[本文]第六席

阿波あわ「やァめずらしや荒川あらかわ熊蔵くまぞう殿どの、かくもうすは松平まつだいら阿波あわでござる。将軍しょうぐんにおねがいの、よしなにお取次とりつぎもうさん。おねがいの如何いかなる事にござるや」


荒川あらかわ熊蔵くまぞうはこれを聞いてしばらくのあいだ、黙って聞いておりましたが、


熊蔵くまぞう「ウムめずらしいな。松平まつだいら阿波あわ。しかしそのほうごときに将軍しょうぐんへのねがいを取り付いでもら我々われわれではない。泥棒どろぼうッ、我々われわれ面前めんぜんぞく分際ぶんざいいたしてねがごうなどとは無礼ぶれいであろう。退しりぞきおれッ……」


将軍しょうぐん殿中でんちゅう罵詈ばりも程こそあれ、松平まつだいら阿波あわのかみの頭の上から、泥棒どろぼうッ、泥棒どろぼうッと怒鳴どなられたから阿波あわのかみおこったのおこらないのではない。中啓ちゅうけいえり突差つきさしておいて、一刀いっとうつかけましたが、ハッタと思い止まって、鯉口こいぐち三寸さんすんくつろげたなればおいえは断絶だ。無念むねんであるが場所ばしょがらいかんとも仕様しようがないと怒りをおさめました阿波あわのかみは、熊蔵くまぞうの顔をハッタとにらみ付けてき下がってしまいました……後では荒川あらかわ熊蔵くまぞう


熊蔵くまぞう糞垂くそたッ、これでようよう胸が晴れた……軍師ぐんしどうでござる。他の奴にはかないませんが、彼奴あいつならけません。頭から泥棒どろぼう呼ばわりしてやったらとうとう往生おうじょうしてかえってしまいやがった。モウ少しグズグズしていやがったら、拳骨げんこつを頭にらわしてやろうと思っていたに……」


大助だいすけ荒川あらかわ、なにを云ったのだ」


熊蔵くまぞう泥棒どろぼう泥棒どろぼうと頭からいてやったので、一度いちど会ったら云ってやろうと思っていましたが、これで得心とくしんいたしました」


大助だいすけ「なにかられたものでもあるのか」


熊蔵くまぞう拙者せっしゃられませんけども、彼奴あいつ先祖せんぞ蜂須賀はちすか小六ころくという盗人ぬすっとですから……」


大助だいすけ「なんだい。そんなつまらぬ事を云って時間じかんを移しては仕方しかたがない。だれて来なければこれより殿中でんちゅうもう」


と云っておりまするところへ、お出ましに相成あいなりましたのは、水戸みと中納言ちゅうなごんでございます。


中納「あいや三名さんめい将軍しょうぐんへの御願ねがいの如何いかなる事か存じもうさんが、上様うえさま急病きゅうびょうこり、とても面会めんかいはかなわぬから、今日きょうはこれにて御引き取りあれ。上様うえさま御全快ごぜんかい次第しだい、おって沙汰さたいたすでござろうから……」


口上こうじょうでございます。真田さなだ大助だいすけ将軍しょうぐん御病気びょうきとあれば、強いて無理むりえません。もとより仮病けびょうだとはれてありまするが、いたし方ございません。あまり大助だいすけ見識けんしきえらかったために、将軍しょうぐん急病きゅうびょうということに評議ひょうぎしたものと見えます。


大助だいすけを初め三名さんめい無念むねんながらそのまま富坂とみさか本陣ほんじんへ戻って来ました。さてここに二三日にさんにちが間、千代田城ちよだじょうよりの沙汰さたを待っておりましたが、将軍しょうぐんの方でも評定ひょうじょうさだまらんと見えて、なんの沙汰さたもございません。


それゆえ真田さなだ大助だいすけおいてそのあいだ書物しょもつさらしておりますから、別段べつだん退屈たいくつを感じませんが、荒川あらかわ穴森あなもり両人りょうにんひまひまで堪りません。一日酒をガブガブんでは両人りょうにんが腕うで相撲ずもうを取る。あし相撲ずもうをやる。仕舞しまいには柱に頭突ずつききをかます。中々なかなか乱暴らんぼうをやりますから、真田さなだ大助だいすけもこの両人りょうにんにはこまっておいでに相成あいなります。


ところがある一日ののこと、荒川あらかわ穴森あなもり両人りょうにんは、退屈たいくつ仕方しかたがございませんから、一つ江戸えども町でも見物けんぶつしようじゃないか、そりゃよかろうとうので、大助だいすけひまもらいました。


両人りょうにん黒羽くろは二重はぶたえ紋付もんつき深網笠あみがさを被り、大小だいしょう流儀りゅうぎ手挟たばさんで、緒太おぶと草履ぞうりき、鉄扇てっせんにぎってブラリブラリと江戸えど市中しちゅう散歩さんぽ出掛けました。やがてやって来ましたのは金竜きんりゅう山浅草寺あさくさでら、その昔雷門かみなりもんというのがございました。その雷門かみなりもんの側にちゃみせがありますから、その中へ入りました両人りょうにん


熊蔵くまぞう「許せよ」


亭主ていしゅ「おやすみあそばしませ」


熊蔵くまぞう「うむしばらくのあいだ休むぞ。はやく酒を持てい」


亭主ていしゅ「かしこまりました」


熊蔵くまぞう亭主ていしゅ身共みどものはなべかんだぞ。酒を煮ろ」


亭主ていしゅおどろきました。なんと豪傑ごうけつだろうと、あきれながら酒をかしんで持ってまいりましたから、両人りょうにんえんはたこしをうちけグビリグビリとはじめましたが、およ二人ふたり六七升ろくななしょうみますると、大分酔いがまわってきました。折柄おりから向手むこうての方からハイヨーハイヨーと声致いたして、馬をとばしてまいりまする。流石さすが勇士ゆうしこまひずめみみかたむけ、表に飛んで出でました荒川あらかわ熊蔵くまぞう小手こてかざして遥かむこうを見ますると、ただいまドシドシと駆けて気まするのは、これぞ自分じぶんらが本陣ほんじんいたしておる館の主人しゅじん勢洲せいしゅう安濃あのうごおり三十二万石さんじゅうにまんごく藤堂とうどう和泉守いずみのかみ御家老ごかろう藤堂とうどう新七しんひちう人でございます。なにか急用きゅうようと見えて馬で持って御参向さんこう相成あいなると見えました。


荒川あらかわ熊蔵くまぞうはこれをながめて、


熊蔵くまぞう「オイ坊主ぼうず


伊賀いが「ウウン」


熊蔵くまぞう「チョットてみい。今向むこうから馬を飛ばして来たのは藤堂とうどう和泉守いずみのかみ家老かろう藤堂とうどう新七しんひちだ。どうだい。さけさかな彼奴あいつを一つ驚かしてやろうじゃないか」


伊賀いが面白おもしろい。やれやれ。逃すでないぞ」


熊蔵くまぞう大丈夫だいじょうぶだ。アア、なにかブツけてやる物はないかしら……」


と横の方をながめておりますと、おおきな手桶ておけ豆腐とうふか何かの水を入れて、その中に汚れ足袋たびが二三足つけてありますが、よほど日数にっすうの経ったものと見えまして、水がくさりかけております。その手桶ておけをばっ下げました荒川あらかわ熊蔵くまぞうは、せたらこうしてやろうと軒下のきしたかくれてち受けました。


ところへ藤堂とうどう新七しんひちはハイハイドウドウといきおいよく駆けてお出でに相成あいなりましたから、荒川あらかわ熊蔵くまぞうはバララアッと軒下のきしたから飛ん出でました。


熊蔵くまぞう藤堂とうどう新七しんひちしばらてッ」


と呼びめられましたから、藤堂とうどう新七しんひち何者なにものであるかと馬の手綱たづなを緩めてヒョイと横をながめますと、手桶ておけを下げました荒川あらかわ熊蔵くまぞうが、


熊蔵くまぞう「ヤア藤堂とうどう新七しんひち、かくいう我は荒川あらかわ熊蔵くまぞうだ。慶元けいげん両度りょうどの戦いにはなんじ幾分いくぶん貸しがある。土産みやげにこれをくれてやるかられッ」


うや否や、かの手桶ておけ新七しんひちの頭の上に投げ付けました。新七しんひちおどろいて体をかわそうとする途端、手桶ておけつかの所を上手うまく首にけたからたまったものではございません。頭から着物きものから腐れ水をっかぶった上に、汚ない足袋たびが顔にピシャッと当った。「無礼ぶれいものめッ」とう間も何もございません。


そのあいだ熊蔵くまぞうが馬の腹の下に飛びみ、前足まえあしを取ってっ担ごうといたしましたから、新七しんひちはアッとおどろいて手綱たづなをグッとき絞る。主人しゅじん木村きむら主計頭かずさのかみが敵のためにおさけられた時、馬諸共もろともに引ッ担いで逃げたと熊蔵くまぞうだから、こんな奴に構ってはたまんと、あわてふためいてハイヨと声をけると、手桶ておけを首にけたそのまま、向柳やなぎむこうやなぎばら上屋敷かみやしきへ逃げて帰りました。門番もんばん家来けらいがこの姿をながめておどろいておる奴を、耳にもけずいたして手桶ておけを取りますとそのまま繋がしておいて、むさい風で藤堂とうどう和泉守いずみのかみのお目通めどおりに出ました。


新七しんひち御前ごぜん、ただいまでございます」


和泉守いずみのかみはこの姿をながめておどろきました。その上、プ……ンと嫌な臭いがいたしましたから、


和泉いずみ新七しんひち、どうした。はなはだむさいではないか」


新七しんひち「なかなかどういたしまして、むさい所の騒ぎではございません。すんでの事、生命いのちを取られる所でございました」


和泉いずみ一体いったいどうしたのだ」


新七しんひち「実はただいま雷門かみなりもんとおりました所がちゃみせ軒下のきしたより荒川あらかわ熊蔵くまぞう穴森あなもり伊賀いがのかみが出まして、斯く斯く云々かくかくしかじか始末しまつでございます。手桶ておけを取ろうとは思いましたが、馬諸共もろともっ担ごうといたしますから、こりゃたまらんとそのまま逃げて帰りましたよう次第しだいでございます」


これをおきになりました藤堂とうどう和泉守いずみのかみは、るうちに額に青筋あおすじてましたが、


和泉いずみ「ウウン、荒川あらかわう奴は不届ふとど至極しごくの奴だ。新七しんひちさぞ腹が立つであろうが、我慢がまんいたせ。今に仇敵かたきをとってやるから。まあよい、まあよい。して使いの旨は如何であった」


新七しんひち「それは無事ぶじに果しましてございまする」


和泉いずみ左様さようか。それでは下って休息きゅうそくいたせ」


そこで新七しんひちは下ってしまいましたが、藤堂とうどう和泉守いずみのかみ早速さっそくの事に身支度みじたくに及ばれまして、忍び姿でって麹町こうじまち五丁目ちょうめなる紀伊きい大納言だいなごんのお上屋敷かみやしきむかってお出でに相成あいなりました。時ならぬ時分じぶんでございますから、紀伊きい大納言だいなごん不信ふしんまゆひそめ、


大納「なにか御用ごよう事でござるか」


和泉いずみ紀伊公きいこう用事ようじ斯様かようか、こう次第しだい家来けらい新七しんひちが、荒川あらかわ穴森あなもりのためにひどい目にわされました。奴等やつらがかく乱暴らんぼういたすにおいては、この後如何いかなる騒動そうどうき起すや図られません。それゆえ、ご相談そうだんに参った次第しだいでございますが、なにかよい方法ほうほうはございますまいか」


きになった紀伊公きいこうは、


大納「如何いかにもそれはきに相成あいならぬ。和泉いずみ殿どの、この上はいたし方ござらぬ、と云って彼等かれら三名さんめいることは覚束おぼつかない。よって毒によって毒殺どくさつするより外あるまい」


和泉いずみ「なるほど。しからばその毒薬どくやくは……」


大納「それは斯様かよう云々致いたす。ただいま毒薬どくやくを取り寄せる事でござるから」


それから紀伊公きいこう早速さっそく下谷池したやいけ中井なかい卓庵たくあんという典医にもうし付けてどくらしみましたが、その七味しちみの毒をば藤堂とうどう和泉守いずみのかみに手渡しに相成あいなりましたが、早速さっそく家来けらいって富坂とみさかのお中屋敷なかやしき三名さんめい膳部ぜんぶ饗応きょうおうやくをばつとめております守屋もりや一角いっかくう者をおまねきになりました。


一角いっかく「おまねきにござりまするが、なにか御用ごよう事で……」


和泉いずみ「いや一角いっかくか。日々ひび三名さんめい饗応きょうおう苦労くろうじゃの」


一角いっかくおそれ入りましてございまする」


和泉いずみ「時に一角いっかく


一角いっかく「はい」


和泉いずみ「そのほう知行ちぎょうを幾らもらっておる」


一角いっかくおそれながら身分みぶんに過ぎたる大禄たいろくを頂いております」


和泉いずみ「なに身分みぶんに過ぎてはおらぬ。幾らそのほうはもらっておる」


一角いっかく「二百五十石を頂戴ちょうだいいたしております」


和泉いずみ「なに二百五十石か。それは不憫ふびんである。今日きょうから千の加増かぞういたして千二百五十石をつかわす」


一角いっかく「はい。私のようなものに千石せんごく加増かぞうはありがたく存じまするが、かく大禄たいろくを受ける身におぼえがございません」


和泉いずみ「いよいよ今、そのほう大禄たいろくだけのやくもうし付ける」


一角いっかく「はい」


和泉いずみ「ここに三帖さんちょう毒薬どくやくがある。この毒薬どくやくなんじに渡すから、真田さなだ荒川あらかわ穴森あなもり膳部ぜんぶに入れて毒殺どくさつに及んでしまえ」


一角いっかく「はい」


和泉いずみ首尾しゅびよく三名さんめい毒殺どくさついたしてしまえば、千石せんごく加増かぞういたしてやる。早々そうそう立ちかえって明朝みょうちょう膳部ぜんぶれ」


これを聞いた守屋もりや一角いっかくは、なんだかボロイ事だとは思ったが、こんな事かとも思いましたから、


一角いっかくおそれながらもうし上げます」


和泉いずみ「なんだ」


一角いっかくただいまもらっておりまする二百五十石の知行ちぎょう御返納へんのうもうしあげます。長の御暇おひまねがって拙者せっしゃこれより浪人ろうにんつかまつります」


和泉いずみ「なに、あやしからぬことをもうす奴だ。もらっていた知行ちぎょうまで帰して浪人ろうにんするとは、そのほう何故なぜ左様さようなことをもうす」


一角いっかく中々なかなか私ごとき者には、どくれるような人間にんげんでございません。それも荒川あらかわ穴森あなもり両名りょうめいならばたとえ御加増ごかぞうを頂かなくてもどくりますが、真田さなだ大助だいすけ幸安ゆきやすう人は、なかなか私がどくってもそのらう人物じんぶつでございません」


和泉いずみ「なぜだ」


一角いっかく貴方あなたはご承知しょうちでございませんが、私は富坂とみさか本陣ほんじんまいりましてから、毎夜まいよ不思議ふしぎに思うことがございまする」


和泉いずみ「うむ」


一角いっかく夜分やぶんになりますとうと、一角いっかく殿どのどくであるが梯子はしごを一つ貸してもらいたいとわれます。なにになさいますと聞くと、拙者せっしゃチッと用事ようじがあるからと云って、梯子はしごをかけて屋根やねむねにお上りになりまする」


和泉いずみ夜分やぶんになにしに上がるのだ」


一角いっかく「なにしに上るのか分りませんが、見ておりますると大助だいすけが棟に上りまして指をくっててんほしを数えております。しばらくするとフウン左様さよう承知しょうちに及んだ。よく分りました。大きにご苦労くろうと云ってかえって休んでしまいます。だれと話しておるのか解りませんが、よくよく見ておりますると、その話をしている間に星がビュウ……と飛びます。そこで私の考えまする所では、てんほしと話しておるのだと思います。左様さような恐しい人にどくることは出来できません。大助だいすけ明朝みょうちょうの飯は食うな。守屋もりや一角いっかくう奴が千石せんごく加増かぞうをもらってどくっておるから食えば死ぬぞと、チャンと話が出来できております。それをもらず私がどくってまいりますれば、一角いっかく、この膳部ぜんぶ毒味どくみいたせといます。食えば死にますから逃げようとすると、荒川あらかわ此奴こやつれとなります。荒川あらかわような男につかまりますれば、私はひねれてしまいます。死んでしまって千二百五十石をもらった所がなにもなりません。生命いのちあっての物種ものだねでござりますから、私はこれにて御暇おひまねがいまする」


和泉いずみ「フウン成程なるほど


話を聞いて藤堂とうどう和泉守いずみのかみは首をひねりましたが、徳川とくがわ御家おいえのためを思いますれば、このままには相成あいなりませんから、ついに守屋もりや一角いっかくどくらすとう、いよいよ千代田城ちよだじょうないだい騒動そうどう相成あいなるおはなしでございまする。

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