境界少女

和久井 透夏

境界少女

「アンブシュアを教えてあげよう。親指を出してごらん」

 吹奏楽部顧問の睦月芳実むつき よしみ神島晶かみしま あきらの耳元で甘く囁いた。


 そうして睦月は晶の出した親指を甘噛みする。


「あ……っ」

 静まり返った音楽室で、晶の声が響いた。

 自分の声で思わず我に返る。


 睦月がアルトサックスで音を出す時の口の形を教えてくれようとしている。

 頭ではそうわかっているのに、誰もいない音楽室に二人きりでこの状況と言うのは、晶にはどうにも変な感じがした。


「怖がらなくていい。先生がちゃんと指使いも教えてあげるよ」

 睦月は晶の親指を口から離すと、後ろに周って晶を抱きしめるような体勢になった。

 晶は自身の跳ね上がる心臓に必死で言い聞かせた。


(これは、指の動かし方を教えるため……)


 アルトサックスを持つ晶の指に、睦月の大きく節ばった指が重ねられる。

 耳元で吐息交じりに聞こえてくるバリトンボイス。

(これは、本当に普通の指導なんだよな……?)

 と、晶は頭の中に疑問符を浮かべる。


 編入生、しかも吹奏楽部に入るまでアルトサックスなんて一度も触った事のなかった晶は、入部しても当然の如く何もできなかった。


 幸い、この学校の吹奏楽部は大会で優勝する事を目的とするようなものではなく、ただ高校の思い出作りに皆で好きな課題曲を決めて学校の催しで発表する程度のゆるい部活と聞いたので、入部したのだ。


 せっかく吹奏楽部に入った以上は、せめて課題曲ぐらいは吹けるようになりたい。

 課題曲はおろか、まともに音を出す事すらできない晶は、放課後一人残って練習していた。

 すると顧問の睦月がやってきて、個人指導をしてくれていた……のだが、これは本当に個人指導なのだろうか。


 だんだんうまく出来ない悔しさともどかしさと恥ずかしさで、自分の顔が紅潮していくのを晶は感じ始めていた。

 気がつくと、涙が滲んできた。


 どうしてだろう。

 、妙に涙もろくなってしまった。 


 その時である。

 バタンと音を立てて、音楽室のドアが開いた。

「何をなさっているんですか」

 声の主はクラスメイトで生徒会長の松井遥まつい はるか


 ビクリと硬直した表情で振り返る晶の目に涙が浮かんでいるのを見て、遥は眉をひそめた。


「睦月先生、女子学生に手を出そうとしてるんですか」

 冷たい視線を睦月に向けながら、遥は強い言葉を投げかける。


「やあ、松井さん。御覧の通りだよ。彼女にアルトサックスの指使いを教えてるんだ。君にも個人指導が必要かな?」

 対して、爽やかに笑う睦月の眼鏡の奥に妖しい光が灯った。


「いえ、結構です。」

 遥が答えた刹那、

「こんなところにいたんだね、神島さん!」

 教室内に弾んだ少年の声が響いた。

 キラキラと目を輝かせた折田崇おだ しゅうが遥の後ろから現れ、晶へ向かって歩いてくる。


 まずい。折田だ。

 瞬間、はじかれたように晶は座席から立ち上がり、アルトサックスのストラップを外して睦月にアルトサックスを押し付けた。


 楽器を持った睦月は咄嗟に動けない。

 晶は睦月から離れ、走り出した。


「神島くん?」

 睦月が晶を呼び止めるが、追いかけてくる折田を振り切るのが先決だ。

 そのまま、晶は折田と遥の脇をすり抜け、音楽室の外へ逃げた。

 廊下を駆けていく晶は心の中で叫ぶ。


(どうして俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ……!)




 神島晶は、夏休みのある朝、目が覚めると美少女になっていた男子高校生である。

 元々の彼は、リア充の根絶を願って止まない卑屈な性格の、少林寺拳法を嗜む小柄な男子だった。

 しかし、ある日突然女になってしまった。


 病院に行っても原因はわからず、性転換したことが周囲に知られれば、好奇の目に晒されることは間違いない。

 そんな事がわかりきった状態で以前と同じ高校へ通うことなどできるはずもない。


 幸い夏休みだったので、そのまま家族で転居して転校もして、新天地で女子高生として暮らす事になったのだ。


 ……意味がわからない。


 ただ、確かなのは神島晶は現在、肉体的に男ではないということと、自分で言うのもなんだが、かなりの美少女になってしまったことだ。

 仕方がないので、姉にレクチャーを受けつつ、夏休みのうちに体の違いを教えてもらい、女の子としてのふるまいを身につけた。


 9月になり、新しい学校へ転校早々、美少女だということもあり、クラスメイトは優しくしてくれた。

 特に隣の席のイケメン梧桐晧あおぎり こうがやたら声をかけてきたけれど、晶の中身は非モテの卑屈な男子なので、イケメンというだけで憎悪の対象だった。

 『イケメンは死罪』とうっかり口走りそうになるくらい、晶はイケメンが嫌いなのである。


 ところが梧桐は、晶の塩対応にもめげず、押し付けがましく世話を焼いてくる。

 そのせいで、その気も無いのに梧桐のファンクラブの女の子達から転校早々、目を付けられてしまった。


 ある日、晶は赤いアンダーリムの眼鏡をかけた女の子から昼休みに呼び出された。

 場所はごみ焼却炉が近くにある東校舎の裏。

 そこには女子が8人。

 彼女らは自分達を梧桐のファンクラブだと名乗った。


「大体、梧桐様にあんなに声をかけてもらえるだけでも生意気なのに、その上、なんで梧桐様に失礼な態度をとってるのよ!」

 女子の中でも一際背が高く、リーダー格と思われる同じクラスの女子、久住くじゅうが強い口調で責め立ててくる。

「そんなつもりはないんだけれど……」

 突然のことに戸惑いながら晶が返事をすれば、

「あなたの心情なんてどうでもいいのよ! 見て取れるあなたの立ち居振る舞いが不快なの! 目障りだからさっさと梧桐様と私達の前から消えて!!」

 理不尽としか言いようの無い言い分で久住は晶の前に詰め寄ってくる。


「ちょ、ちょっと待って。久住さんは誤解していると思う」 

 久住は今にも晶の襟をつかみそうな勢いだった。

 これ以上近寄られたら、女子相手にうっかり蹴りを入れてしまいそうだ、と晶は眉をひそめた。

 ここは、他意がないことをはっきり言うのがいいのかもしれない。


「梧桐くんがいくら私に話しかけてきたり世話を焼いてくれようとしても、私は梧桐くんに好意を持っていないし、私はむしろ女子に世話されたいのっ!」

 久住の目を見つめ、きっぱりと話した。


「じょ、女子に世話をされたい……?」

 何を言っているんだと久住の動きが止まった。

 周りの女子達も小声で顔を見合わせて困惑している。


「私は女の子が好きなんです! なんだったら梧桐くんより久住さんにお世話されたいんです! 後ろのあなた達でもいいんですけど……」 


 誰でも良いから女の子と仲良くなりたい! そんな元非モテ男子の魂の叫びに、梧桐のファンクラブという集団はすっかり戦意を失った。


 しかし、その様子を見た晶はどうやら誤解が解けたようだと、ニッコリ笑った。

「私はクラスメイトの皆さん……だけなんです」

 晶の頬を紅潮させて妙に瞳をギラギラさせた様子に、彼女を取り巻く空気は途端に凍り付く。


 というか、ドン引きしていた。


「では、誤解も解けたようですし、私教室に戻りますね」

 そう晶が言った時だった。


「イジメよくない!」

 突然、同じクラスの折田崇がなぜか鼻息荒く、梧桐ファンクラブと晶の間に割って入ってきた。

「さあ! ここは僕が食い止めるから君は早く逃げるんだ! 僕が女子達に殴られたり蹴られたりしているうちに早く逃げるんだ!」

と女子達に向かっていく折田。


「さあ、僕を殴りたまえ!」

 逃げまわる女子を更に追いかける折田は、完全にか弱い女子高生を追い回す不審者だった。


 見かねた晶は折田の元へと駆け寄る。

「イジメも何もないわよ! この痴漢!」

 晶は折田を痴漢と判断し、幼少期より嗜む少林寺拳法により折田の体をかわし、後手になった折田の手をつかみ、関節を決めて投げた。


(不審者から女子を守った俺! ちょっと好感度上がったんじゃないか!?)

 そんな期待を込めて晶は女子達のいた方へ振り向いたが、その時には既に彼女達の姿は跡形も無く消えていた。


 残されたのは黒髪の美少女である晶と彼女の足元に転がる少年だけであった。

 咄嗟に受身を取れなかった折田は背中にしびれるような痛みを感じていた。

 それは、折田の心を鷲づかみにした。


 投げられた瞬間、一瞬見えた彼女のスカートの中の眩い白が彼の幸福感をマシマシにする。

 痛みを全身で味わった後、肩を落としてその場を去ろうとした晶を慌てて呼び止め、彼女の前にひざまずきうっとりとした目を向けた。


「晶さん、あなたは僕の女神だ」

「…………は?」


 折田は痛みを快感に感じるドMだったのだ。

 転校して早々、こうして晶は折田に付きまとわれるようになってしまった。



 翌日からは、クラスの女子に「晶さんは女の子が好きなんですって」と遠巻きに噂されるようになってしまい、距離をとられるようになってしまった。

 その上、折田と梧桐にはうっとうしく絡まれて、ただただ居心地が悪い。


 そんな折、この高校は生徒全員部活をしないといけない規則なので、晶にもその案内が来た。

 吹奏楽部ならお昼休みも練習と称して、部室でお弁当を食べられるので、入部した。


 しかも、吹奏学部は顧問の睦月芳実先生がイケメンで優しい為、先生目当てで入部している生徒ばかり。


 女子ばかりでも、一瞬にして広まった晶が百合趣味だという噂のおかげで安全パイとみなされ、普通に友達もできた。

 部員達は熱心でもないし、部活のない日や休み時間も皆あまり練習にはこない。


 そのせいもあり、今日も放課後、一人で部室にいる所を睦月先生に見つかり、個人練習と言われて睦月先生に指を咥えられていたのだ。




 なんとか折田をまいた学校の屋上へ出た晶は、残暑厳しい日差しと生ぬるい風を感じながら辺りを見回す。


 屋上には晶しかいなくて、だんだんと少し気持ちが落ち着いてきた。

 蝉の声が五月蝿く、日陰にいてもじりじりと身を焼かれるような暑さに、晶は踵を返して校内へと戻る。


「あ、鞄を部室に置いてきちゃった……」

 屋上へのドアを閉めたところで、ふと自分が手ぶらである事に気付く。


 先程の睦月とのやりとりを思い出すと、なんだか変な雰囲気になりそうで戻るのもためらわれた。

「もう少し、ぼんやり待つかぁ」

 晶はひんやりするドアに背中を預けて座り込み、小さくため息をついた。


 そんな時だった。

 階段を上ってくる足音が聞こえたのは。


 途端に晶に緊張が走るが、階段を登って現れたのは、晶の荷物を持った遥だった。

「あ、こんなところにいた」

 そう言って彼女は晶に荷物を渡してくる。


「松井さん、わざわざ荷物を持ってきてくださったんですか。ありがとうございます」

 晶が荷物を受け取りながらお礼をいうと、なぜか遥はもじもじとしている。

 不思議に思ったけれど、晶は気にせず話を続けた。


「睦月先生にあんなに側に寄られて、どうしたらいいか困っていたので助かりました」

「睦月先生は男女の見境なく発情される方だから、神島さんが睦月先生と二人で音楽室にいるのを見かけて、気になったの。何も変なことされなかった?」


 遥は晶を気遣ってか、晶の顔を心配そうに覗き込む。

「ありがとう。大丈夫」

 にっこりと晶が笑いかけると、遥の頬がぱぁっと赤くなった。


「ところで、折田くんはどうして神島さんを探していたの?」

「あの人は……」

 晶は言いかけて言葉が途切れた。

 しかし、意を決したように一気に話す。


「折田さんは女子の敵で、痴漢です」


 続けて、遥は晶に折田と付き合っているというわけではないのかと聞いてきた。

 唐突な問いに晶はびっくりしつつ、軽いノリで返す。

「男相手とか、ないっすわ~」


「……あの噂、本当だったんだ」

 遥の目が輝いた。


「神島さん」

 真剣なまなざしの遥が晶の手を両手で握った。

「ど、どうしたんですか」

 気圧された晶は少し後ずさりした。


「私ね……私も、女の子が好きなの」


「え……」

「でもね、そんなこと誰にも言えないじゃない。ずっと隠していたのよ」

 潤んだ目で晶を見つめる遥。


「そんなときに神島さんが転校してきたの。神島さんも、女の子が好きって聞いて……私、一人じゃないんだって思えて、すごく嬉しかったの」

 熱っぽい視線を晶に向けながら彼女は続ける。


 どうやら、遥は元々生粋の百合女子らしい。


「それで……私とか、晶さんの彼女として、どうでしょうか……?」

 顔を真っ赤にしてもじもじしながら告白してくる遥に、晶の顔も自然と熱くなる。


 晶は呆気にとられたものの、人生初の告白に思わず全力でうなづいていた。

「ふ、ふつつか者ですがっ、よろしくお願いします……!」

「ありがとうっ、嬉しいわ!」

 遥が感極まった様子で晶に抱きついてくる。

 柔らかな胸の感触に戸惑いつつ、晶は幸せを感じた。




 なお、その一ヶ月後、晶は目が覚めたら男に戻っており、時期的に転校も無理で女装して高校に通うことになったのだが、それはまた別のお話である。

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境界少女 和久井 透夏 @WakuiToka

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