れ顔で友人を眺めた。
だが――拍子抜けしつつも周りを見れば、こちらを
それにどちらにせようずくまる尋正は、今は動くことができなさそうだ。
「……貸し一つだぞ!」
「急いでくれ……!」
結局、彼は駆け出した。
その背中にかけられた声は、どうやらより死期が近付いているように感じさせた。
◆
由は校舎の裏手に回り込んだ。
当然、土地勘はない。ただ人目を避けられるという条件を念頭に置いて、生徒のいる場所から離れ続けた結果だった。
そこは学校の裏庭――と言うよりは、たまたま生じた敷地内の隙間に、少しばかり彩りを添えてみた、といった風情の空間だった。
前方に水泳の授業で使うプールがあり、隣には体育館のずんぐりとした巨体。
それら二つと校舎との間に、まばらに間を空けて桜が植えられていた。人気のないこの場所で、誰に見られるでもない花が風に揺れている。
最初、由は彼女を見落としそうだった。
生徒たちの声もここからは遠く、あまりに静かで、その上彼自身も急いでいたために。
ざっと見回して目当ての存在がどうやらここにはないことを知り、
この学校のものに相違ない、紺色のブレザーを身に着けた少女。
黒髪を肩の上で切り揃え、肌の白さはやや青ざめても見える。
桜の木の一本に背中を預け、動く様子は少しもない。細い顎先を持ち上げて、ただ一心に、あるいはぼんやりと、頭上にあるどこかを見つめていた。
ふと。
何かに教えられたかのように、唐突に彼女が由の方へ向いた。
由の目と、少女のわずかに緑がかった目とが合った。
「――っ!」
途端、由は
咄嗟に片手でこめかみを押さえる。既視感、とよく言われるものを、何倍にも強めたかのごとき衝撃。
慌てて再び少女を見ると、彼女の表情にも変化があった。伏せ気味だった目を大きく見開き、驚きの色を示している。
「……ちょ、ちょっといいかな!」
気付けば、由は前に踏み出し、少女に向かって声を上げていた。
小さな肩がかすかに震えるのが見えた。由は足を止め、ともすればまくし立てそうな感情をなだめ、落ち着いて振る舞えるように努めた。
「その……変なことを聞くけど、どこかで会わなかったっけ?」
「……さあ。気のせいだと思う」
返答は素っ気ない。しかしその低く抑えた声は、彼の確信をますます強めた。
いつか、どこかで会ったことがある。そして自分は、彼女に……彼女に、何だったか。記憶に色濃く残ることがあったのは間違いないはずなのに、その内容を思い出せない。
少女が自分を意識の外に置きつつあるのが分かる。そうなればきっと機会がなくなる。そんな奇妙な予感がある。
「じゃ、じゃあさ」
「……なに?」
何かを言わなければならない。
空転する由の頭に、苦しむ友人の顔が浮かんだ。彼は思わずそれに飛びついた。
「……トイレって、どこにあるか知らない?」
「…………トイレ?」
「そう。できれば、あんまり目立たないところがいいんだけど」
少女は呆気に取られた顔をして、数度ばかり目を
口に出してしまった後で、由の胸中に恥ずかしさが湧き出す。異性への質問としてはいかがなものだろう。それに友人を利用したようで気が咎める。
しばし胃を痛めそうな沈黙が降りた後、少女は指である方向を示した。
由がそちらを視線で追うと、校舎から体育館へ向かうための、開かれたままの通用口が見えた。
「あっち。あそこから入れば、あんまり見られないで行けるんじゃない?」
「……! ありがとう!」
由は急いで頭を下げ、友の元へ戻るべく走り出した。
これで良かったのかどうかは、正直まったく分からない。だが一方でなんとなく、うまくいったという感触があった。
◆
由の姿がその場から消え、少女は再び空を眺めた。
間を置かず静かな羽音が生じ、白い鴉が傍らに舞い降りる。それは少女と向き合うと、落ち着いた男の声で話した。
「やはりこの学校の敷地内に、バッドの反応を感じます。しかし――」
「具体的な位置は分からない?」
「はい。擬態能力を持つ個体と思われます」
少女はかすかに眉間に皺を寄せた。
考えるが、妙案は出ない。事が起きた時に素早く駆け付けられるようにするくらいしか、今のところはないだろう。
彼女は緩やかに頭を振り――それから思い出して、つい今しがたここであったことを伝えた。
以前に助けた少年と偶然顔を合わせた、と。
鴉は興味深そうに首を傾げた。
「ふむ。修復を経ても不完全ながら記憶を残している、と。比較的現実改変事象に強い人物のようですね」
「どうしたらいい?」
「特に規定はありません。知らせるのも、知らせずにおくのも、あなたのご自由に。ネガティブフラワー」
「……そう」
気の重い考え事がまた増えた。
少女は小さく溜息をついた。
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