[本文]第十六席

き続いてうかがい上げまする豊臣とよとみ秀頼ひでより西国さいこくくつわ物語ものがたり、歴史によりますと秀頼ひでよりこう大阪おおさかじょうにて自害じがいしたとうことになっておりますが、どうも薩摩さつまに落ちられたとうのは本当ほんとうの様でございまする。真田さなだ幸村ゆきむら秀頼ひでよりこうを伴って薩摩さつまへ落ちまする件に、かくて真田さなだ幸村ゆきむら腹心ふくしん郎党ろうとう根津甚八じんぱちを呼出し、これにも一計いっけいを施し置き、それより秀頼ひでよりこう御前ごぜんに出で、


幸村ゆきむら今宵こよい増田ますだ兵蔵ひょうぞう夜打ちに出し置きましたれば、かねもうし上げ置きましたるごとく、ただいまより秘かに抜穴ぬけあなをおとおりに相成あいなりまして、薩州さっしゅうへと御船にて落ち延びに相成あいなりまする様、拙者せっしゃ何処どこまでも御共おともつかまつるでございましょう」


と勧めますると秀頼ひでよりこうも、かねて幸村ゆきむらと示しわせてある事でございますから、


秀頼ひでより「うむ。さらばこれより退くであろう」


とそれより用意よういを整えられたが、さて幸村ゆきむらに向い、


秀頼ひでより幸村ゆきむら母上ははうえへは最早もはや今生こんじょうのおいとまいであれば、一度いちど対面たいめんいたして出立しゅったついたしたい」


とありましたから、幸村ゆきむらがこれをいましめて、


幸村ゆきむら「御母子の御因縁いんねんあれば、実にさることにはございまするが、この事はかねてももうし上げましたるごとく、大事だいじの前の小事しょうじでございまする。御対面たいめんあっては万万ばんばんよろしくございません。このはたって思しし止まられまする様」


う。その傍から長宗我部ちょうそかべ後藤ごとう両人りょうにん言葉ことばを揃えて、


両人りょうにん謀計ぼうけいは密なるを持って良しといたしまする。今、我が君が御母君おんははぎみにお逢いあらせられまする時は、御母君おんははぎみに付き従う女儀にょぎの中に、万一助命じょめいの者もこれありますれば、その口から事洩こともれて、薩摩さつまへ御落ち延び給う事の敵に相知もうしまする時は、追手おっての為、海上かいじょうにて御生命おいのちを落させたまわん事は必定ひつじょうにございまする。しかある時は、御自害ごじがいと敵に油断ゆだんをさせし謀計ぼうけい、みなみずあわ相成あいなりまする事、まことに口惜しき事にございますれば、いざく落ちさせ給いまする様」


と勧めましたか、秀頼ひでよりこうも大いにおさとりに相成あいなって、幸村ゆきむら指図さしずに任せてその夜のうしこく城内じょうないの抜け穴より立ち出でられ、誉田ほんだまで忍んで行かれまする道にて、伊集院いじゅういん刑部ぎょうぶ猿沢さるざわ監物けんもつ阿彌陀あみだ入道にゅうどう等、薩州さっしゅうの家人が、道路どうろかたわらに平伏ひれふして、「かねての台命たいめいに従い、七堂ケ浜に着船ちゃくせんつかまつりまして御待もうしおりまする。御案内あんないのため今宵こよいこれまでお出迎でむかつかまつりました」と述べましたから、秀頼ひでよりこうは、


秀頼ひでより遠国えんごくより態態わざわざ出帆しゅっぱんの段、神妙しんみょうに存ずる」


と、それより真田さなだ左衛門尉さえもんのじょう幸村ゆきむら長宗我部ちょうそかべ宮内くうない少輔しょうゆう、同じく三男右衛門三郎さぶろう後藤ごとう又兵またべ荒川あらかわ熊蔵くまぞう真田さなだ郎党ろうとう海野うんの三左衛門さんざえもん望月もちづき主水もんど穴山あなやま小助こすけかけい金六きんろく三輪みわ琴之助ことのすけ百六ひゃくろく十余じゅうよよじんう者が、秀頼ひでよりこう守護しゅごいたして、海上かいじょう恙無つつがな薩摩さつまに落ちられたのでございます。こんな次第しだいで表面は大阪おおさか自害じがいう事になって、徳川とくがわの方にも初めはれなかったのでございますが、後に分ったから家康いえやす島津しまづ薩摩さつまのかみにこんな手紙てがみを出しております。


秀頼ひでより大阪おおさか落去らくきょの後、薩摩さつまに入られ段、確かにうけたまわり候。馳走ちそうよろしたのみ入り候なり。慶長けいちょう二十年五月ごがつ家康いえやすより薩新老いしんろうへ」


う、薩新老いしんろううのは薩摩さつまのかみのことでございますが、それから太閤たいこう恩顧おんこ大名だいみょうから、無名むめい封金ふうきんを献上する、その使者ししゃ口上こうじょうには前田まえだ氏が能登のとやしき某の献ずる所と具合ぐあいで、そのほか毛利もうり家は周防すおう屋、加藤かとう家は熊本くまもと黒田くろだ博多はかた池田いけだ岡山おかやまなべ島は佐賀さが藤堂とうどう伊洲いしゅう細川ほそかわ豊州ほうしゅう上杉うえすぎ米澤よねざわ佐竹さたけ秋田あきた蓮香れんこう徳島とくしま山内やまうち高知こうちう風に秀頼ひでよりこうに献金しておったのでありますが、二代にだい将軍しょうぐん秀忠ひでただの代に相成あいなって太閤たいこう恩顧おんこ大名だいみょう追々おいおいと滅びてしまいますに連れ、徳川とくがわの方ではなお秀頼ひでより薩摩さつまにおってはまくらを高くして寝られぬとう所から、ついにこのたびの如き真田さなだ大助だいすけ東下あずまくだりとうことに相成あいなったのでございます。


一寸ちょっと余事よじに渡った様でございますが、これだけもうし上げておきますと、お講談こうだんがよく分りますから、弁じ上げておきました。


さて前席ぜんせきに戻りましてもうし上げまするが、真田さなだ大助だいすけ荒川あらかわ熊蔵くまぞう穴森あなもり伊賀いがのかみ穴山あなやま小助こすけ四名よめい京都きょうと出立しゅったつに及びまして、大阪おおさかまいりましたが、別に用事ようじはないから大阪おおさかじょうを左にながめ、いずれとおからぬ中に再びこの城に入り、五七ごひちきり六文ろくもんせんはたたなびかせてくれようと、早や山陽道さんようどうに入って、姫路ひめじ岡山おかやまとおし、芸州げいしゅう広島ひろしまへ差してかかってまいりました。


ところがおはなしし変りまして、江戸えどおもておいては、またもやだい騒動そうどうでございます。小田原おだわらにおいて稲葉いなば丹後たんごのかみ首尾しゅびよくったとうのは偽物で、早や京都きょうとんで綸旨りんじを受けようとう。公家くげ賄賂わいろを使ったがその甲斐かいもなく、公家くげ閉門へいもんとなり一条いちじょうこう骨折ほねおりによって綸旨りんじが下り、真田さなだ主従しゅじゅう四名よめい京都きょうとを急ぎ出立しゅったつに及んだときましたから、最早もはや立っても居てもおられません。大久保おおくぼ彦左ひこざ衛門えもん数多かずおお徳川とくがわ直参の大名だいみょうひたいあつめての協議きょうぎでございます。


彦左ひこざ「どうしよう。綸旨りんじを受けたらば必ず大阪おおさか入城にゅうじょうするに違いない。すれば再び慶元けいげん両度りょうどの戦いが起きる。天下てんか大動乱だいどうらんである。なんとかして四人の者が薩摩さつまに帰るまでにる工夫はあるまいか」


相談そうだんに及びましたが、どうもるべき所がございません。海を行くなればどうにも方法ほうほうがあるが、陸地ではどうも仕方しかたがない。色々いろいろ相談そうだんに及びました末、丁度ちょうど芸州げいしゅう沼田ぬまた郡広島ひろしま四二万よんじゅうにまん六千石せんごく浅野あさの但馬たじまのかみ長晟ながあきらは、紀州きしゅうから国替くにがえになって間がありません。それまでは福島ふくしま左衛門太夫さえもんだゆう正則まさのりの居城でありましたが、元和げんな五年六月に安芸、備後びんご市民しみん虐政ぎゃくせいに苦しみ、加えるに広島ひろしま城を増築致いたして天下てんか大禁たいきんを犯したとう罪によって、所領しょりょう四十九万八千石せんごくというものを没取ぼっしゅせられ、越後えちご信濃しなのの中にて終身しゅうしん六万石の所領しょりょううので、信州しんしゅう川中島かわなかじま配流はいりゅうの身と相成あいなり、家が断絶してしまいました。それゆえその後へ浅野あさの但馬たじまのかみが移ったのでございます。


そこで徳川とくがわ家においては、浅野あさの家にむかって小田原おだわらにおいてやったのと同じ様に、三千人さんぜんにん軍勢ぐんぜい小銃じゅう千梃せんちょう大砲たいほう三門さんもんって、真田さなだ大助だいすけ主従しゅじゅうってしまえ。首尾しゅびよくってしまえば加増かぞういたしやるとう事をもうつかわしました。


承知しょうちとおりこの但馬たじまのかみ長晟ながあきらう人は浅野あさの弾正だんじょう少弼しょうひつ長政ながまさの次男でございまするが、このまた兄に当りまする長男の紀伊守きいのかみ幸長ゆきながう人は、大の豊臣とよとみかたでありました。父の長政ながまさよりは武勇に勝れ、かの文禄ぶんろく朝鮮ちょうせんじんには武勇を海外かいがいに轟かしました人、ことに秀頼ひでよりこう家康いえやす二条にじょうしろで逢いましたる時など、加藤かとう清正きよまさ公と共に死を決して秀頼ひでよりこう守護しゅごしたとうのでありますが、惜しい事には慶長けいちょうの十八年に三十八歳でこの世を早ういたしました。


ところがその弟の長晟ながあきらが後を継いでから、徳川とくがわに近づくことになり、大阪おおさか陣にはふゆえき吉野よしの熊本くまもとのものと戦い、なつじんには城方じょうかたの首を数多かずおお切って勲功くんこうてたとうので、元和げんな二年には徳川とくがわ家康いえやすの三女をめとり、松平まつだいらという称号しょうごうを貰って、徳川とくがわ家とは親族しんぞくあいだがらになったのでございます。それゆえ、このたび浅野あさの但馬たじまのかみ真田さなだ主従しゅじゅうれとう事をもうし付けられたので、そこで浅野あさの但馬たじまのかみはこれをお相成あいなって、これは天下てんか一大事だいじである。徳川とくがわ家へ御奉公ごほうこうのため、なんでもこの四名よめいってしまわんければ相成あいならんと早速さっそく準備じゅんびに取り掛かった所から、広島ひろしま介田峠かいたとうげ関門かんもんを築きまして、三千人さんぜんにん同勢どうぜいがここを固める事と相成あいなりました。


しかしその三千人さんぜんにんの長にはだれにしたものであろうかと評定ひょうじょうになりました時、ここに水野みずの吉左衛門きちざえもん豪傑ごうけつがおります。この人はもと福島ふくしま正則まさのり家来けらいでありましたが、いたっておや考心こうしんな人で、今年三十七歳に相成あいなりますが、まだ女房にょうぼうも持たず六十の坂をとおしました老母一人ひとりを養わんが為に二度にど主取しゅとりをいたして知行ちぎょう二千五百石にせんごひゃくごくをもらい、浅野あさの家に仕官しかんすることになりました。


しかるにこのたび関門かんもんを固める大将としてお呼出しに相成あいなりましたから、水野みずの吉左衛門きちざえもん登城とじょういたしてると、このたびこれこれ斯様かようであるから、そのほう頭と相成あいなって首尾しゅびよくってしまえと命令めいれいでございます。


吉左衛門きちざえもんはこれを聞いて、その頭は御免ごめんを被ります。かかる豊臣とよとみ忠臣ちゅうしんることは出来できません。当浅野あさの家は故太閤たいこう御取おんとりてのおいえがらではございませんか。おんあだで返すは人にいたして人にあらざる仕業しぎょう、このはお止まりまする様と諫言かんげんいたしました為に但馬たじまのかみ勘気かんきに触れ、主人しゅじんに対してその言葉ことば無礼ぶれいあろうぞとお手討てうちに相成あいなった。


ところがこの事をき及びましたのが、松尾山まつおざん山奥やまおく西條さいじょうう所に住居じゅうきょいたして浮世うきよを去って今は仙人せんにん境涯きょうがいにある福島ふくしま家の浪人ろうにんにして福島ふくしま丹後たんご箕作みつくり左衛門ざえもん民部みんぶ七郎兵衛ひちろべえ浜田はまだ市左衛門いちざえもん木村きむら剛四郎ごうしろう大原おおはら亀太郎かめたろう、同じく亀之助かめのすけ六十九名ろくじゅうきゅうめいというもの、何れも一騎いっき当千とうせんの人々が、この話をき及びました所から、水野みずの吉左衛門きちざえもん仇敵かたきを討ってやりたい。なお一つは真田さなだ主従しゅじゅうを助けねば相成あいならぬと浅野あさの但馬たじまのかみを討ち滅ぼしてくれんといういきおいでみまするところへ、真田さなだ大助だいすけ主従しゅじゅう四名よめい広島ひろしままいりましたから、ここに広島ひろしまにおけるだい騒動そうどう出来しゅったいおよぼうと愈々いよいよここに真田さなだ大助だいすけ福島ふくしま家の浪人ろうにん六十九名ろくじゅうきゅうめいうものを味方みかたき連れまして、島津しまづむかってお帰りに相成あいなりまするとう、しかるにまたもや大久保おおくぼ彦左ひこざ衛門えもん一計いっけいめぐらして、墨付すみつきを奪いにかからんと、大久保おおくぼ生命いのちを的にかけて薩摩さつまに下りまするよりついに大久保おおくぼ彦左ひこざ衛門えもん忠誠ちゅうせい感心かんしんなし、最早もはや徳川とくがわ知行ちぎょうは受けぬ。豊臣とよとみ勝手かって領地りょうちこしらえるからと、墨付すみつきを返してしまって、これから海外かいがいに飛び出そうと、世界せかいをお調べになりました所が、薩摩さつまよりみなみ方角ほうがく大島おおしま小島こじま三十六さんじゅうろくある。これを総称そうしょうして琉球りゅうきゅううてあるから、これを一番いちばん征伐せいばついたして豊臣とよとみ秀頼ひでより領地りょうちいたそうとうので、道明寺どうみょうじ山城やましろのかみ通弁つうべんにん相成あいなり、荒川あらかわ熊蔵くまぞう談判だんぱん役と相成あいなって、軍船ぐんせんにて琉球りゅうきゅうに渡りましたところから、愈々いよいよ広生こうせいじょうにおいて談判だんぱん破裂はれつう、これから琉球りゅうきゅう征伐せいばつう一段に相成あいなるのでございますが、とてもこの一冊いっさつではれませんから、次に発行はっこういたしますのは、『豊臣とよとみ秀頼ひでより琉球りゅうきゅう征伐せいばつ』と表題ひょうだいの下に詳しくもうし上げる事につかまつります。


どうか発兌はつだの日を待って御愛読ごあいどくあらん事をねがたてまつります。


まずはこれにて御免ごめんを被ります。発行はっこうもとれいとお大阪おおさか東区ひがしく心斎橋しんさいばし備後びんごちょう西にしいる中川なかがわ玉成堂ぎょくせいどう卸売おろしうり並びに小売こうり勉強べんきょうさんでございます。おしゃべりついでに一寸ちょっと……

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講談速記本 豊臣秀頼西国轡物語 山下泰平 @taiheiyamashita

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