【8月刊試し読み】パパのしあわせごはん

角川ルビー文庫

第1話


 ◇ 1 ◇



 本当に大切なものや大切なことは目に見えなかったりするんだよ、天ちゃん。だから覚えておいて。天ちゃんが困ったとき、ママはちゃんと傍にいるから。



 少しだけ苦しい。少しだけつらい。少しだけ。

 でもそのひとつひとつが消化されないまま溜まっていくと、いつか詰まって淀んでしまう。心にも血はかよっているから、きっと。

「……こんなのばっか食べてたらどろどろ血になる」

 テレビの健康番組で「どろどろ血からやがて血栓ができ、脳梗塞や脳溢血といった重い病気を引き起こす」との解説を聞いたことがある。まだ若さ溢れる男子高校生とはいえ、この食生活を続けるのは健康上よろしくないはずだ。

 そんなの分かってるけど――坂木志真は手元を見てため息をついた。

 右手にスーパーで買った弁当、からあげ、おにぎり。左手に紙パックのオレンジジュース。そのパッケージにはオレンジの写真がプリントされている。この果物の画が写真ではなくイラストになると、果汁5パーセント未満や無果汁ということらしい。

「リアル写真でも果汁10パーセント……こんなのちっちゃい子に飲ませていいのか?」

「しまー、ちょーだい」

 紙パックのジュースを催促しているのは、志真の姉・坂木夏南の息子である四歳の天だ。

 十七歳の志真と違い、まだ幼い甥っ子は欲望のまま生きている。志真が麦茶をさして「こっちなら虫歯にならないよ」なんて理性的なアドバイスをしても、おまけでついている『ようかいマン』シールがだめ押しになり、その小さなハートにはちっとも響かなかった。

「飲むぅー」

 つま先立ちで両手をめいっぱい伸ばしてくる姿を見ると、「あーもう、かわいいなぁ」と志真の心の鬼はあっという間に負けてしまう。戦隊ヒーローだったら最弱だ。

 紙パックにストローをさしてやり、「ぎゅって持ったらだめだよ」と天に手渡すと、天は即座にちゅーちゅーとオレンジジュースを吸ってごくんとして、「ぷはぁ~」と声を上げた。ビールを飲んだときの夏南のまねをしているらしい。

 まぁいっか、と笑みをこぼし、志真は横長のベンチに腰掛けた。「天ちゃんもここに座って」と隣をさすと、むっちりお尻をちょんとのせる。志真は天の腋に手を入れて軽く抱え、深く座らせてやった。

 五月下旬、心地よい気候の土曜正午過ぎの公園には、志真たちと同じようにベンチで弁当を広げている親子の姿がちらほら見える。でもみんなはママお手製の弁当だ。

「天ちゃん、あんまりよそ見してたら落とすよ」

 ぽかんと口を開けたまま、となりのベンチのカラフルな弁当に気を取られていた天がはっとして、シーチキンマヨネーズのおにぎりにかじりつく。追加で買ったからあげ、弁当に入っていただし巻きたまごとケチャップ味のスパゲティーも天に食べさせた。

「なんかさ、こんなのばっかで飽きるよな。冷たいし。味濃いし。金かかるし」

 志真に調子を合わせて「だね~」と大人びた返事をする天に、ちょっと笑ってしまう。

「天ちゃん、グラタンとかオムライスとか食べたいよな?」

「でもこれもまーまーおいしいよ? ママが作るごはんには負けるけどねっ」

 からあげをむしゃむしゃ食べながら力強く言い切る姿は勇ましい。

「俺が料理できたらいいんだけどさ……。夏南が作るからあげっていくつかレパートリーがあって、どれもマジでおいしかったもんな」

 夏南は溌剌とした話し方と雰囲気で奔放そうに見られがちだけれど、手が込んだものも厭わず作る料理好きだった。オーソドックスなからあげはもちろん、油淋鶏風だったり、レモン風味の醤油だれ、胡麻塩だれの味付けなどなど。子どもが喜ぶように盛り付けも工夫していた。

「ママのからあげ食べたぁい。てんちゃんはね、たまごの白いやつかけるのが好きー」

「スイートピクルスが入ったタルタルソースのやつな。あ~、食べたい!」

 思い出話に花が咲く。五月の陽気な風に吹かれて目を閉じれば、夏南の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。だけどもう二度と見られない。会いたくても、会えない。

「てんちゃんがね、ママにおてがみ書いてあげるよ。ママのからあげ食べたいって書くよ」

 そう言ってにっと笑う天に志真は胸をずきんとさせながら、明るく「うん」と頷いた。

 天がいつも赤いポストに入れるその手紙は、どこにも届かない。でも、いつかそれを天が理解する日までは、切手を貼って出してやろうと思う。

「本当に大切なものは、目に見えない……」

 空を仰げばそのずっと上の方から、夏南が見守ってくれている気がする。あたたかく優しいまなざしで、天と志真に「だいじょうぶよ」と微笑んでいるはずだ。

 夏南は三カ月前に、まだ幼い天を残してこの世を去った。

 二十六歳という若さで人が病気で死ぬなんて、志真は思いもしなかった。しかし若かったはずの天の父親もまた、天が産まれる前に亡くなっているというし、志真自身も小学四年生のときに両親を交通事故でいっぺんに失っている。だからあり得ないことではなかったのに、あまりにも身近な人の死はなぜか、何度経験してもまったく想像できないものだった。

 ときどき考える。不幸の星が、また不幸の星を呼び寄せたのだろうか、と。

 負の連鎖があるなら、この先いったいどこまで繋がっているのか。目に見えない鎖が自分の足首にも絡まっていたら……などと想像するから、夢見が悪い日もある。

 ――不安は不安を呼ぶんだ。楽しいこと考えなきゃ。

 親もきょうだいもいないという似た境遇の天とふたりで、身を寄せ合って生きていかなければならないのだから。

 とはいえ、志真の両親が遺してくれたお金があるから困窮を嘆くほどではないし、いざとなれば助けてくれる親戚もいる。だから天を児童養護施設に預けずに可能な限り自分で面倒をみたいと志真のほうから懇望した。

 だって、天がまだミルクを飲んでいるころから傍でずっと見てきたのだ。夏南が作った離乳食を志真がスプーンでひと口ずつ、天に食べさせた。志真がおむつを替えることもあったし、ベビーカーを押して歩くこともあった。童謡をうたってあげたり、お風呂で十までの数を教えたりした。年の離れた弟の面倒をみるような気持ちで、姉とふたりで天を育ててきたのだ。

 それに志真自身ひとりぼっちになりたくなかったし、母親の死を理解しきれていない幼い天をひとりにしたくなかった。残された者同士が身を寄せ合うためだけじゃなく、こうして護るべき存在が身近にいることで、自分ひとりでいるよりむしろがんばれるとも考えた。実際、明るく無邪気な天に助けられ、あのとき離れず傍にいてよかったと心から思う。

「天ちゃん。今から暇だし、これ食べたら『ようかいマン』ショップに行ってみる?」

「行くーっ!」

 元気よく手を挙げて残りのおにぎりを急いで食べ始めた天に、志真は「ようかいマンは逃げないからゆっくり食べて」と笑った。



 弁当を食べていた公園を出て、『ようかいマン』ショップが期間限定でオープンしているという渋谷へ。親子連れの熱気溢れる店内を小一時間ほど見て回り、キャラクターカードを一袋だけ天に買ってやった。

「店の中、暑かったなー」

 新陳代謝が活発な天は頭から汗をかいている。歩道の脇に立ちどまり、ハンドタオルで拭ってやって、志真も制服のシャツの襟元を摘まんでぱたぱたと扇いだ。

 横にあったショーウィンドウを鏡代わりに、乱れたショートヘアーの前髪やサイドを手ぐしで軽く整えた。伸びっぱなしで、いいかげんどうにかしたいなと思う。その顔を天が懸命に下から覗こうとしていて、志真は思わず笑った。

「しま、かっこいいよー。おめめはぱっちりだしー、お口もお鼻も、えっとね、素敵ー」

「ほんと? かっこいいなんて言ってくれんの、天ちゃんだけだよ」

 同級生の友だちからはいつも「かーわいいなぁ」と愛玩動物を愛でるがごとく髪や顔を撫でまわされ、通学電車の中でそれをやられた日には女子高生にクスクス笑いされて恥ずかしい思いをしている。

 志真は天と手を繋いで道玄坂を歩いた。同じクラスの友だちが松濤に住んでいて、『暇だったらうちに来いよ』と誘ってくれたのでそっちへ向かうつもりだ。

 スキップを始めた天のぴょこぴょこと跳ねる頭に、若葉色の街路樹から落ちる春の木漏れ日が水玉模様を描いている。

「天ちゃん違う違う。それスキップじゃない。こうやってー、こうやって……」

 今日の午前中に天が通っている保育園で行われた家族参観で、天はスキップがうまくできなかった。実際やってみると、小さな子に教えるのは意外とむずかしい。

 志真が足の運び方をレクチャーしていると、天が急に立ちどまった。

「パパっ!」

 そう叫んで天が指をさした先は、ガラス張りの外観とコンクリート打ちっ放しの内装がクールな料理教室だ。志真たちがいる歩道のすぐ脇に立つ建物で、階段を数段上がったところが入り口になっている。

「しまっ、ほら、あそこっ!」

 天に言われるまま建物に近寄り端のほうから中を覗くと、中央に備え付けられた白いアイランドキッチンの周りを、男性がひとりと、女性が十人ほどで囲んでいた。

「えっ……?」

 白シャツにカフェエプロンが似合っている男性がこの料理教室の先生のようで、天とともに志真も彼に目を奪われた。

 百八十センチくらいはありそうな上背で華やかな雰囲気があり、整った顔立ちに似合うアップバングは清潔感もある。男性がひとりだからというだけでなく、集団の中にいてもぱっと目を惹く容姿以上に志真を驚かせたのは、彼が天の父親――居間の仏壇にある遺影の人物にとても似ていたからだ。天は仏壇に「おはよう」「おやすみ」のあいさつを欠かさない。物心ついたころからそこにあるパパの遺影を見て育ったのだ。

 天もその人に釘付けで、「パパ」と繰り返した。

 しかし、そんなはずはない。夏南から「天の父親は天が産まれてすぐの頃に仕事中の事故で亡くなった」と聞いている。

「天ちゃん、あの人はパパじゃないよ」

「パパ! あれパパー!」

「ちょっと天ちゃん、しーっ」

 手で天の口を塞いでひとまず静かにさせつつも、志真も気になって横目で確認した。

 目鼻立ちは割合にはっきりしているけれど濃いわけじゃなく、かといって地味でもない。志真は遺影を見て、朝の連ドラに出てきそうな美男だな、と思っていた。

 どこかの川縁で撮られた写真は、彼の穏やかで柔らかな笑顔が淡いクリーム色の陽の光に溶けそうで。亡くなったと聞かされたからか儚げにも感じられた。

 今、志真の視線の先にいる料理教室の先生は、ときおり笑みを浮かべ、生徒ひとりひとりの目を見つめて話している。そんな彼に女性たちはみなうっとりと心酔しているようだ。

「……たしかに、まぁ……顔は似てるけど……」

 彼が手元の包丁に落としていた目線をちらりと上げただけで、まるで胸を射られたみたいに瞬いている女性もいれば、顔を見合わせて嬉しそうにこっそり微笑みあう人たちもいる。野菜の水を切る、高い位置に置いてある調理器具を取る、調味料を振りかける――その動作がいちいちパフォーマンス的で、女性たちはときに「きゃあ」とはしゃいだ声を上げ、純粋に料理を習っているというより、料理をするイケメン鑑賞会といった様相だ。

 動いている人物をじっと見ていると今度は、それほど似てない、と思えてくる。爽やかな連ドラ俳優のイメージとはちょっと違って、ハーレムで女性をはべらせているように映るからだろうか。

「あの先生も、この料理教室も、なんか……。天ちゃんのパパはあんな人じゃないって」

 幼い天の手前、言葉は濁したものの「うさんくさい」と思ったからつい、あんな人じゃない、なんて言い方をしてしまった。

 天の父親、つまり夏南の夫に志真は一度も会ったことがない。しばらく会わない間に妊娠、出産、そして夫と死に別れていたからだ。

 両親が交通事故で亡くなった当時まだ小学四年生だった志真は親戚に引き取られたが、十九歳だった夏南は負担をかけまいとして独り暮らしを始めた。「ふたりで暮らせるようにお金を貯めて、志真を迎えに来るからね」と約束をして。

 志真は親戚の家で六年生まですごし、その二年ちょっとの間に天が生まれていた。夏南とは電話やメールでときどき連絡を取りあっていたものの、妊娠の報告もなくいきなりできた『甥っ子』、乳飲み子の天を目の前にして志真としても当時はかなり面食らった。今は、年の離れた弟みたいな気持ちで天をかわいがっているが。

 志真の中学進学を機に親戚の家を出て夏南たちと三人で暮らすことになり、そこで天の父親だという遺影の写真をたった一枚見ただけだ。

 夏南が「彼のことを思い出すとつらいから」とあまり話したがらなかったので、どんな人物だったのかなどあまり詳しく聞いていない。だから志真は、『穏やかで優しそうな人』と天の父親像に勝手なイメージを持っていて、「あんなチャラくない」と感じるのだ。

 志真に違うと言われても、天はガラスの向こうに立つその人を目で追っている。志真が「もう行こう」と天の手を引っ張るけれど、天の足がなかなか進まない。

「天ちゃんもパパは写真でしか見たことないもんな」

 他人の空似。だけど頭でそう否定しつつ志真も天と同様に、なんだか後ろ髪を引かれた。

 彼が少し横へ移動して、それまで見えていた顔の向きが変わる。

 志真は「あっ」と小さく声を上げた。

 左の頬骨のいちばん高い位置に、ほくろがふたつ並んでいる。遺影と同じだ。

「――……」

 身体的特徴が一致したとたん、やっぱりすごく似ているような気がしてきた。見間違いかと思って、もう一度建物の端のほうから穴が開くほど凝視する。

「兄弟……双子とか……いや、違うな」

 夏南は「ご両親を事故で亡くされて、ほかに身寄りのない人だった」と言っていた。珍しくそう話してくれたとき、同じ境遇の者同士で分かり合えることが多かったのかも、と志真なりに察したから覚えている。

 でも、あまり付き合いのない遠い親戚、互いを知らないままの腹違いの兄弟かもしれない。世の中には自分にそっくりな人が三人いるなんていう俗説まで頭に浮かぶ。

 とにかく天の父親であるはずがない。しかしほくろの位置や数まで同じとは、奇跡の確率じゃないだろうか。

「パパー……」

「天ちゃんのパパの名前……たしか、夏南は『ヨウくん』って言ってたよな?」

 天は志真の問いかけもぜんぜん耳に入らない様子だ。

 名字も、その名前の漢字も分からない。手がかりはバストアップ写真しかなくて、背丈も不明。ほかに知っているのは、夏南と同じ年齢だったということくらい。

 料理教室の先生の名前がどこかに表示されていないか探して建物入口まで戻ると、案内板の下のラックに二つ折りのちらしがあった。おもてと裏、中を開いてみる。

 右端の下に先生の簡単なプロフィールが記載されていた。

「……ヨウ……二十六歳……」

 名字がないし、あえてカタカナ表記にしてるのかもしれないが、年齢も合う。同時に、胸がいやな強さでどくどくと鳴りはじめた。

 気のせいでもただ似ているだけでもなく、彼は天の父親じゃないのだろうか。

「しまー?」

「ごめん天ちゃん、ちょっと待ってね、考えさせて」

 頭の中を整理しよう。

 ただの偶然、という可能性はまだ残っている。だけど、こんなにいくつもの事柄が一致するなんて、そうそうあるだろうか。

 じゃあ、天の父親は本当は死んでなくて、生きているとしたら。

 子どもを認知してもらえない事情――たとえば不倫とか、もう決まっている相手がほかにいて、夏南は結果的に捨てられたから「死んだ」と偽った、とかだ。詐欺まがい、もしくは夏南とはただの遊びで、あっちに結婚する気が毛頭なかったから捨てられ……。

「……だめだ……騙された、裏切られた、捨てられた方向にしかいかない」

 子どもに対して「お父さんは死んだ」と偽ったほうがマシだとすると、どれだけひどい人間だったのか、という結論に行きつく。

 死んだと偽るのもしかたないと納得できるような、抜き差しならない事情があったのかもしれない。でも。

「ないよ……後ろめたいとか、夏南と天ちゃんを幸せにできない何かがあったとしか思えない」

 志真はもう一度、料理教室の中をそっと覗いた。

 こんなふうに建物の端のほうから垣間見ただけ。彼の内面なんて分からない。でもチャラ男とまではいかないけれど、自分自身がレベルの高いイイ男で、女性たちからちやほやされていると分かっているのが透けて映るあのふるまいから、相当な遊び人に思えてしかたない。

 夏南は天のために、「あなたのパパはひどい男なのよ」とは話したくなかったから、死んだことにしたのではないだろうか。

 でもこれもすべて憶測でしかない。彼は夏南と天とは無関係の人物かもしれないのだ。

「……天ちゃん……あの人に、直接訊いて確認してみようか」

 このままここから去っても、きっともやもやしてしまう。確認したくなる。もし違っていたら「人違いでした!」で逃げればいいのだ。



 料理教室が終わるのを待つ間に、遊ぶ約束をしていた松濤の友だちに「行けなくなった」とお詫びの連絡をした。

 天に菓子を食べさせながら、隣のビルの陰に潜んで待つこと一時間余り。生徒の女性たちが帰ったあと、料理教室から最後に出てきた黒縁めがねの男を見て、この建物の管理人? 事務の人? あのイケメン先生のほかにも男性がいたのかなと思った。

 男は出入り口になっているドアの前に屈み、施錠して立ち上がると、大きなため息をついて数段ある階段をややダルそうに降りてくる。

 オーバーサイズのキナリのTシャツ、裾をロールアップさせた麻のパンツに、足もとは履きつぶされたサンダル。寝起きで近所のコンビニに行ってきます、というような、だいぶくたびれたかんじだ。

 志真は唖然とした。黒縁めがねをかけているけれど、ふたつ並んだほくろが見えたからだ。

 ぴしっと清潔感のあるアップバングはどこへ行った、と訊きたくなるほどの、ノーブローのぼさぼさヘアー。さっきまでぱりっとした白シャツでキラキラオーラを放っていた料理教室の先生ととても同一人物には思えないが、このもっさりした男性はヨウということになる。

「まさかの三つ子ってことはないよな。それか……変装……?」

 アイドルばりにモテすぎて、追われるのは面倒くさいからわざとイケてないふうを装っているとか。

 あまりにも風貌が変わり果てているせいで声をかけられないでいると、ヨウはさっさと道路を横切って反対の歩道へ行ってしまう。

 それまでスナック菓子に夢中だった天の手を引いて立ち上がらせた。

「天ちゃん、追いかけよう」

「らじゃ!」

 小走りであとを追う。探偵気分の天は目をぱっちりと開いた真剣な顔つきだ。

「あの人、やっぱりてんちゃんのパパ?」

「いや、まだ分かんない。ていうか歩くの早っ」

 急いでいるのだろうか。早足の男は、道玄坂のラブホテル街とおぼしき小道に入っていく。

 こんなところを歩いたこともない純朴な志真は足がとまった。小さな子を連れて通るのは憚られるけれど、見失うわけにいかない。

 志真は意を決し、天を抱っこしてひたすら追いかけた。

 細い路地を抜けて大通りに出ると、百貨店の脇道へ。身長百センチ、十五キログラムの天を抱えて、さらに四ブロックほど進めば男子高校生といえどもへとへとになる。

『奥渋』とプリントされた黄色のフラッグが通りの先のほうまではためくのが目についた。

 奥渋谷は若者で賑わう渋谷の中心部から少し離れており、落ち着いた雰囲気のカフェやショップが軒を連ねている。この辺りは宇田川町、松濤、神山町のちょうど町境だ。

 蔦が這う二階建ての古い家屋の前で男がようやくとまり、志真は抱いていた天をやっと地面に下ろした。傍の街区表示板は『渋谷区神山』となっている。

 道幅が広めの一方通行で、周囲にはパン屋、開いていない様子の商店、洒落たマンションもある。夕方からの営業となる寿司店のシャッターにそぐわないスプレーのグラフィティー。渋谷っぽい雑多な雰囲気に気を取られていたら、男が解錠して家屋に入っていった。

「……カフェ……?」

 遠目からだけど、立て看板が見える。パンケーキっぽい絵がチョークで描かれているようだ。

 十字路の角にあるので、店の入り口とは別の壁側から中の様子を覗こうとするけれど、蔦に阻まれてよく見えない。結局入り口側に回った。

 立て看板にはHotCakeと書かれてあり、端っこに雑誌の切り抜きらしいものが貼り付けてある。そちらは写真付きだ。

「『古民家風カフェ・月耀 』……げつ、よう?」

 月曜日の月曜と一瞬読み間違った。

 料理教室の先生がカフェを経営――それがよくあることなのか志真には分からない。別人と入れ替わったのかというほど変貌した謎多き人の様子も気になるところだ。

「パンケーキじゃなくてホットケーキなの……どう違う……」

 ふと天を見ると今にもよだれを垂らしそうな顔で、ホットケーキの写真に目を奪われている。

 艶やかなメープルシロップがホットケーキの天辺からふんわりと厚みのある断面に滴り、バターがとろりと溶けだす様は、志真から見ても垂涎もののビジュアルだ。

「……天ちゃん?」

 ごくっと大きく喉を鳴らし、そっと志真を見つめる目が「おいしそう……」と泣きそうに潤んでいる。

 そういえば夏南が亡くなってから、市販の菓子を食べさせても、手作りの菓子類は与えたことがない。志真が普通の料理すらまともに作れないのだから当然だ。

 夏南は日常の料理はもちろん、お菓子もまめに手作りしていた。幼い天のために甘さ控えめのクッキーやバナナのパウンドケーキ、夏には果物が入ったババロアやゼリーを作ったり、くまさんの型でホットケーキもよく焼いていた。

「……天ちゃん、ホットケーキ食べたい?」

 志真が訊くと天は、ううん、と首を横に振る。でもその目はホットケーキに釘付けだ。

「ようかいマンのカード買ったし。おかしも食べたし……」

 さっき食べたスナック菓子なんて小袋で大した量じゃない。日頃、あまり無駄遣いできないと志真が言うから、きっと遠慮しているのだ。

 天は「いらないよ」と言いながら、ぎゅっと志真のズボンのポケットを掴んでいる。

 本当は食べたいのを無理しているのは明らかで、だからこそ志真はとてつもなく胸が痛んだ。こんな小さな子どもなのに、「わがままを言っちゃいけない」と、自分が我慢させてしまっている――そう思うとますます切なくなる。

「あ~俺は食べたいなぁ。天ちゃん、仲良く半分こする?」

 天は、ぱあぁっと表情を明るくして「するっ!」と元気に右手を挙げた。

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