[本文]第八席

紀伊きい大納言だいなごん頼宣よりのぶこうも、こうめられてはいたし方がございませんから、


頼宣よりのぶ大助だいすけ殿どの、全く身共みどもが悪かった。実は今日きょう忍び姿で参ったのは、将軍しょうぐん御本復ごほんぷく相成あいなったにり、各々おのおの方へ内密ないみつにおらせに参った。明日あす早々そうそう御本丸ごほんまるへお出ましに相成あいなり、ねがいの御申もうてになる様」


大助だいすけ如何いかにも左様さようによっておくだされたとあれば、別に我々われわれ毒薬どくやく詮議せんぎいたす事はござらぬ。ねがいの大切たいせつにござるから、明朝みょうちょう早々そうそう御殿ごてんまいる事でござる」


頼宣よりのぶ「しからば間違まちがいなく……御免ごめんください」


頼宣よりのぶこう死骸しがいの取り方付けをお中屋敷なかやしき家来けらいの者に頼まれまして、とらくちを逃れるごとくそのままお帰りに相成あいなりました。さて真田さなだ大助だいすけ幸安ゆきやすでございまする。本陣ほんじんへ立ちかえって、


大助だいすけ「さて荒川あらかわ穴森あなもりどくらしたものは全く紀伊きい大納言だいなごん相違そういないが、ただいまはそれを調べているひまがない。また後にこの仇敵かたき時節じせつもあるから、とにかく明日あす将軍しょうぐんむかって豊臣とよとみが立つか立たぬかというだい談判だんぱんである。しかしねがいのとどけとあれば二百六にひゃくろく十有余じゅうゆうよ大名だいみょうはたもと八万騎はちまんき相手あいていたして切り死にいたさねばならぬ。これか今生こんじょうわかれとも相成あいなるかもしれぬから、酒盛さかもりをいたす事にしよう」


とありました。ここで三名さんめいはここにわかれの酒盛さかもりをいたしましたが、いよいよ夜が明けましたから、早々そうそう装束しょうぞくを改め、素袍すおう大紋だいもん立烏帽子たてえぼしで、紅葉山もみじやま千代田ちよだしろんでまいりました。芙蓉ふようにて待っておりますると、本日ほんじつ取次とりつぎやく目は江州こうしゅう犬上郡いぬがみごおり彦根ひこね城主じょうしゅ三五万石井伊いい掃部かもんのかみでございまする。


掃部かもん「あいや豊臣とよとみ秀頼ひでよりこう御名代ごみょうだい佐々木ささき金吾きんご今井いまい駿河するが穴森あなもり伊賀いがのかみ三名さんめい、このたび江戸えどにおしに相成あいなり、将軍しょうぐんにおねがいのこれある由、如何いかなる事か存じもうさんが、将軍しょうぐん御病気びょうき御本復ごほんぷくいては、取調べの上おき上げに相成あいなる事でござる。如何いかなる事にござるか将軍しょうぐんへのおねがいの拙者せっしゃよしなにお取次とりつぎもうす」


大助だいすけ幸安ゆきやす殿どのはおきになって、


大助だいすけ「いや掃部かもんのかみ殿どの、お出迎でむかおそれ入る。我々われわれねがいは外でもござらぬが、慶元けいげん両度りょうどの戦いに大阪おおさか落城らくじょう相成あいなった。これは軍門ぐんもんなら是非ぜひに及ばぬ。秀頼ひでよりこう薩摩さつまむかってお落ちに相成あいなったる所、このたび田村たむら紀伊守きいのかみ生駒いこま壱岐守いきのかみ御両所ごりょうしょが、将軍しょうぐん御名代ごみょうだいとして薩摩さつまに下られ、秀頼ひでより不憫ふびんであるから駿河するが府中ふちゅうにて百万ひゃくまんひゃくまんごくにてつかわす間、江戸えどおもて出府しゅっぷいたせよと上使じょうし駿河するが府中ふちゅう百万ひゃくまんひゃくまんごく徳川とくがわ家康いえやすこう御逝去ごせいきょ相成あいなりたる今日きょう国家こっか惑乱わくらんの基でござるにり、まことおそれ入ったる次第しだいそうろえども、駿河するが府中ふちゅう百万ひゃくまんひゃくまんごくおそおおい事にござるからまことくださるとならば、九十万石じゅうまんごく御返納へんのうつかまつるにり、一旦いったん落城らくじょういたした南面山なんめんざん不落城らくじょう大阪おおさかじょうおい十万石じゅうまんごく秀頼ひでよりくだかれたく、この将軍しょうぐんにおねがもうしたく……」


皆まで聞かず掃部かもんのかみは、


掃部かもん「あいや大助だいすけ殿どのまことにごもっとものおねがいなれど、それは将軍しょうぐんうかがうまでもなく、大阪おおさかじょう一旦いったん落城らくじょうに及んだ城でもあり、殊に城代じょうだいまでおてに相成あいなっておる事故ことゆえ駿河するが府中ふちゅう百万ひゃくまんひゃくまんごくならばとにかく大阪おおさかじょうにて十万石じゅうまんごくは相かなわぬ。このねがうに及ばぬと心得こころえる。いずれ追って沙汰さたいたすから、本陣ほんじんむかって御引取おひきとりあれ」


大助だいすけ「しからば愈々いよいよねがいの相叶あいかないませんか」


掃部かもんかなわぬともうせばかなわぬ」


この返答へんとう大助だいすけ幸安ゆきやすはムッといたした。


大助だいすけだま掃部かもんのかみ、今承れば将軍しょうぐんねがうに及ばぬとは何事なにごとだ。左様さような事をもうすにおいては大助だいすけ幸安ゆきやすなんじもうすべき事がある。大阪おおさかにおいて十万石じゅうまんごくくれないものが、なにが為に駿河するが府中ふちゅう百万ひゃくまんひゃくまんごくをくれる理由わけがあろうや。定めて駿河するがにて百万ひゃくまんひゃくまんごくをやろうとうのは計略けいりゃくありてもうす事に相違そういあるまい。なお掃部かもんのかみ、そのほう存じ居るであろう。太閤たいこう殿下でんか御他界たかいの際、如何いかなる御遺言ごいごんであったか、なんじも傍にあってきつらん。太閤たいこう殿下でんか天下てんか大老たいろう及び五奉行ごぶぎょうをおまねきに相成あいなり、朝鮮ちょうせんじん事半ばにいたしてあいてるのはまこと残念ざんねんであるが、せがれ秀頼ひでよりは未だ幼少ようしょういたしてとても天下てんかを納むべき力はない。よってそれには相当そうとう後見人こうけんにんたる徳川とくがわ家康いえやすむかってしば天下てんかを預けるから、秀頼ひでより十五歳じゅうごさい相成あいならば天下てんかを返しくれと懇々こんこん御遺言ごいごん相成あいな御逝去ごせいきょ相成あいなった。しかるに徳川とくがわ家康いえやす太閤たいこう殿下でんか遺言いごんを破って秀頼ひでより十五歳じゅうごさい相成あいなっても天下てんかを返さず、ついに慶元けいげん両度りょうどの戦いと相成あいなって、不幸ふこうにして戦は敗れたが、まだ秀頼ひでより薩摩さつまにある以上は秀頼ひでより天下てんか同様どうよう徳川とくがわは仮に天下てんかあずかっておるも同然どうぜんである。しかし軍門ぐんもんならいやむなくひざを曲げて将軍しょうぐんねがい出んとするに、取次とりつぎの身をいたして一個いっこ了見りょうけんねがかなわぬとは何事なにごとだ。掃部かもんのかみなんじような奴に取次とりつぎは頼まれぬ。これより将軍しょうぐん直々じきじきねがいをいたすから、目通めどおかなわぬ。退さがりおれ。ひかえッ……」


しかり付けた。掃部かもんのかみもこれを聞いてムッと腹をてた。


掃部かもんだま大助だいすけ。そのほう言葉ことば甚だにくい。決して大御所ごしょ豊臣とよとみ天下てんか横領おうりょうしたわけではない。それ程天下てんかを返してもらいたくば何故なぜ秀頼ひでより十五歳じゅうごさいまで相俟あいまたぬ。関ヶ原せきがはら合戦かっせんは何にが為にいたした。この返答へんとうあればいたして見よ」


大助だいすけ、これを聞いて大紋だいもんの袖をはらい、


大助だいすけだま掃部かもんのかみなんじ左様さようなことをもうすのは事実を存じおらざるからである。そも関ヶ原せきがはら合戦かっせん秀頼ひでよりこうの腹より出たるものではない。家康いえやす所作しょさ幼君ようくんに対して甚だ無礼ぶれいである。このままにく時は家康いえやすとても天下てんかを返すまいと思ったにより、石田いしだ三成みつなり太閤たいこう殿下でんか御恩ごおんを受けた者であるから、一は幼君ようくん秀頼ひでよりこう御為おんため、一つは自分じぶん謀反むほんにより家康いえやすを滅ぼさんと計ったものである。豊臣とよとみにおいては存じもらぬ合戦かっせんである。なんじ左様さような事をもうして豊臣とよとみ一家いっかてさせぬとは何事なにごとだ。これより将軍しょうぐん直々じきじき談判だんぱんに及んでくれる。目通めどおかなわぬ。退さがりおれッ」


しかとばしましたから、掃部かもんのかみはその剣幕けんまくが出ません。そのままスゴスゴ退いてしまいましたが、さて後に続いてだれも出るものがございませんから、この上はと大助だいすけ幸安ゆきやす殿中でんちゅうに望んでドシドシとお上りに相成あいなりまする。数多かずおお大名だいみょうはこれをながめて、こは天下てんか一大事だいじであるとうので、路をさえぎろうといたしますれば、大紋だいもんの袖をはらいました荒川あらかわ熊蔵くまぞうおに清澄きよずみ穴森あなもり伊賀いがのかみ入道にゅうどうが、大助だいすけ幸安ゆきやす前後ぜんごかこんで、


熊蔵くまぞう「サア軍師ぐんし身体からだ指一本ゆびいっぽんでもさして見よ。あばれる役目やくめ拙者せっしゃ二人ふたりだ。どいつこいつの容赦ようしゃはない。片ッ端からたおすぞ」


にぎかためた拳骨げんこつを振りながら、威張いばり返って御殿ごてんへさして上ってまいりますから、だれ一人ひとり傍へ寄るものがございません。そりゃそのはずで、大阪おおさか陣のその時に荒川あらかわ熊蔵くまぞうと来ては、いずれも尾を巻いて逃げたのでございますから、荒川あらかわに睨まれると皆がふるえ上ってしまいます。ところへ出なくてもよいのにお出ましになりましたのは、前申もうし上げた阿淡あたん両国りょうごく太守たいしゅ二十五万石にじゅうごまんごく、丸のまるのうち左万字ひだりまんじ定紋じょうもんを付けました松平まつだいら阿波あわのかみでございます。荒川あらかわ熊蔵くまぞうヒョイとこれをながめて、前に泥棒どろぼう泥棒どろぼうめたから、今日きょう一番いちばん怒鳴どなってやろうと大助だいすけ幸安ゆきやすむかって、


熊蔵くまぞう軍師ぐんし今向むこうから上ったのは松平まつだいら阿波あわのかみでございましょう」


大助だいすけ「うむ。紋が丸に左万字ひだりまんじだから松平まつだいら阿波あわのかみだ」


熊蔵くまぞうどくでございますが、拙者せっしゃむかって談判だんぱんやくおおせ付けをねがいとうございます」


大助だいすけ荒川あらかわ


熊蔵くまぞう「はい」


大助だいすけ「前になにか妙なことをうて阿波あわめた様であるが、今日きょう場所ばしょわるいから置くがいい。ひまがかかって又将軍しょうぐん病気びょうきでなどと云ってはこまるから……」


熊蔵くまぞう「なに手間てまは取りません。是非ぜひとも一言いちごん云ってやりとうございますから、御交代をねがいとうございます」


大助だいすけ「しからば出るが良い。後で軍師ぐんし頼むとうな」


熊蔵くまぞう彼奴あいつばかりにはけません」


と言うので熊蔵くまぞう大助だいすけかわって正面しょうめんむかって進みて、肩衣かたぎぬを払ってにぎかためた拳骨げんこつひざの上に置いて待って居りまするところへ、松平まつだいら阿波あわのかみずいと出ましたから、ヒョイとると荒川あらかわ熊蔵くまぞうがこっちをにらみ付けておりまするから阿波あわのかみは、


阿波あわ「サア失策しまった。エライ所にて来た。彼奴あいつ泥棒どろぼう盗人ぬすっととまた吐すであろう。前はひどい恥をかかしやがった。しかし今更いまさら後へ引く訳には行かぬ。仕方しかたがない。今度こんど吐したら一番いちばんめてやろう」


度胸どきょうを据えましたこと故、前に進み出でて、


阿波あわ「あいや荒川あらかわ殿どの松平まつだいら阿波あわでござる。将軍しょうぐんへおねがいの拙者せっしゃ取次とりつぎもうす。お騒ぎあってはかえってお為に相成あいならぬ。如何いかなる義にござるか、阿波あわよしなに取次とりつぎもうさん」


荒川あらかわ熊蔵くまぞうをクワッと見開いて、


熊蔵くまぞうだま松平まつだいら阿波あわ、そのほう先立さきだってもてうせたが、その時の事をおぼえておるであろう。このたびねがいの将軍しょうぐん直々じきじき談判だんぱんいたすのである。そのほうぞく分際ぶんざいいたして勿体もったいなくも豊臣とよとみ秀頼ひでよりこう名代みょうだいだる我々われわれ取次とりつぎいたそうなどとは無礼ぶれいであろう。目通めどおりかなわぬ退さがりおれ。泥棒どろぼう盗人ぬすっと、下れッ……」


しかり付けた。松平まつだいら阿波あわのかみ、これを聞いて先には退いてしまいましたが、今度こんど退さがりません。にわかに顔の色を変えて顔色かおいろ血走ちばしくちびるがビリビリッと動くと見えましたが、大刀たいとうつかをおけに相成あいなひざを進み寄せました。


阿波あわ荒川あらかわうじ、モウ一度いちどわれて見よ。何故なぜあって拙者せっしゃ泥棒どろぼう盗人ぬすっとわれる。他の事ならくが、ぞくわれて先祖せんぞへ対してもうし訳がない。サアぞく因縁いんねんを聞かしていただきたい」


熊蔵くまぞうかすな阿波あわ、そのほう泥棒どろぼうではないか」


阿波あわ「決して泥棒どろぼうではない」


熊蔵くまぞう生意気なまいきな事をかすな。泥棒どろぼう因縁いんねん聞かして欲しくばうてやる。貴様きさま先祖せんぞはそもなんだ」


阿波あわ「我が先祖せんぞ如何いかがいたした」


熊蔵くまぞう盗人ぬすっと猛々たけだけしいとは貴様きさまの事だ。貴様きさま先祖せんぞうは尾張国おわりのくに海東郡かいとうごおり蜂須賀はちすか小六ころく正勝まさかつ泥棒どろぼうではないか。またなんじの父たる蜂須賀はちすか家政いえまさうのは同じく泥棒どろぼうだ。祖父じいさんも泥棒どろぼうなれば親父おやじ泥棒どろぼうすれば、そのほう泥棒どろぼう小倅せがれだ。なおこれでも存じおらぬともうすか」


阿波あわ「いや荒川あらかわ殿どの貴殿きでんのお言葉ことばはよく分りました。身共みども祖父じいさんなり親父おやじ泥棒どろぼうであったから、その矢張泥棒どろぼうであるとわるるか」


熊蔵くまぞう左様さようだ。じゃによって泥棒どろぼうと云ったがどうした」


阿波あわ「これは決しからぬ。もとより拙者せっしゃ先祖せんぞなり親父おやじなりは泥棒どろぼう毛頭もうとう相違そういないが、我が代になってぞく汚名おめいを逃れん為、一八松平まつだいらの中に加わってただいまでは松平まつだいら阿波あわのかみ至鎮よししげである。本当ほんとうえば蜂須賀はちすか阿波あわのかみでござるが、先祖せんぞぞくいたした悲しさ、拙者せっしゃ松平まつだいら称号しょうごうたまわった。荒川あらかわ殿どの如何いかにも先祖せんぞ泥棒どろぼういたしたが、我が代になりましてなにを取りました。泥棒どろぼうわるるからには拙者せっしゃぞくいたした事、ご承知しょうちであろう。なにを取ったかおおせをねがいたい。サア荒川あらかわ殿どの御返答ごへんとう次第しだいによってはその座は立たせもうさん。我が代になりましてなにを取りました」


熊蔵くまぞう「なに、我が代になりましてなにを取った……拙者せっしゃはそのほうの側に付いてはおらぬから、一々いちいち見てはおらぬが、たとえにとおかえる矢張かえるだ。親が親なればその盗人ぬすっとするに違いない。みっつのくせは百までもとう事がある。泥棒どろぼうに違いないから泥棒どろぼううのだ」


阿波あわ「あいや荒川あらかわうじ、親が泥棒どろぼうであるとも子供こどもが必ず泥棒どろぼうであるとはわれまい。如何いかにもわが先祖せんぞ泥棒どろぼうに違いないが、拙者せっしゃの代になってわらすべ一本いっぽんも取らぬ。荒川あらかわ拙者せっしゃ泥棒どろぼううのは大方おおかた身共みども泥棒どろぼうした事を存じおるからであろう。サア返答へんとうに及ばれい」


熊蔵くまぞうだまれ。左様さようの事を一々いちいち見ておれるかい。そのほうの口より先祖せんぞぞくいたしたと確かにもうしたではないか。それが何よりの証拠しょうこだ」


阿波あわわれな荒川あらかわ拙者せっしゃに対してぞく呼ばわりをいたすとは何事なにごとだ。拙者せっしゃの代になっては何も取らんのだ。荒川あらかわ返答へんとうによってはその分にはかぬぞ」


と早や一刀いっとうつかけて抜かんとする許りのいきおいでございます。荒川あらかわ熊蔵くまぞうはグッと詰ってこいつには一番いちばん閉口へいこういたしました。

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