3
振り分けられたクラスでの自己紹介で、由は彼女の名前を知った。
(この子も、新入生だったんだな)
机の上に片肘を突いて、そっと隣の席を窺う。
今朝の少女がそこにいた。
(学校の作りに詳しいみたいだから、上級生かと思った)
花紗里は深緑色のペンケースを取り出し、その中からペンと消しゴムを机の上に配していた。次の時間では何かプリントを書かされるということだから、それに備えているのだろう。
同年代の女子と比べて、小物の趣味が落ち着いているのだろうか。そんなことを知ってどうする気なのかと自分でも思いながら、それでも由は目を離せなかった。
やはり、彼女のことが気になる。好意が云々と言うよりも、どうしても解けない問題を前にして意地になるような気持ちに、その感覚は似ていた。
――その時、花紗里が由の方を向いた。
これだけ無遠慮に眺めていれば、気付かれるのも当然だったかもしれない。変わらず伏し目がちの表情は、今は呆れているようにも見えた。
「どうしたの? 南ヶ川くん」
「あ、いや――」
由は咄嗟に誤魔化しそうになって、言うべきことがあるのを思い出した。
「――朝はありがとう。助かったよ」
「ああ」
花紗里は頷き、持ったままのペンケースを弄んだ。
言葉を続けるべきかどうか迷っている雰囲気があった。
「……その、大丈夫だった?」
「いや、実は、探してたのは僕じゃないんだ。僕の友達が――」
「おーっす! 俺の話かい!?」
突然、由の背中を衝撃が襲った。彼は大きくつんのめり、危うく机に顔をぶつけそうだった。
振り向けば屈託のない笑顔がある。朝に窮地にあった少年は、今はすっかり普段の調子に戻っていた。
由はやや大袈裟に溜息をついて見せた。
「そうだよ。……山潟さん、こいつ。これが腹を痛くしてたんだ」
「どうも、菊池尋正でっす! えっと、山ー……がた?」
「あ、山潟花紗里……です」
尋正は由の両肩に手を置いたまま、やたらに
その勢いに釣られたかのように、花紗里は小さく頭を下げた。
「尋正、山潟さんに感謝するんだぞ。あそこを教えてくれたのはこの人なんだから」
「マジ!? そうなの!?」
「まあ……うん、そう。みたい」
「うおーっ、ありがとうございます! おかげで俺は今ここにいることができます!」
がばっと頭を下げる少年に、花紗里は曖昧な声で答えた。
助けを求めるように由に目を戻し――かけて、視線がその付近の空中をさまよう。
(なんとなく、真っ直ぐ見ることを避けられている……ような気がする)
嫌われているのとはおそらく違う、と由は思う。何しろ覚えていないのだから、自分が過去、彼女に悪いことをした可能性は否定できない。だが、そういった意味合いではないように思えた。
◆
一週間が過ぎた。
疑問はますます強まり、さりとて答えが判明することもない。由にとってはもどかしい日々だった。
ただ、通常の意味においては、花紗里の人物像は掴めてきていた。
例えば、休憩時間の間、彼女は大抵席に座りっぱなしだ。そうしてスマートフォンを弄っているか、ぼんやりと窓の外を眺めていることが多い。
友人は、いないわけではないようだ。クラスの女子の何人かとはよく――比較的に、だが――話しているのを見かけるし、そうではない相手であっても、声を掛けられれば会話を嫌がる素振りはない。
しかしやはり、付き合いが悪いという印象にはなるのだろう。彼女のいない場所で、悪く言う言葉を聞くこともあった。
(……山潟さんは、何を考えているんだろう)
由は、誰かと行動することが多くなった。尋正を始めとした中学からの同級生に、高校で新しく知り合った友人たち。彼らと過ごす日々は楽しいし、これからもいい付き合いができる予感がしている。
だが、そうした時にふと隣を見ると、花紗里は決まって一人でいるのだ。仲間と騒ぐクラスメイトを羨むでもなく、さりとて孤独を愛しているといった風でもなく。
ただ単に、彼女はそこにいた。ほんの時折他人に向ける眼差しは、不思議とひどく空虚に見えた。
そんな、ある日のこと。
「……南ヶ川くん。南ヶ川由くぅん……」
「……」
人もまばらな放課後の教室に、凍えた犬のような声がひとつ。
自分の机にすがり付く尋正を、由はなんとも言えない表情で見つめた。
「……今度はどうしたのさ?」
「ああ、聞いてくれよぉ……。さっき廊下歩いてたらさ、いきなり先生が『そこの君。ちょっと来てくれますか』って」
「何やったんだよ、尋正」
「いや、何もしてないって! なんか手伝ってほしいことがあったみたいなんだよ。だけど急だったから俺びっくりしちゃって、ちょっと教室に用があるんですみません、って」
「そうしたら?」
「『では、その後で構いません。待ってます』って! そんで今ちょっと顔出してみたら、本当に向こうで待ってるんだよ! だから頼む由、一緒に来てくれ!」
両腕を広げて驚きを表現し、一転手を合わせて頼み込む。相も変わらぬ大袈裟な動き。花紗里がいれば、きっと由と同じ顔をしたことだろう。
彼女はいつも、授業が終わるとすぐに
「……なんで僕が一緒に?」
「だって、見たこともない先生なんだよ。想像してみろ、知らない先生と二人っきりで作業する光景を……!」
「まあ、気持ちは分かるけど……。仕方ないな。僕も用事があるわけじゃないし」
「おお!」
席から立った由を、尋正が一通り
件の人物は壁に背中をもたせ掛けて立っていた。白髪交じりの髪を短く刈った、黒いポロシャツ姿の男性教師。由にも誰かは分からなかったが、入学式の際、並んだ教職員たちの中に同じ顔を見た気もする。
彼は二人が近付くのに気付くと、姿勢を直して軽く頭を下げた。
「どうも。そっちの子は?」
「あ、俺の友達っす。一緒に手伝ってくれるって言うんで」
「ふむ……。分かりました。お願いします」
彼はそう言って、一瞬だけ由に品定めするような視線を送った。そしてすぐに先に立って歩き出した。
二人は早足で後を追った。一年の教室がある一階から、階段を二度上って三階へ。由たちがまだ入ったことのない特別教室の横を通り過ぎ、やがて一つの白い扉の前で止まる。
「どうぞ」
鍵束で錠を開けた教師に促され、由と尋正は部屋の中に入った。
殺風景な部屋だった。四角く白い室内には、左の奥に灰色の棚があり、右の隅には中身の詰まったビニールの袋が積まれている。
保管されているものはそれだけで、出入口もまた今しがた潜った扉と、奥にあるガラス窓しかなかった。
「うわっ、なんか広いっつーかスペースの無駄っつーか……。先生、これどうするんすか?」
「はい、少し待ってくださいね」
カチャリ。
最後に教師が室内に入った直後、由は乾いた音を聞いた気がした。
次の瞬間。
「うわぁぁぁあああああぁぁああああ!!」
凄まじい悲鳴が、由の聴覚を揺るがした。
驚愕のままに彼は振り向き、息を呑む。教師が、既に教師ではなかった。彼の上半身の衣服は裂け、露わになった腰から上は、毒々しい赤色の大蛇に変じていた。
そして――そして、その口元。おぞましく開いたその亀裂からは、既に半ばまで呑み込まれた尋正の足が、だらりと垂れているではないか。
「……な……」
由は言葉を失った。助けなければ、などとは思いもしなかった。蛇に睨まれた蛙の言葉通り、体も頭も凍りついていた。
あっという間に、尋正は残っていた足先までも大蛇の口の中に消えた。食われたのだ。人間一人を胃の腑に収めてなお、大蛇の姿に変化はなかった。
「さて、次はあなたの番です。鍵は閉めさせてもらいました。逃げられませんよ」
「――」
怪物が、由に向き直った。声だけは変わらず人間のままなのが、外見と不釣合いでなお怖ろしい。
由は数歩後ずさった。その背がすぐに壁にぶつかった。教師だった怪物は、ゆっくりと歩み寄ってくる。
死を目前にしたこの状況で、なぜかまるで関係のないことが彼の脳裏を過ぎった。花紗里と初めて会った時のような既視感。怪物が手を伸ばす。これとよく似たことを、自分は知っている気がする。
――由の左側、ガラス窓の外で、突然激しい爆発が生じた。
「なんだ!」
蒸気を噴くような威嚇音と共に、怪物はそちらへ顔を向けた。
それは立て続けに起こり、赤や青に緑や金、様々な色の閃光を放ち、その度に轟音を撒き散らす。こんな場所で見るのでなければ、花火のようで綺麗だったかもしれない。
だが由は別の方向に釘付けになった。最初の爆発が起こった直後、入口の扉に刃の光が走り、不揃いな破片へと寸断されていたのだ。
窓側に気を取られ、怪物は気付かない。残骸となった扉が落ちるが、その音はまったく響かなかった。
(これは――そうだ。この後に、来るのは)
半ば確信に変わった予感と共に、由は開かれた入口を見つめる。
果たして、スカートの裾を翻し、魔法少女が駆け込んできた。紫色のとんがり帽子、同じく紫色の長衣。胴には革のコルセット。装いの全てに花と蔓草の紋様。
今なお生じる爆発の閃光に、彼女の右手のレイピアが輝く。疾走の勢いと共に放たれた突きが、
◆
「……ありがとう。山潟さん」
未だはっきりとしない頭で、由はなんとかそう口にした。
「……どういたしまして」
困ったような表情を浮かべて、魔女めいた姿の花紗里は応える。
「あのさ……あいつは、どうなるのかな」
由が視線を向けた先には、横たわった尋正がいた。
怪物が消えた後に残された彼の体には、消化液なのか、嫌な臭いの粘つく液体が纏わりついていた。目立った傷はないものの、ただで済むとも思えない。
「大丈夫。全部元に戻るから」
しかし、花紗里は軽く頷いた。
由は思わず目を丸くした。
「全部?」
「そう」
「尋正も?」
「うん」
「山潟さんが壊したドアも?」
「……。そうだよ」
ぶっきらぼうに花紗里は答え、ついと後ろを向いた。
余計なことを聞いたな、と由は思った。助けられ方に文句を付けられるほど、自分が偉くあるはずもない。
「……それに、南ヶ川くんの記憶も――」
背を向けたまま花紗里は言葉を続け、
「いえ。今回は少し、事情が異なるかもしれません」
それを、新たな声が遮った。
二人が揃ってそちらを見ると、部屋の入口に白い鴉がいた。
由は自然にそれを受け容れた。もはや驚くこととは思えなかった。
「
「はい。修復まで時間もありませんので、要点だけを述べますが――彼は、次に起こる修復を経ても、完全に記憶を保持する可能性があります」
「…………嘘でしょ」
花紗里は表情をなくした。
対する鴉はあくまで冷静に、己の語るべきことを語る。
「無論、そうなる確率は低いでしょう。しかし一方で、完全ではない断片的な記憶を持ち続ける可能性まで含めると、ほぼ確実と言って差し支えありません」
「……それじゃあ?」
「はい。進言させていただくならば、こうなった以上、ネガティブフラワー自ら事実を説明されてはどうでしょう。互いに煩わしさを排除する結果になるかと推測します」
一息に喋った白い鴉を、花紗里は呆然としたように見つめた。
由は、きっと重要な岐路が目の前にあることを知りつつも、わずかに昂揚を感じ始めている自分に気が付いた。鴉の話は半分も理解できなかったが、どうやら答えを得られるかもしれないことは察しが付いたために。
沈黙が降りた。由も、鴉も、花紗里の決断をじっと待った。
やがて、彼女は由に目を向けた。睨むような視線だった。
「……南ヶ川くん。あなたは、いま起こったことが何だったのか、知りたい?」
否定してほしいという言外の意思が、語調から明確に表れている。
しかし。
「ああ。山潟さんには悪いけど、どうしても気になるんだ」
由は頷いた。
「それに、きっと――僕は前にも、君に助けてもらったことがあるんだろ。それを、曖昧なままにしておきたくないよ」
「…………そう」
花紗里は観念したように首を振った。
主人の無言の意を受けて、鴉は自らの羽を引き抜き、嘴にくわえて由に差し出す。
「それを持っていれば、南ヶ川くんは記憶のリセットの対象外になる。……今度の休み、家に来て。せめて落ち着けるところで話がしたいから」
由は白い鴉の羽を受け取った。
それは固いとも柔らかいともつかず、持っているのを忘れさせるほどに軽い。気を抜けばなくしてしまいそうに儚い存在感は、神秘の性質の暗示のようでもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます