第2話 烏髮の佳人

 騎狼族ヴーアミは弓と騎狼を使いこなす草原の狩猟民族だ。


 幼い頃から友とする騎狼を連れて獣を追い、多くは獣に殺されて土に帰る。


 エーリッヒは遥か西方から流れてきた自分と同じ名前の父親のことを思い出していた。


 彼もまた、異邦人でありながら騎狼族ヴーアミとして生き、そして死んだ。


「父さんとの約束……まずは確実に身を隠せ」


 エーリッヒは馬頭琴に弓を当て、低く高く織り交ざる奇怪な曲を奏で始める。


 それは大草原を駆け抜ける風のように、あるいは時折大雨と共に現れる大河のように、激しくも儚い。


 魔麒麟マキリの毛皮で出来た馬頭琴は魔曲に身を震わせると同時に細やかな霧を濛々と上げ、エーリッヒとアプロの二人の姿を優しく覆い隠す。


「父さんとの約束……相手の位置を決して見失うな」


 霧麒麟マキリが発生させる霧には包まれた者の方向感覚を狂わせる神経毒が混じっている。


 馬頭琴の音色が聞こえてきた時には霧の発生は始まっており、本来ならば音で異常を察する多くの獣達は自らエーリッヒの射程へと駆け込んでしまうことになる。


 とはいえ今回はオーゼイユの出現が先である。獣達は怪鳥王が現れたことによってとっくに逃げ去った後である。


ごす、近いぞ。人間の血の匂いがする」


「そうか、生き残りが居ればいいけど……」


 馬頭琴を背中にしまい、弓に矢を番える。


 極限まで引き絞られた矢には、極北の殺意が今にも滴り落ちそうな程込められていた。


ごす、オーゼイユは近い。チャンスは一瞬だ。姿を見せたらすれ違いざまに叩き込んでやるんだぞ。三、二、一ッ―――今だ!」


 アプロが吠えた瞬間、霧の向こうに再び漆黒の怪鳥王が姿を表した。


 彼我の距離は約10m。


 霧に乗じて稼いだ必殺の間合い。この瞬間、オーゼイユは確かに無防備だった。


「――――――――死ね」


 龍の蒼血ブルー・ブラッドによって増幅された腕力で放った致命の一矢。


 鳴獅子メイリオ狩旗袍チコイデールの効果範囲が及ぶギリギリまで風切り音を吸い取ったこともあり、オーゼイユは必殺の一矢に気づかない。


 驚くほど容易く、邪眼と恐れられる右目にその一撃を受ける。名状しがたい程に醜怪な絶叫が五里にも渡る霧中を揺らす。


「逃げるぞごす


 草を踏み散らしドリフトで方向転換するアプロ。


 既にオーゼイユに背中を見せて全力で逃げる姿勢だ。


「アプロ、奴の足元に滑り込め」


 だがエーリッヒはそれを許可しない。


「正気かごす――――ああ!」


 アプロは振り返ってオーゼイユの足元を見て、それで全てを察した。


 齢にして二十歳を少し超えたくらいの黒髪の女が、一糸まとわぬ姿で立ち尽くしていたのだ。


 オーゼイユによって食われる直前だということが分かる。虚ろな瞳をしているところから、オーゼイユの邪眼に見られてしまったせいで正気を失ったに違いない。


 今ならばまだ助ければ正気に戻るかもしれない。


「仕方ないごすだ!」


 アプロは自らの主の甘さに半ば呆れつつ、再度方向転換を行う。


 邪眼を射止められ、怒りに燃えるオーゼイユは残ったもう一つの目でオーゼイユ達を睨みつける。だが片目になってしまった事、そして霧の中ということもあって邪眼の効きは悪く、オーゼイユが思ったようにエーリッヒ達は止まらない。


「学ばん奴め。だからお前はケダモノなんだ」


 動きが止まったオーゼイユを相手に、エーリッヒはもう一度弓に矢を番えて射掛けた。


 するとオーゼイユのもう一つの目にも矢が突き刺さり、その黄色く濁った目玉を見るも無残に引き裂いた。


 怯んだオーゼイユの隙を突いてアプロは足元まで迫り、オーゼイユの細い足に全体重を載せた体当たりをかます。


 樹の枝が折れるようなバリッという音の後に、オーゼイユの巨体が崩れ落ちる。


ごす!」


 体当たりの反動を活かし、アプロは再び百八十度ターン。


 オーゼイユの足元で惚けていた美女に向けて全速力で駆け寄る。


 既に弓も馬頭琴も背中に納めたエーリッヒは彼女の腕をすれ違いざまに掴みとり、アプロの背中の上へと引き上げて抱きかかえた。


 女性から漂う幾つもの香と薬の香り。少年は胸が踊るのを確かに感じた。


 そんな陶酔をかき消すようにエーリッヒは大声で叫ぶ。


「今だっ! 走れえええええええええええええええええ!」


 するとアプロはもう一人人間を載せたにも関わらず、今までと比べ物にならない速度で駈け出す。


 これぞ騎狼、これぞ草原最速の獣。見る見るうちにオーゼイユから離れていく。


 エーリッヒの耳には背後からそれは奇異で冒涜的な粘液質の音、そして人間の悲鳴。まだ生き残りは居たのか、あるいはオーゼイユの体内に生きたまま囚われていたのか。それはもう分からないことだ。


 そして本来ならこの大草原では絶対にあり得ない磯臭い匂いがあたりに充満し始める。


 この時、絶対に後ろを振り返ってはならない。


 振り返ればどうなるか。


 狂死したエーリッヒの父しかそれは知らない。


「やべえぞ御主人ごすずん、後ろから何か近づいてきている。俺の耳でも分かるくらいだ。このままじゃ追いつかれるぞ」


「分かってる。ペースを緩めないで後もう少しだけ走ってくれ。真っ直ぐだぞ。じゃないとこのお姉さんが振り落とされる」


「応よ、任せな御主人ごすずんごすも、そこのおっぱいでっかいお姉ちゃんも、大船に乗った気持ちでいてくれよな」


「やめろ駄犬! 行儀が悪いぞ! もし聞かれてたらどうするんだ!」


「へへっ、ごすが照れてらぁ」


 エーリッヒは深呼吸を一つして狩旗袍チコイデールのポケットから小さな玉を取り出す。


「吼え玉を使うぞ。耳塞いどけ」


「無茶言いなさるな、おいらは四足だ。それにごす鳴獅子メイリオの衣を着ていれば大丈夫だよ」


「だよな」


 これは鳴獅子メイリオの肝と火薬を練り合わせた音響兵器であり、僅かな衝撃に反応して体内に貯めこまれていた爆音を解き放つ仕組みになっている。


「ツァンの氏神ツァトゥグアよ。俺とアプロを守り、父の仇を討つ名誉を与え給え。我が旅行き、我が緑の道先に、限りない命と恵みを授け給え……!」


 エーリッヒはそれについた安全装置であるピンを外し、背後に投げ捨てる。


 地面に転がった衝撃により吼え玉は盛大に破裂。


 この時に奏でられる一定周波数の音に反応し、先ほど打ち込んでいた矢がオーゼイユの体内で爆発四散。


 エーリッヒの耳にオーゼイユの泡立つような苦悶の声が届いた。


「後は頼んだぞアプロ」


「おうよ、任せなごす


 彼は目を硬く瞑り、抱えた女性の頭を胸元に抱き寄せた。


 それからどれだけ走っていただろうか。


ごす、やったぞ。奴はもう追ってこねえ」


 アプロの声でエーリッヒは目を開け、辺りを見回す。


 霧はとっくに晴れて、其処はいつもと変わらぬ大草原だった。


 腕の中では自分より幾ばくか年上の烏髮の佳人が眠っていた。

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