私達のシアワセ

「よっしゃーーーーーー!」


 と大声で叫びたい所だったが、これでもモラル大人の男だ。その叫びは心の中だけにとどめておく。

 俺はついにやった。憧れへの片想いで止まっていた気持ちは、今ここで成就した。


 ――やった。やったぞ。


 そして今、俺とユウキさんは手を繋いで歩いている。触れ合った掌は、否応なしに心へ幸せを注ぎ込んでくる。


「本当はもっと一緒にいたいんだけどね」


 でもどうしてもユウキさんの明日の予定の都合で、今日は帰らなければならなかった。


「仕方ないですよ。これからいくらでも会えますよ」

「そうだね」


 ぎりぎりまで時間を過ごし、ユウキさんの電車をホームで待っていた。

 幸せだ。俺は今間違いなく幸せだ。

 ベタ子はどうなっているだろう。この瞬間を見届けてくれているだろうか。ひょっとしたら、もう満足して向こうの世界に帰っているかもしれない。そうだとすれば、少し残念だ。ありがとうぐらい言いたかったし、幽霊とは言え、同居人としてそれなりに一緒の時間を過ごした。変な奴だったが、面白かった。彼女がいなくなる事を少なからず寂しく思った。


『まもなく、電車が参ります』


 ホームのアナウンスが流れる。別れの時間だ。

 ユウキさんの手が、俺の掌からほどかれていく。ゆっくりと名残惜しそうに。


「じゃあ、またね」

「はい、また」


 電車が近付いてくる。彼女は少しだけ歩を前に進めた。









“アリガトウ”




「え?」


 ふいに、脳内に声が響いた。


「きゃっ……!」


 そして続けざまに女性の悲鳴が耳に入った。瞬間、何が起きたのか理解出来なかった。

 先程まですぐ横にいたユウキさんの体が、大きくぐらついて前につんのめっていた。


 ――え、え?


 ぷあああああああああああああああああああああああん。


 電車が近付いてくる。汽笛が鳴り響く。それに合わせるように、ユウキさんは電車の方に倒れ込んでいく。


「え、ちょっ……!」


 ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい。


 電車のブレーキ音がホーム全体をつんざく。しかしその勢いはまるで止まらない。ユウキさんの体は既に、ホームの外側へ飛び出ていた。


「ユウキさ……!」




 がごっ。



 鈍い音と共に、電車が走り去った。すぐそこにいたはずのゆうきさんの姿は、跡形もなく消し飛んでいた。




 ごぎゃ。




 少し遅れて、何かが叩き潰されるような音が遠くから聞こえた。



 ――何。何。何だ。


 俺は訳も分からずそのままへたり込んだ。周りからは悲鳴やら騒がしい声が聞こえた。

 遠くでした音の方に目を向けた。はっきりとは見えなかった。でも、何かの残骸のように、ちぎれた腕のようなものがちらりと見えた。


「ゆう、き、さん?」


 ――どこだ。ゆうきさんは、どこだ?


 ゆるゆると首を動かす。どこにも彼女の姿は無い。思考がおぼつかず、なかば放心状態だった。


「立てますか」


 ふいに視界の上の方から、ぬるっと腕が伸びてきた。白く血色のまるでない腕だった。


「ベタ子……」


 顔をあげた先に、白い笑顔があった。


「頑張りましたね。ずっと見てましたよ」

「……ゆうきさんは。ゆうきさんは、どこだ」

「死にましたよ」


 笑顔を崩さず、まるでゴミ箱に放りすてるように、あっさりとゆうきさんの死を口にした。


「最後まで幸せそうでしたね。今はもう、木端微塵のばらっばらですけど」

「……お前」


 へらへらと笑うベタ子は、異様だった。幽霊だからではない。今目の前にいるベタ子は、俺の知っているベタ子とはまるで違っていた。


「ありがとうございました。おかげでいい幸せを味わえました」


 ありがとう。

 その部分が、ゆうきさんが死ぬ手前に頭に木霊した声と重なった。

 何かがおかしい。何かが。


 こいつだ。

 ベタ子だ。

 こいつは何故、まだここで微笑んでいる。


「お前、成仏しねえのか」


 幸せを味わったと言った。確かに俺は、数分前まで幸せの絶頂だった。この幸せは、ベタ子も共有したはずだ。

 ベタ子は笑顔を絶やさない。本当に心の底から嬉しそうだった。それがあまりにも気持ち悪かった。


「誰が成仏したいなんて言いましたか?」

「……は?」

「私が成仏したいなんて、一言でも言いましたか?」


 記憶を巡る。

 彼女が成仏を口にした事。


 ――……ない。


 ない。どこにもその記憶はない。俺が勝手にそう解釈して口にしていただけだった。

 代わりに彼女が言った事。それは。


 ――幸せが欲しいんです。


 彼女が求めたのは幸せ。ただそれだけだった。しかもそれは、彼女自身の幸せではなく、俺が幸せを感じる事。


 ――おかしくないか。


 今更ながら、そのおかしさに気付く。

 何故俺の幸せを求めた。自分自身の幸せではなく。

彼女の未練が何かは教えてくれなかった。だが、普通に考えて、自分の未練を果たす為に他人の幸せを求めるだろうか。わざわざそんな周りくどいものをどうして求めるのだろうか。


 ベタ子は、何の為に、俺の幸せを求めた。

 こいつが欲しかった本当のものは、ナンダ?


「いい幸せでしたよ。壊しがいのある」


 ガタガタと全身が震えはじめた。

 今までよくも考えなかった、こいつの本当の正体が見え始めた。

 一切崩れる事のない笑顔の意味を、俺は理解し始めていた。


“幽霊がこんなに明るいものだなんて、想像もしなかったよ”

“皆が皆そうじゃないですよ。性質の悪い奴だっていますから”


いつだったか。まだこいつが来てから間もない頃に、幽霊の話を聞かせてもらった。


“それって、いわゆる悪霊とか?”

“そうです。あいつらは恐怖を手段ではなく目的としますから”


 恐怖そのものが目的。人を恐れさせ、怖がらせ、絶望させる。悪霊の定義。


「あなたと、ゆうきさん。私は事前にどちらの存在も知ってました。そして実は互いが互いに惹かれている事も知ってました。幸せになる下準備は十分に出来ていました。少し背中を押せば、すぐに結果が出る事も明白でした」


 ゆうきさんとの関係は、自分でも驚く程にスムーズに進んで行った。だがそれは当然の事で、ベタ子は最初からそれを知っていた。だから、俺の背中を押した。


“怖がらせるのがメインってか”

“あるいはそれ以上。あいつらは思念が強いから、直接的に人を殺めたりも出来ちゃいますから。目的がそれだから成仏もしませんしね。快楽殺戮に近いです”


 直接的に人を殺める事が出来る。悪霊にしか出来ない凶行。

 突然ぐらついたゆうきさんの体。

 あの瞬間、彼女は押されたのだ。

 この悪霊に。


“立てますか?”


 初めて現れた日、こいつはへたりこんだ俺に腕を伸ばした。そして平然と俺の腕を掴みあげた。

 物理的に人に触れる事の出来る霊体。それは、悪霊という思念の強さが成せるものだったのだ。


「後はどちらにつくかだけでした。背中を押しやすい方。そして幸せが壊された瞬間に、より深い絶望を味わってくれそうな方。そして私は、あなたを選びました」


“来ましたね、ゴールは近いですよ”

“ゴールじゃねえ。スタートだ”

“幸せになるならどっちでもいいですけど”


 俺の行く末には、ゆうきさんの死というゴールはあっても、スタートなんてものは初めからなかったのだ。どうあがいても、俺の幸せはこいつに刈り取られる予定だったのだ。


「……なんで、こんな事を……」


 成仏はしない。繰り返される殺戮。俺と同じようにこいつに幸せを握りつぶされた人間が、一体どれほどいるのだろうか。

 冗談を言ったり笑い合ったりしながら、その裏では、幸せが壊される瞬間を涎を垂らしながらこいつはずっと待っていたのだ。

 震えがおさまらない。こいつが初めて眼前に現れた日に感じた恐怖とは比にならないほどの恐怖が俺を圧迫していた。


「知って納得でもするんですか。私の身の上話をするつもりは毛頭ありませんよ。ただ私は、壊したくて仕方がないの。これが楽しくて仕方がないの。やめられないの。やめたくないの。ずっとずっとこうしてたいの。私が幽霊で、お前達がただの生きている人間である限り、私はずっとこの遊びが出来るの。へへ。へへへへへ。えへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ」


 気付けた所で、俺の未来は変わっただろうか。

 いや、きっと同じだったろう。

 悪霊に魅入られた時点で、俺の運命は決まっていた。

 残酷な結末を迎える運命。


「ごちそうさまでした。それでは、どうかお幸せに」


 彼女の姿が、幸せと共に一瞬にして目の前からかき消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私達のシアワセ 見鳥望/greed green @greedgreen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ