【8月刊試し読み】お稲荷さま、居候中
角川ルビー文庫
第1話
今にも雪が降り出しそうな、厚い雲に覆われた十二月の空の下。
どんよりと暗く沈んだ空とは裏腹に、東京の街並みはひどく華やいでいる。街中いたるところに施された、クリスマス用の装飾のせいだ。
「お母さん。お父さん。見て! すごくきれい」
きらきらと光り輝くイルミネーションを見上げ、両親とそれぞれ手を繋いだ男の子が無邪気にはしゃいでいる。
その姿を垣間見て、藤村彗太はまだあどけなさの残る柔和な顔をかすかに歪める。
五年前、両親に連れられて東京に引っ越してきた時の自分が思い出される。
あの頃は幸せだった。両親はとても可愛がってくれたし、家族仲もよかった。
それなのに……と、思った時。突如、背筋に刺すような痛みと悪寒が走った。
全身から嫌な汗が噴き出す。それでも、彗太は何でもない振りをして、歩を進め続ける。ここで取り乱したら、面倒なことになる。
歩を進めるほど、痛みと悪寒がひどくなる。いるのだ、前方に。
すれ違う時、目が合わぬよう細心の注意を払いつつ、気配がするほうを一瞥する。
道端に蹲る、女の姿が見える。
憎悪に満ちた瞳で道行く人々を睨み、向こう側が透けて見える半透明の体を抱き締めている。
彗太には、本来人が視えるはずのないものが視える。
地縛霊のような幽霊。河童や猫又といった妖怪。花や木の精霊まで……物心ついた時から、ずっとそうだ。
田舎に住んでいた頃は、それで困ったことはなかった。
人間とは違う姿かたちをしているが、近所に住んでいた妖たちは皆大らかで優しくて、とても良くしてくれたから、東京の妖とも仲良くやっていけると思っていたのだが、それはとんでもない間違いだった。
彗太が越した地域は、人間に悪感情を抱くものたちが多く住まう土地だった。
人間に粗略に扱われ過ぎて悪霊になってしまった神々。成仏できない地縛霊。
どうしようもない孤独と憎悪に苛まれ続けた彼らには理性などなく、到底仲良くなれる相手ではなかった。むしろ、彗太が視えていると分かるや否や、容赦なく攻撃し、ポルターガイストなどの霊現象を引き起こして暴れ回る恐ろしい存在。
彼らが視え、会話することはできても、除霊するほどの力はない彗太にとって、そんな彼らに囲まれて過ごす日々は、非常に苦しいものだった。
いいことなんて一つも……いや、強いて言うなら、一つだけ。
この体質のせいか何なのか。一日一回必ず十円玉を拾ったり、食べようと思って割った玉子の黄身が二つだったりといった幸運に恵まれる。
ちょっとささやか過ぎるけれど、ないよりはましと思うべきか。
(そういえば、今日はまだ、いいことないな)
できることなら、今日から住むことになる引っ越し先が、悪霊の少ない土地であってほしい。それが叶うなら、向こう一年間いいことがなくたっていい。
しかし、どうもそういうわけにはいかないようだ。
(気分が悪くなったのは七カ所。この道も、使わないほうがいいな。あとは)
地縛霊を見つけた箇所を地図にマッピングしつつ、溜息をつく。
通れない箇所が前よりずっと多い。通学路もだいぶ遠回りしなければならなくて、これからの生活を思うと気が滅入ってくる。だが、泣き言なんて言っていられない。
今日から自分は、一人だけで生活していかなければならないのだ。
今まで以上に、しっかりしないと。
(頑張らなきゃ。これは俺が選んだことだし、頑張るのをやめたら、もう……那智さんに会えなくなる)
それだけは嫌だ。だから、何が何でも頑張り続けないと!
(那智さん、今何してるかな。また御神木様の肩、叩いてるのかな)
悪霊たちが放つ陰気に当てられて起こる眩暈と吐き気を、恋しくてやまない彼のことを考えることで殺しつつ歩を進める。
程なく、彗太は教えられたアパートに辿り着いた。
アパートは鉄筋コンクリートで造られた、五階建ての立派な建物だった。外観も周囲にある建物に比べて、かなり高級感に溢れた佇まいをしている。
(母さん……おれのために、こんなに立派なアパート、借りてくれたの?)
あんなに、お金がないと愚痴っていたのに。
それだけ、自分のことを気遣ってくれたということだろうか? けれど、エントランスに備えつけられていた郵便受けを見て、はっとした。郵便受けのどれにも、名札がついていない。
(これって、今誰も住んでいないってことか?)
嫌な考えが、脳裏を過る。彗太は慌てて首を振った。
偶然だ。偶然、今誰もいないだけ。深い意味なんてない。
だが、借りられた部屋を確認して、血の気が引いた。
(何で、この部屋……こんなに広いんだ)
高校生一人が暮らす部屋なんて、1Kで十分のはずだ。なのに、何で客間まで……しかも、二部屋もある? どう考えてもおかしい。
がらんどうの真新しい室内が、ひどく薄気味悪く見える。
先ほど打ち消した考えがまた胸を去来したが、彗太は必死になってそれを打ち消す。
何馬鹿なことを考えている。母は、この霊媒体質を知っているのだぞ。彗太が悪霊の陰気に当てられただけで体調を崩して寝込む様も、何度として見ている。
家賃が浮くからと、曰くつき物件を借し与えるなんて、あるはずがない。
でも……一応、盛り塩くらいはしておこう。
(念のため……念のためだ)
急いで荷を開き中身を漁る。そして、塩の入った袋を掴んだ時。
『……マタダ。……マタダ』
突如聞こえてきた声に、全身の血の気が引いた。
『性懲リモナク、マタ……寄越シテキタ』
『ニンゲンキライ……ニンゲンキライ……』
無数の声が聞こえてくる。聞いただけで背筋が凍るような身も毛もよだつ声と、背中に感じる、痛みを伴うほどの憎悪。
間違いない。やっぱりここは、霊が棲みついている場所なのだ。しかも、人間に対して強烈な敵意を持った霊たちの。
(……どう、しよう)
いつもなら見えていない振りをして逃げるが、部屋の中にいるとなるとそうはいかない。
彗太にはもう、ここ以外行くところがない。
両親はどこかへ行ってしまったし、自分を気味悪がっている親戚も頼れない。迷惑をかけて嫌われたくないからと、意図的に人を遠ざけているため、友人だっていない。
いっそ、話しかけて交渉してみるか。しかし、今まで会話が成立した悪霊なんてただの一人もいなかった。ああ、一体どうしたらいい。
(考えろっ。何でもいいから、とにかく考えるんだ)
今すぐ叫んで逃げ出したい衝動を抑えつつ懸命に考える。
その間も、彗太に話を聞かれているとは気づいていないらしい悪霊たちは会話を続ける。
『ドウスル? イツモノヨウニ脅カスカ』
『デモ、前ハソレデ一週間カカッタ』
『面倒ダ。実力行使デ行クゾ』
実力行使? 何のことだ。その時、強い衝撃が右わき腹に走った。
「……がはっ」
細身で小柄な彗太の体は軽々と吹き飛び、壁に叩きつけられた。物理的な痛みと、霊が放つ陰気による痛みで、体中が軋む。だが。
『ヨシ。モウ一度』
そんな言葉とともに、再び気配が近づいてきたものだから、とっさに体が動いた。
「うわああっ」
持っていた塩の袋を思い切りぶつける。
つんざくような悲鳴が轟き、ジュウッと肉が焼けるような音がした。
総毛立った。体から黒い煙が立ち昇る、虎のように大きな黒い獣が見える。おまけに、顔半分が焼けただれ、肉がむき出しになっていて、禍々しいことこの上ない。
『痛イ……痛イ……』
『ヨクモヤッタナ!』
『サテハ、俺タチヲ滅シニキタ術者カ!』
獣の口から聞こえてくる、無数の怒気に満ちた言葉に愕然とした。
あの顔の傷は、自分がぶつけた塩で傷ついた箇所か! と、思っている間に、またも突き飛ばされる。一度目とは比べ物にならないくらいの、容赦のなさで。
全身に激痛が走り、右肩からゴキリと嫌な音がした。骨が、折れたのだ。
そこで、完全に思考回路が飛んだ。
今まで、悪霊に襲われたことは何度もある。だが、どんなにひどいことをされても、命の危険まで感じたことはなかった。
恐怖で頭が回らない。どうしたらいいか分からない。怖い。
『クソ! 殺サレテタマルカ!』
黒い獣は大きく口を開け、鋭い牙をむき出し飛びかかってくる。
恐怖と痛みで身動きが取れない彗太は、ぎゅっと目を瞑った。
(怖い……助けて、那智さんっ)
一人で頑張っていくと決めたくせに、思わず心の中で叫んだ。瞬間。
ボンッ!
突如、頭の上で妙な破裂音がして、どさりと何かが落ちる音がした。
「……ってえな。くそ」
男の舌打ちも聞こえてきた。この声……この声は!
慌てて目を開く。目に飛び込んできたのは、もふもふした白い大きな尻尾。
「出てきて早々尻餅なんざ、格好がつかね……うん?」
目の前で揺れていた尻尾が動き、こちらを覗き込む男の姿が露わになる。
年の頃は二十代半ば。色鮮やかな深緋の直垂に映える、雪のように白い癖っ毛の髪。その髪から覗く白い獣の耳。端正ながらも精悍な顔立ちの男が、生気の籠った山吹色の瞳でこちらを捉えた途端。
「彗太……っ」
獣の耳と尻尾が生えた男は即座に身を翻し、倒れている彗太の元へ駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、この怪我っ。大丈夫か」
「あ……な、ちさ……っ」
震える声で名前を呼びかけ、彗太は息を呑んだ。
男……那智の気遣わしげな表情が、見る見る悪鬼のごとき形相へと変貌していく。
『アイツ、口寄セノ術ヲ使ッタゾ!』
『カ、関係ナイ! 管狐ヲ出シテコヨウガ、蹴散ラスダケ……』
「……お前らか」
背後で唸っている獣に、那智がゆっくりと振り返る。
「お前らが、俺の可愛い彗太をこんなにしやがったのかっ」
耳と尻尾の毛を逆立たせ、懐からお札のような紙を取り出す。
「覚悟は、できてるんだろうな?」
札を指で挟んだ手を突きつけ、凄む。
その気迫に気圧されたのか、獣は二、三歩後ずさったが、すぐ己を奮い立たせるように一声鳴くと、牙を剥き、那智に襲いかかった。
那智は顔色一つ変えない。相手を睨みつけたまま腕を振り上げ、札を獣に叩きつける。
獣は悲鳴を上げ、木っ端みじんに吹き飛び消えてしまって……ああ。
(那智さん……相変わらず強くて、かっこ…いい……)
危機を脱した安堵からか、急激に霞んでいく意識の中でぼんやりと思って、彗太は重くてしかたない瞼を閉じた。
***
那智とは、彗太が三歳の時。今は亡き祖母に連れられて行った、近所の神社で知り合った。
那智はその神社に仕える狐の妖、御先稲荷で、主である御神木の精……柔和な顔をした、和装の老人の肩を叩いているところを、彗太が「おじちゃん。どうして、しっぽがあるの?」と声をかけたのだ。
――おい。こんな色男捕まえて、誰がおじちゃん……! お前、俺の姿が見えるのか? じゃあ、あそこにいる奴も?
――みえるよ。あの人は、どうして体がみどりなの?
――見えるのか。……くそ。厄介だな。
至極面倒臭そうに頭を掻いて、舌打ちされた。
けれど、そんな態度とは裏腹に、その後那智はちょくちょく会いに来てくれた。
――いいか? 何度も言うが、俺がここに来るのは、霊が見えちまうお前が、ここに住んでる妖怪たちともめ事を起こさないよう見張るためだ。この土地の平穏を護るのが、俺の仕事だからな。決して、遊びに来てるわけじゃ……。
――なちさん! きょうはおままごとしてあそぼ! なちさんがおかあさんね!
――人の話聞けよ。てか、何だよ、ままごとって。男のくせに。もっと男らしい遊びをしろ。
――? おとこらしいあそびってなあに?
――ああ? んなことをも知らないのか。例えば……。
なんだかんだ言って、結局最後には「しょうがねえな」と言って遊んでくれ、粗野な言動とは裏腹に、遊ばせ上手で優しい那智に、彗太はすぐ懐いた。
那智といると心がぽかぽかして、何をするにも馬鹿みたいに楽しかった。
そんなある日、那智が一枚のお札を持ってやって来た。
――高天原の偉い神様に頼んで、特別に書いてもらった。これで、お前は普通の人間になれて、普通の生活を送ることができる。だから……いや、いい。何でもない。……じゃあな。
達者で暮らせよ。いつもよりひどく優しい声で言って、那智は彗太の額に札を貼った。
彗太が札を取った時、那智の姿はどこにもなかった。
札の効力により、妖の姿が見えなくなったためだが、幼い彗太にはそんなことは分からない。
――なちさん、なちさん! でてきて! どうして、こんないじわるするの?
何度も那智の名を呼んだ。でも、那智は出てきてくれない。
それがひどく悲しくて、彗太はとうとう泣き出したが、それでも那智は出てこない。
泣きながら那智を探したが、どこにもいない。
探し続けて三日目。那智がよく連れて行ってくれた池に訪れた。そこで、足を滑らせ、彗太は池に落ちてしまった。
次に気がついた時、こちらを覗き込む、水浸しの那智の顔があった。
――馬鹿かっ、お前は! 池には一人で行くなってあれほど……っ。
――ううう……なちさん、なちさんっ。いじわるしちゃやだよお。なちさんがいなきゃやだ。
怒り顔の那智に飛びつき、泣きじゃくる。
那智はしばらく何も言わなかったが、最後にはいつものように「しょうがねえな」と毒づいて、ぎゅっと抱き締めてくれた。
それからというもの、那智は今まで以上に彗太を可愛がるようになった。
それに加え、妖についての知識をたくさん教えてくれた。妖が視える状態で生きていくためには、必要なことなのだという。
この地に住んでいる妖怪たちにも、彗太のことを紹介し、「ちょっと抜けてるが、いい子だから仲良くしてやってくれ」と頼んでくれた。
那智が紹介してくれる妖怪たちは皆優しくて大らかな、いい妖怪ばかりで、彗太をとても可愛がってくれた。
そんな皆が大好きだった。でも、彗太が一番好きなのは相変わらず那智だった。
最初は、遊んでいて一番楽しいからという単純なものだったが、歳を重ねるごとに、他のところも好きになっていった。
誰にでも分け隔てなく優しくて親切なところ。困っている妖がいたらすぐ飛んで行って助けてあげるところ。皆に一目置かれていても決して驕らず、気さくなところ。
おまけに、すごく強くてかっこいい。
学校で皆が憧れているアニメや漫画のヒーローなんて、那智には遠く及ばない。
本気でそう思うくらい憧れて、そんな人から一番に可愛がってもらえる自分が誇らしかった。
大好きだ。いつまでも一緒にいたい。そう思った。
しかし、彗太が十二歳の時。祖母が死んだのを機に、東京へ引っ越すと両親が言い出した。
必死になって反対したが、聞き届けられることはなかった。
どうしたらいいか分からず、彗太は那智に泣きついた。それなのに。
――……そうか。これで、お前のお守りもお役御免だな。
いつもの調子であっけらかんと、何でもないことのように言われた言葉に、愕然とした。
那智は、自分との付き合いを単なる仕事の一環としか思っていなかった。
守護する土地に住んでいる子どもだから、面倒を見なければならない。この土地を出ていくのなら、その子守ももうおしまい。その程度。
ショックをうけることもなければ、「お前と逢えなくなるのは寂しい」の一言さえ言ってくれない那智を見ると、そうとしか思えなかった。
自分はこんなに好きなのにひどい。那智なんか大嫌いだ!
でも、お役御免。自分のことはもうどうでもいいと言われたことが悲しくて、ひどく胸が痛んだ。その上、
――この札、覚えてるか?
数日後、珍しく訪ねてきた那智が、一枚の札を差し出してきた。
幼い頃、額に貼られて、那智が見えなくなった札だ。
――お前なら、どんな妖とも上手くやっていけると思うが、もしも、東京の妖とは仲良くなれそうもない。それか……普通の人間になりたいと思ったら、この札を貼れ。それで、怖い思いもしなくなるし、疎外感も感じなくなる……っ。
那智は口を閉じた。彗太の目から、ぼろぼろと涙が溢れ出たから。
(本当に……那智さんは、おれのことなんか、どうでもいいんだ)
那智が見えなくなったら自分がどれだけ傷つくか知っているくせに、意地悪にもほどがある。
――また、意地悪だって思ってるのか? ……違う。お前のために言ってる。普通じゃないってのは、それだけ大変なことで……彗太っ。
話の途中で、彗太は逃げ出した。
(お前のため? 嘘ばっかり!)
お前のためだと言うなら東京行きをなくしてほしい。それが駄目なら、離れ離れになることを一緒に悲しんで、必ず会いに来いと言ってほしかった。それなのに、那智なんか大嫌いだっ。
心の底から那智を憎んだ。その怒りは東京へ引っ越す日が来ても収まることがなくて、結局そのまま那智に一度も逢うことなく、彗太は東京へ引っ越した。
それが大きな間違いだったと気づいたのは、引っ越した先で近所に住んでいた妖に祟られ、ひどい目に遭ってからのことだった。
彗太の周辺ではポルターガイストなどの霊現象が頻発し、彗太自身も悪霊たちの陰気に当てられて、何度も体調を崩した。
――あの子は一体何なんだっ。
――私だって知らないわよ、気味が悪い!
周囲から向けられる畏怖の目、連日の霊現象に参った両親が、毎晩声を荒げて言い争う。
「実は霊が見える」と正直に打ち明けても、「悪い冗談を言うな」と言って信じてもらえないばかりか、忌まわしいものを見るような目で見られてしまった。
好きだった両親にそんな目で見られてようやく、彗太は理解した。
妖が見える……普通ではないということがどれだけ辛く、過酷であるかを。
それを今まで知らずに来れたのは、那智が日々、細心の注意を払って自分を護ってくれていたから。
自分を含め妖たちとの縁を全て切ってでも、普通になるよう勧めてきたのは、辛い目に遭うだろう彗太のことを慮ってのこと。
でも、自分は那智の苦労も気遣いも知らず、駄々を捏ね、ひどい態度を取ってしまった。
どうしようもない子どもだ。これでは、那智に「お守り」と思われてもしかたがない。
ひどく恥ずかしい。けれど、それ以上に、ようやく理解できた那智の優しさに、胸が震えた。
那智に会いたい。会って、今までのことを謝りたい。それから……それから……。
その先のことはよく分からなかったけれど、とにもかくにも会いたくて、正月、祖母の墓参りを口実にして、田舎に舞い戻った。
神社を訪ねると、那智は相変わらず、境内で老人姿の御神木の肩を叩いていた。
変わらないその姿に、恋しさが込み上げてくる。けれど、恋しさが募れば募るほど、もし無視されたらという恐怖も膨れ上がってきて、身動きできなくなってしまった。
どれほど、その場に立ち尽くしていたことだろう。
――ったく。いつまで、そこに突っ立ってるつもりだ。
突然、溜息交じりに声をかけられて、口から心臓が飛び出しかけた。
――よく来たな。元気そうで何よりだ。
でも……前と全く同じ、包み込むように優しい笑顔を向けられた瞬間、胸の奥でぱちんと、何かが弾けた気がした。
余韻が、甘く切なく、体全体に響き渡る。その感触を噛みしめて、彗太は自分の本当の気持ちを実感した。
自分はやっぱり、那智が一番好きだ。そして、那智にも自分のことを好きになってほしい。
護ってやらなければならない子どもとしてではなくて、藤村彗太として。
だから、大人になろうと思った。
自分のことしか考えられない、那智に守られるばかりの子どもじゃなくて、相手の気持ちを思いやり、自分の足でしっかりと立てる大人の男に。
そうすれば、今度こそ、庇護者と子ども以上の関係を築けるはずだ。
そのためにはまず、今の体質でも自力で生活できるようにならなければならない。
遠くに住んでいる那智には頼れないし、妖が見えなくなる札も……偉い神様に頼み込まなければ手に入らないと那智が言っていたから、那智に会う都度、札の効力を解いてもらい、那智との逢瀬を楽しんで、また新しい札をもらうなんてことはできない。
自分一人の力で、何とかするしかない。
必死に、頑張ってきた。自分なりに色々調べて、汚い部屋には霊が寄ってくると知れば、部屋の掃除を念入りにして、霊は笑っている人や塩が嫌いだと知れば無理矢理笑い、体に塩をすり込んで……とにかくできる限りのことをした。
そしてようやく努力が実り、何とか普通の生活が送れるくらいになれた頃、彗太は両親から離婚することを告げられた。
何でもするから離婚なんてしないでくれと懇願したが、聞き入れられることはなく、両親は離婚。父親は逃げるように姿を消し、彗太は母親に引き取られた。けれど、一週間前。
――彗ちゃん。お母さん、転勤することになったの。それで引っ越すんだけど、とても遠くなの。あなたは高校通うのに困るでしょ? 高校の近所にアパートを借りておいたから、あなたはそこに引っ越しなさい。
呆然と立ち尽くすばかりの彗太に対して、母はさらに、月々送ってくれるという仕送りについて説明し始めた。
その額は生活していくのにギリギリなもので、到底、那智の元へ行くための交通費を捻出できない額だった。バイトしたくても、学校に通うのが精一杯の現状ではとても無理だ。
唯一の心の支えだった、盆と正月の墓参り……那智との逢瀬さえ、取り上げられた。
何もかも、上手く行かなかった。全部失った。
あまりの無力感と孤独に、眩暈がした。
猛烈に、那智が恋しくなる。自分にはもう、那智しかいない。他には、誰もいない。
でも、会うためには、自分から会いに行くしかなくて……。
自分はこんなにも頑張っているのに、会いにも来てくれない那智が憎らしい。けれど、那智には主である御神木、土地を護るという大事な仕事があるし、そもそも……そうしてくれと那智が頼んできたわけではない。
自分が勝手にやっているだけだ。そう……自分が、勝手に――。
考えるほど、自分が惨めになった。
しかし、どんなに憎んでも惨めでも、やっぱり会いたいものは会いたい。
だから、また……頑張らないとって、思っていたのに。
【8月刊試し読み】お稲荷さま、居候中 角川ルビー文庫 @rubybunko
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