海にはサカナ、そしてトリ

葦池ヨシ

本編


 ここはとても静かなところ。多くのものはないけれど、ぼくらを煩わせる問題もない幸せな世界。永遠に続きそうな、なにもない平和な時間だけが流れている。

ぼくは泳いでいた。

水の冷たさがとても心地よい。身体を震わせる僅かな水流。淡く揺れるかすかな光。ぼくを、深く、どこまでも沈めていく幻想。

このままどこまでも泳いでいけるような気がした。そうだ、この世界に果てなんてものはないだ。ぼくはここ以外の世界を知らないけれども、どんな世界でも想像できる。想像は真実となり、やがて新たな世界が生まれ、世界は続いていく。何度も言うようだけど、果てなんてものはない。終わりもない。ぼくが願いさえしなければ。

不意に今まで感じたこともないような、不思議な振動を認識した。

これはぼくが今まで認識したどんな海流とも違うし、何かが泳いだ時の波動とも違う。きめ細かく、大切に紡がれた振動。一瞬で消えてしまいそうな儚い感覚。いったいこの振動は何なのだろう? よくわからないけれど、この振動はぼくに特別なことを伝えている、そんな気がする。

ぼくは振り返る。それは微かな振動だった。けれども、一度気付いてしまったら、けして無視をすることのできない振動だった。

胸騒ぎがする。行かなくては、と思う。

呼ばれているのだ、この振動に。こみ上げてくる思いに、逆らうことは出来ない。

ぼくは振動の発生源へと泳いでいく。


 どこまでも水は冷たく、世界は変わらない――はずだった。

 振動に導かれて、しかしぼくの考えは間違っていたのだと思い知らされる。

何か巨大なものが見えてきた。大きすぎて、その全体を確認することはできない。最初は岩かと思ったけれど、そうではないみたいだ。触れるとざらざらとして、中が空洞になっている。ぼくはこんなものを今まで見たことがなかった。

怖い、と。生まれて初めて感じた。

もはや、世界は一定ではない。新たな可能性が芽生え、ぼくの前に立ちはだかる。いよいよ胸騒ぎが激しくなる。

今からならば、平穏とした世界に戻れるだろう。わかっているのに、ぼくは戻ることが出来なかった。

振動はその巨大な物体の中で発生している。

ぼくは、どうしてもその振動を、ぼくを惑わせる意味を知りたい。

巨大な物体の内部へと、侵入する。

内部はそびえたつ岩場のように狭い。ぼくを拒む全ての障壁は不自然な程に平面だった。そして、薄暗い。隙間から最低限の光だけが差し込んでいた。その光の帯から帯へと縫うように、一心に泳いで行く。

開けた場所に出た。光が、差し込む。

ぼくが見上げると、見下ろす一対の瞳と視線が交わった。

振動を発生させていたのは、生き物だった。

変な容姿の生き物。ぼくが今まで見たどんな生き物とも似ていない。ぼくは初めて出逢う生き物を、観察する。その生き物は、体の大部分がとても細い海藻のようなものに覆われており、ひれは巨大な胸びれを一対、それと長すぎる尾びれを持っている。背にはひれがない。もう一対のひれのあるべき場所には、妙な細長いものが一対突き出て、しかもそれが先で分かれ地を掴んでいる。

見れば見るほど妙な形だ。非合理的。お世辞にも泳ぐのに適している体とは言えない。それどころか、水に流されていくにも適した体とは言えなかった。

「どなた?」

 生き物は意味のある振動を発した。ぼくは驚いた。それはコトバだったから。

 コトバは振動だ。それは水の流れとも、あの生き物が今まで発生させていたものとも違う。明確な意味を持った、振動なんだ。

 例えば『水』というコトバは、発すれば少し複雑なだけの振動だ。水流や波紋と大きな違いは無いはずだ。けれども、その『水』というコトバは、はっきりとぼくの中に水という物それ自体をイメージさせる。

 今までぼくは、自分以外のコトバを発することのできる生き物に出逢えた事はなかった。不思議な事に、ぼく以外の、どんな生き物も明確な意味を持った振動を発することは出来ない、はずだった。

 眼の前の生き物は違う。ぼくと同じコトバを持っている。

少しだけ違うのは――この生き物が発したコトバは、ぼくのコトバよりも心地よい振動であると感じることだった。

「ぼくは、サカナだ」

 ぼくは問いかけるコトバに、コトバを返した。

「あなたが魚? まさかね……ふふふ」

 その生き物は笑いだした。

「なぜ笑うんだ?」

 ぼくがきくと、笑うのをやめて言った。

「サカナ、あなたのその顔は何? その腕は?」

「うで? そんなもの、ぼくは知らない」

「でも実際あなたには腕があるのよ。ほら今岩を掴んでいる――」

「これはひれだ。胸のひれ」

「違うわ、それは腕なのよ。胸びれは物を掴めたりしない。あなたの腕は、ほかのどんな魚のひれとも全く違うでしょう?」

 一体どういうことだ? ぼくのひれがひれではなくて、『うで』という得体の知れないものだなんて。そもそもぼくは『うで』というコトバが何を示しているかさえもしらないのに。

だけどぼくは、ぼくと同じひれの魚を見たことがなかった。彼女に『うで』と呼ばれた、ぼくの胸びれはほかの魚に比べ不細工で不便だ。

ぼくは不機嫌だった。ぼくの胸びれをひれと同じものではないと言われたことが悲しい。それに、それを勝手に『うで』なんて知らないコトバで呼ぶのは、なおのこと納得がいかなかった。

「じゃあ、きみの胸のひれは何なんだ? それこそぼくにはひれには見えないけどね」

「これもひれじゃないわよ。これは翼」

「つばさだって?」

 また、ぼくの知らないコトバが出てきた。

「よくわからないな。ぼくは初めて見た。それは何か特別なものなのかい?」

「そう……」

 『つばさ』と自称した器官を持った生き物は、おそらく口と思われる振動の発生源から、ゆっくりと水を吐き出した。ぼくにはその行動の意味はわからない。

「翼は空を飛ぶためにあるの」

 知らない、コトバ――『そら』。

聞いたこともないそのコトバに、なぜかぼくの胸が疼く。

「そら? それはなんだい?」

 ただ、そのコトバを発しただけなのに。何かが喉の奥に詰まったような、息苦しさを感じる。

「このずっと上にあるの。ずっとずっと上にね。私はその空にいたのに、ある時深い海の底に何があるのか気になってしまった。そして私は潜った。潜って潜って……気づいたら戻れなくなっていたの」

 そうか。

ぼくは真上を見上げた。果てしなく同じ世界が広がっているように見える。けれども、本当のその先には。

この上にはぼくの知らない世界がある。

「あなたも本当は知っているはずよ。もともと私たちは同じ生き物から生まれたのだから」

「同じ生き物から生まれた? そんなはずがないじゃないか。姿が違いすぎる。それに、ぼくさえもぼくの両親のことは知らないのに……」

 ぼくが物心ついた時には、すでに親はいなかった。ぼくは一人きり、気付いたら海の中を漂っていた。

 ぼくが知らない両親を、突然現れた生き物が知っているはずもないのだ。

「私が知っているのは、あなたの両親じゃないわ」

「でもさっきは、同じ生き物から生まれたと言ったじゃないか」

「そうよ、私達はヒトの想像から生まれたの」

「ヒトの、想像?」

 初めて聞いた事なのに、ぼくはヒトという生き物を知っている気がした。それは、とても大切な事の気がする。それなのに、考えるだけで頭が痛い。

 ヒト。想像。ぼくの存在。

彼女が言う通り、ぼくは忘れてしまっているだけなのではないか。

「あなたはこんなことさえも忘れてしまったのね。あなたさえよければ、教えてあげるけれど――」


彼女――つまりメスらしい――は、ぼくの知らない多くのことを知っていた。そしてその一つ一つを丁寧に、ぼくに教えてくれた。

彼女の発していた不思議な振動は『うた』というものであること。『うた』は確かに振動にすぎないけれど、コトバと同じ特別な意味を持った振動であること。『うた』はヒトという生き物が創造したものであるということ。ヒトはぼくらにとって共通の想像主であるということ。そしてぼくらは生まれながらにして、ヒトと知識の一部を共有していること。どれもぼくが初めて聞くことばかりだった。

「ヒトっていう生き物は、もう絶滅してしまったのかい?」

「絶滅なんかしてないわ。彼らは今も生きている。だから私たちが存在できる。彼らが夢見ることをやめてしまったら、私たちも消えてしまうの。ヒトってすごいのよ、この大きな物体を作ったのもヒト。この空洞を持つ箱は船っていうの」

 まさかこの物体が作られたものだなんて、思いもよらなかった。こんな巨大な物を作るとは、ヒトはとても強い力を持った生き物なのだろう。そんなすごい生き物が想像主だなんて、自分の事でもないにも関わらず、ぼくはなんだか誇らしかった。

そして、同時に嬉しかった。

ぼくはヒトを通して、彼女と繋がっていられる。

出逢ったばかりなのに、すっかりぼくは彼女に魅了されていたんだ。やはり彼女の姿は水の中では不適当であると思えたけど、それも彼女が『そら』から来たと思えば仕方のないことだった。その姿よりも、ぼくらがコトバで通じ合えることの方が大切だ。コトバを交わし合うことが、こんなにも素晴らしい事だったなんて! ほんの僅かな時間だのに、彼女はぼくに本当に色々な事を教えてくれたんだ。

ぼくは彼女の事が好きだ。初めて抱いた感情だったけれど、これは確信を持って言えることだった。

ぼくはもっと、彼女とコトバを交わしたい。ずっと彼女と一緒に居たい。

「ぼくもヒトを見てみたいよ」

「それはなかなか難しいわね」

 彼女はしわを作って、少し難しい表情をした。ぼくはその姿を、美しいと感じた。

「ヒトは水の中に長くはいられないのよ」

「どうして?」

「ヒトは水の中にいると溺れて死んでしまうから」

 おぼれて? ぼくはその現象を示すコトバの意味は解らなかった。結果として死んでしまうとは、重大な問題なのだろう。

 水の中で死んでしまうのでは、どうやってヒトは生きていくのだろうか。ぼくはヒトを万能な生き物だと仮定したけれど、実際は貧弱な生き物なのかもしれない。

「水の中にさえもいられないなんて、ヒトって不自由な生き物なんだろうね」

「そうでもないわ」

 彼女はあっさりとぼくの意見への否定をした。

「ヒトは打開する力を持っているのよ。とても彼らは強いの」

 やはりぼくの最初に考えたヒトのイメージは間違っていなかったのか。ただ、まだぼくは納得がいかなかった。

「でも、ここまで来られないのでしょう?」

「それは、ここが特別だから」

 ここが特別だなんて、そんなことは無いだろう。確かにこの巨大な物体――彼女が『ふね』と呼んだものは珍しいけど、それだってヒトが作ったものなのだ。ヒトがヒトの作ったものがある場所を特別だと思うなんて、考え難い。

「そういえば……ここにはヒトの作ったふねがあるのに、なぜヒト自身は一人もいないのだろう? このふねは、ヒトが棄てて行ってしまったのかしら?」

「そんなことは、ないわ……」

 彼女は、どうしてかうつむき加減に視線をそらした。

「じゃあなんで」

「そろそろ行きなさい。ここは危険だから」

 きっぱりと彼女は言った。突然の拒絶。ぼくはその流れに違和感を抱いた。話題をそらしているように感じる。何か、訊かれたくない事でもあるのだろうか。

あえて問う気にはなれなかった。

「きみも一緒に来てくれるのかい?」

「いいえ、私はここにいるわ。ここにいると落ち着くのよ」

 当然彼女はぼくと一緒に来てくれるものだと思ったから、ぼくはショックを受けた。

「ここは危険なんだよね? それともぼくと一緒に居るのは嫌いかい?」

「そんなことはないわ。でも――私は大丈夫だから。あなただけ行きなさい」

 彼女のコトバには、有無を言わせない響きがあった。やっぱり、何か隠していることは、自明だ。悲しいことに、彼女に嫌われたくないぼくは、問う事が出来ないのだ。

 彼女はぼくの傷心を察してか、ささやかな慈悲を付けくわえた。

「しばらくしたらまた逢いましょう」

 それは、彼女がぼくを嫌ってはいない事も示していた。

「わかった」

 彼女はここに特別な思い入れでもあるのだろうか。何か隠さなくてはいけない程の理由が――彼女が言うのなら、ぼくは立ち去ろう。今のぼくには、それしかできないのだ。

いや待て、ぼくは大切なことをきき忘れている。

「きみの名前は……?」

「私の名前?」

 ごくごく当たり前の質問だと思うのに、彼女はとても驚いていた。そしてなぜか、少し悩んだ。まさか今、名前を考えているのだろうか。

十分に考えた後、彼女はようやく答えたのだ。

「そうね、あなた流につけるのであれば、トリかしら」

 ぼくはまた泳ぎだした。


 時間というものは伸びたり縮んだりする。決まった時間の尺度なんて、この世界に存在しない。「しばらくしたらまた逢いましょう」と言った彼女との約束を守るために、ぼくは、ぼくの『しばらく』を過ごした。

その間は、驚くほど何もない時間だった。いや、昔のぼくにとっては、それこそが普通の時間だったのだろう。けれども、彼女に逢ってしまった以上、それは退屈な時間であったと称さざるを得なかった。

刺激も変化も無い。流されるだけの、時間。

彼女に逢わない間でも、彼女の事は考えていた。実際の所、ぼくというやつは彼女の事ばかり考えていたのだ。何度も脳内で彼女のコトバを繰り返した。彼女の『うた』はぼくの中で響き渡った。

トリ――彼女と別れてわかった事と言えば、ぼくには彼女が必要だと言うことだった。彼女とコトバを交わしたい。彼女の知識をもっと分けて欲しい。彼女の『うた』を聴いていたい。

頑張って彼女の約束を守ろうと思って、『しばらく』の時間がたつまで待っていたけど、それが限界だった。

ぼくの『しばらく』が経ったらすぐに、ぼくは彼女に逢いに行った。


 トリの居場所の様子は少し変わっていた。ぼくが前に行った時よりも入り組んで複雑になっている。『ふね』が増えたのだ。こんなにも多くの『ふね』があるなんて、彼女の言うとおり、ここはとても危険な場所なのだろう。

 あまりにも『ふね』が増えてしまったから、彼女のいる場所が解らなくなってしまってはいないかと不安だった。たくさんの『ふね』はぼくの視界を遮る。ヒトは一体何をしているのかと、ぼくは憤った。きっとヒトはぼくと彼女を、この『ふね』で隔てようともくろんでいるに違いない。こうしてぼくは、彼女に逢えなくなってしまうんだ。

結果として、そんな心配は不要だったんだ。

彼女のいる『ふね』は、見ればすぐそれとわかった。大切な物は、意外と忘れないものだ。さっきまでの不安はなんだったのか、一転してぼくの心は躍った。

変わらぬ様子で佇む彼女は、小声で『うた』を歌っていた。一人の時はいつでも歌っているのかもしれない。ぼくの所まで届いていないはずなのに、離れている間もずっと、彼女の『うた』に呼ばれていたような気がした。

「久しぶりだね」

 ぼくが呼びかけると、彼女はゆっくりとした優雅な動作で、ぼくを見た。

「そうかしら、あなたに逢ってからそんなに時間はたっていないと思うのだけど」

「ぼくにとっては十分な時間だったんだよ」

 ずっと逢いたかった、だなんてコトバは言えないけれど。心の中では、そういう心持ちだった。

「そうかしら?」

「きみには解らないかもしれない。だって、ぼくときみの『しばらく』は違うんだから。しょうがないよ。それより今日もきみに色々教えてもらいたいんだ」

「面倒な魚ね」

 口ではそう言いながらも、彼女は楽しそうだった。

彼女はすらすらと知っていることを話してくれる。その多くがヒトに関することだった。ヒトの生活や、ヒトとヒトとの関係。ヒトの食べる物に関しては、ぼくの知らない言葉が多すぎて、全く解らなかった。

前に逢った時もそうであったけれど、彼女の知識の深さには驚かされる。彼女はぼくの知らないことをたくさん知っているのに、ぼくの知っていることも彼女はほとんど知っている。

「なんでそんなにも物知りなんだい? トリは生まれた時から、そんなにたくさんの事を知っているの?」

 ぼくは思わず彼女に尋ねた。すると彼女は笑ったのだ。

「そんなことないわ」

 ぼくは見当外れの予想をしていた事を悟った。彼女に笑われた事が、恥ずかしくなってうつむくと、彼女はそんなぼくを励ますようにコトバを加えた。

「確かに、初めからヒトと共有していた知識は今のあなたより多かったけれど――ああ、あなたが気にすることはないわ。きっと何かのせいで忘れてしまっているだけよ――それでも、私も初めに持っていた知識は今よりずっと少なかったのよ。空の上からだと、いろんなことが見えるの。陸のことも、海のことも。ずっと空の上にいたら、いつの間にか無駄なことばかり覚えちゃった」

「無駄な事じゃない。それは、素敵な事だ」

 ぼくは反論したけれど、彼女は答えてくれなかった。

 それどころか、彼女はぼくを見てさえもいなかった。

 彼女は遠くを見ていた。じっと、上を。見えるはずもない『そら』を見つめる目は、深い悲しみに満ちていた。

ぼくはその時、気付いたのだ。彼女は『そら』という世界を愛している。当たり前だ。『そら』は彼女の生まれ育った、彼女の世界なのだから。

 彼女は『そら』に帰りたいのかもしれない。ぼくと違う世界に。

 ぼくの胸は痛む。

「そういえばふねが随分と増えたようだね。このふねって、ヒトは一体何に使うのだろうか?」

 どうしても彼女の心を『そら』のことから遠ざけたくて、ぼくは『そら』と全く関係ない事を、彼女に訊ねてみた。そのコトバは、わざとらしい程に明るく響いた。

「乗り物なの。ヒトは船の中の、空洞の部分に乗って移動するのよ」

「自分で移動すればいいのに。面倒な事をするものだね」

 彼女は答えなかった。彼女は『そら』に惹かれているのだ。

 ここに、ぼくがいるのに。

 ぼくは彼女に、ぼくの方を見て貰いたくて、問いを重ねた。

「ねえ、なんでこんなにふねは増えたんだろうね?」

 それが間違いだった。

「私がやったのよ」

 彼女のコトバは、ぼくと対象的に暗かった。ぼくもすぐに、自分がいけないことを言ってしまったことはわかった。

 しかも、彼女は何と言った――彼女がやったんだって?

ぼくは彼女のコトバをそのままに信じることは出来なかった。ぼくと彼女の邪魔をするとばかり思っていた『ふね』は、実は彼女が増やしていただなんて。

 彼女は、とうてい『ふね』を作れそうにない。ということは、彼女は『ふね』を集めているのだろうか。何のために?

 彼女が嫌がることをわかっていながらも、ぼくは訊かずにはいられなかったんだ。

「きみがやったって? なんだってそうなるのさ? きみはふねを集めるのが好きなのかい?」

「好きではないわ。でも、私の歌で、ヒトの船が沈んでしまうの」

 彼女のコトバは恐ろしいほど、陰気だった。そして、そんな些細なことが引き金となって、どっと彼女の口からあふれだした。

「そうよ、この船は、本当はヒトが乗っていたんだわ。それなのに、私が歌を歌うものだから、その歌に引き込まれて沈んでしまったのよ。中に居たヒトもみんな死んでしまったの。全部私のせいよ。私が歌なんか歌うから――でも私は歌わない事が出来ない。私は存在している以上、歌わなくては生きていけない。私は私だから。歌わなくてはいられないのよ。そうすると、ヒトは私の歌に誘われて……」

「ちょっと待ってくれ、きみは何を言っているんだ?」

 ぼくは知識不足だった。彼女が言っているコトバの、全てを理解することは出来ない。

彼女は、ぼくがなだめてもしばらくは同じ様子だったけど、たくさんのコトバを並べた後、ようやく落ち着いた。

「取り乱してごめんなさい」

 なぜかぼくに謝って、ようやく落ち着いて彼女の言っていた意味を、説明してくれたのだ。

 それは、ぼくにとって衝撃的な内容だった。

 すなわち彼女は、その歌声で『ふね』を呼び寄せ水の中に沈め、ヒトを溺れ死にさせているのだと言う。

「そんなはずないじゃないか!」

 ぼくは反発をしていた。根拠はなかった――いや、根拠は彼女がそんなことをするはずがないという、ぼくの希望だった。

「でも、事実なのよ」

 たとえ彼女が望まなくとも、『ふね』は沈んでしまう。ヒトは死んでしまう。

 それが彼女の歌声が導く結末。

「失望を、したのでしょう?」

 失望、なのだろうか。彼女がそんなことをやるはずがないと、思いはした。

「でも……だってきみは望んでふねを沈めているわけではない」

「望んでいたとしても、望んでいなかったとしても一緒よ。私が船を沈めている事実は変えようがないわ」

 彼女は、怒っているようだった。その対象は、まぎれもなく彼女自身なのだ。

 ぼくはそれが間違っていると思う。彼女に責任はない。けれども、それを上手く説明することが出来ない。ぼくにはコトバも知識も足りない。

「あなたは、ここに来ない方がいいわ」

「そんな――」

「だって、私はヒト殺しをしているのよ。私達を想像して、生みだしてくれたヒトを、自分の声で殺しているの。そんな生き物の近くに、居てはいけないわ」

「居ちゃいけないかどうかなんて、きみが決めることではないでしょ」

「では、あなたは、ヒト殺しと一緒に居たいと思うの? あなたは何を犯していないの。私の傍に居てはいけないわ」

 間違っている。

 間違っているのに、説明が出来ない。

 とてももどかしくて、そして自分の非力が悲しかった。

「あなたは、絶対にここに居てはいけない」

 とても強い、コトバだった。

「立ち去れ」

「でも……」

「立ち去れって言っているの」

 ぼくは、彼女を傷つけたくない。だから、彼女の言葉に従わなくてはいけない。

もちろん、従ってばかりが彼女の幸せになるとは限らない事も解っている。でも、今はそれ以上にいい方法は見つからないのだ。

ぼくは黙って、去っていくことしかできなかった。彼女がどうしているのか、どんな表情をしているのか――振り向いて確かめることさえも恐ろしくて出来なかった。


 たくさんの『ふね』が並んでいる。

 その間を、ふらふらと、気の抜けたクラゲのようにぼくは泳いだ。

 この『ふね』に乗っていて、死んでいったぼくらの想像主のことを思うとぞっとする。彼らは最期にどんな夢を見たのだろう……

 その『ふね』を沈めたトリは、彼らの死を望んでなんかいなかったのに。

 世界は、ぼくらの思い通りになるようには出来ていない。理不尽なのだ。ぼくらを生みだしたヒトでさえも、あっけなくその理不尽に呑みこまれてしまう。

 彼女に出逢わなければ、この理不尽も知らずに終わっていただろう。けれども、彼女を無視することは出来なかった。ぼくもヒトと同様、彼女の『うた』に呼び寄せられたのだ。そして、今となっては、彼女の惹きつける『うた』さえも関係なく、ただ彼女の幸せを願っている。彼女が幸せになるために、ぼくが何を出来るか。

 知識がないぼくに、出来ることは何だろうか。

 目を閉じて、彼女の事を思い浮かべる。

 ひれもうろこも無い。代わりに『つばさ』を持っている、トリ。水の中では不格好なはずなのに、美しく見えるその姿。憂いを帯びた瞳は、上を見上げて。

彼女が見つめる、『そら』。

ぼくは、気付いた。

彼女が幸せになれる方法が、ある。

彼女が、『ふね』を沈めずにすむ方法が。


 ぼくはすぐさま、彼女の所へと戻っていった。

 トリは、そんなぼくを歓迎はしなかった。追い出したばかりのぼくが戻ってきたので、むしろ不愉快そうだった。

 でもぼくには、とっておきのアイデアがある。

 彼女が何かを言うより先に、ぼくはコトバを叫んでいた。

「そらに行こう!」

 ぼくが突然言うものだから、彼女は反論することもできずに、ただただ驚いているようだった。

「そらへ行くんだ」

 ぼくが繰り返すと、ようやくそのコトバを呑みこんだ彼女が、問い返した。

「空へ行くって、どうやって?」

「そらは上にあるんだろう? だったら簡単さ。上へ泳いで行けばいい」

「そんなに上へ泳ぐことはできないわ。私の体は泳ぐのに適していないから」

「大丈夫、ぼくがきみを連れて行く!」

 ぼくは初めて、彼女に触れるくらいの間近へと寄った。今までこんなにも近くに寄った事はなかった――というのも、彼女はぼくにとっては一種の神聖な存在で、近づくことさえも恐ろしかったのだ。

 けれども、今はそんな悠長なことを言っている時ではない。

 ぼくは彼女の方へとひれを――いや『うで』を伸ばした。

「一緒に行ってくれるかい?」

 彼女は、半信半疑といった感じだったけど、それでも頷いてくれた。

 ぼくは『うで』で彼女の体を抱え、船の外へと勢いよく飛び出した。初めてぼくの『うで』が、ひれではなくて、『うで』であってよかったと思えた。『うで』は、彼女を抱えることが出来る。ひれだと、出来ない事だった。

「ねぇ、空に行くなんて無理よ。遠すぎる」

 彼女は不安げにコトバを発する。

「そんなこと、やってみなきゃ分からないじゃないか」

「でも……」

「きみはそらに帰りたいんだろう?」

「うん」

「だったらぼくは頑張るよ。きみの望むことだもの」

「そんなの私の勝手よ。私は水の中でだって生きていけるから……」

「きみの勝手でもいいじゃないか。きみのその素敵なつばさは空を飛ぶためにあるんだろう、ならばなんでそれを活用しないというんだい? 飛ぼうよ。きみにはつばさがあるんだから!」

 ぼくは泳いだ。ただ上を目指して。彼女の世界を目指して。

 ぼくはひたすらに尾びれを動かして、上へ、上へと昇っていた。

「本当に大丈夫? 辛くない?」

「大丈夫さ」

 彼女の質問に、ぼくは息を切らしながらも答えた。

 それは嘘だった。

泳げば泳ぐほど苦しくなる。それは疲れているからというばかりではなさそうだった。初めて向かう上のほうの世界は、ぼくにとって異様な感触だった。水が不自然に温かい。まるで体の中の水があふれ出すような、変な感覚があった。それでも、彼女を空へ連れて行きたかったんだ。彼女の故郷へと連れて行きたかった。彼女はきっと、帰郷を望んでいる。彼女が戻れば、もう二度と『ふね』は沈まずに済むのだ。

それに――ぼく自身、空を見てみたかった。

 上に向かうにつれ、初めは不安げだったトリも、少しずつ元気になっていった。故郷が近い事を感じているのだろう。

「ほら、水が青くなってきた。空が近いのよ。きれい……」

 彼女は嬉しそうだった。ぼくも嬉しかった。『あお』というものが何かはわからないけれども、水が白っぽくなってきたのはわかる。きっとこれが『あお』なんだろう。きれいだ、とぼくも言いたかったけど、言えなかった。疲れていたのだ。体が熱い。

 彼女は囁くように言った。

「私、帰ってきたのね」

 そうきみは帰ってこれたんだよ。ぼくは最後の力を振り絞った。『そら』、きみが生まれた世界。そこはきっと天国のような世界に違いない。なぜならば……

 彼女は『つばさ』を広げ、羽ばたいた。

 とつぜん。

水がなくなった。

一体どういうことなのだろう。ぼくは全くわけがわからない。ぼくらは『そら』を目指していたはずなのに、ようやく辿りつけた場所は、水さえもない場所。

傍らの彼女が、声を上げた。

「戻ってこれた。ねぇ私たち空についたの!」

 ここが空?

そんなはずがない。だってここは――

「ありがとう、本当にありがとう!」

 水がない。光が強すぎる。熱い。こんな所で生きていけるはずがない。

 このままでは、しんでしまう。

「水……」

 ぼくはやっとのことで声を絞り出した。それは水の振動ではない、異様な声だった。

 やっと『そら』に帰れたのに、彼女の笑顔は消えていた。

「そうなのね。あなたは水がなくては生きていけないのね……」

 彼女は、ぼくに彼女を離すように促す。僕といえば、ためらう気力さえもなかった。その通りにすると、ぼくは落下して、また水の中へと戻れた。

冷たくて、気持ちのいい水だ。幸せな水の世界だ。

僕は何度も呼吸を繰り返す。

 十分に肺の中に水を満たして、ようやく見上げた彼女の表情は、とても暗かった。

「なぜ人は私たちを一緒に暮らせるように、想像してはくれなかったの? なぜ私は海や空で暮らせるのに、人魚は海でしか暮らせないの?」

 彼女は眼から水を流した。ぼくはそれについて何も知らないはずなのに、頭の中で『涙』というコトバを認識した。悲しかった。ぼくが『そら』に居られない事も、彼女の『涙』も悲しかった。その悲しさを、伝えてはいけないことも分かっていた。

 彼女は、幸せになるべきだ。彼女は今、幸せであるべきなのだ。悲しみはいらない。

「いいんだ、きみにはきみの世界がある。それはぼくのいない世界だ」

 これは残酷なシステムだ。

「ぼくはそこへは行けないが、いつかは行けるかもしれない。その時までぼくは待つ」

「私もあなたと一緒にいたい! また海へ行くわ!」

 彼女がまた海へ飛び込もうとするから、ぼくは慌てて否定をした。

「それはだめだ。これ以上船を沈めるわけにいかないだろう」

彼女の歌は美しい。生き物を引き寄せる、歌なんだ。

その歌は彼女の住む世界さえも美しく見る。彼女が水底にいれば、自然とヒトも導かれる。

ヒトはそのように彼女を想像した――ああ、そうだぼくは知っていたんだ。ぼくを想像したヒトが知っていた事は、ぼくも全て知っていたはずだった。ぼくは最初から彼女のことを知っていたのに、海の冷たさで忘れてしまっていたんだ。

ぼくがサカナでなく、本当は、ヒトとサカナの合いの子であるように。彼女はトリじゃなかった。ヒトが乗る船を水底へと引き込む彼女は、神話に語られる生き物。ヒトとトリが合わさった――セイレーンだ。

「ヒトがあこがれるべきなのは海じゃない。空だ。きみは空へ行くんだ。そうすれば、もう人が溺れる心配もない」

これはぼくの思いついた、最高のアイデアだった。彼女が空にさえ行けば、ヒトは溺れなくて済む。なぜならば、彼女は水の中に居ないのだから。水が無い所でヒトは溺れない。代わりに、ヒトは彼女の歌を聴き、空を見上げればいいのだ。

「だからと言って、それはヒトの……」

「ぼくらを生んだのはヒトなんだろう? ぼくらはヒトが望む姿であるように、生きていくべきなんじゃないのか」

 彼女は否定をしなかった。

 ぼくらはヒトがいるからこそ生きているんだ。ヒトの想像する物語の中で。

 ヒトを失えば、ぼくらはここに在ることさえもできない。

「……また逢えるよ」

「絶対よ」

「うん、絶対また逢える」

 絶対なんてことは、ないことも知っていたのに。彼女も騙されたくてあえて問わなかったのだろう。ぼくがそうであるように。

 この別れこそが物語の結末だ。


 ぼくらは出逢うべきものではなかったのかもしれない。悲しい結末しか選択肢にないのだから。それでも出逢ってしまった以上、一生懸命に彼女の事を考えたつもりだ。出来るだけ、彼女が幸せになれる答えを、見つけ出せたつもりだった。

 彼女の悲しげな表情も、一時的なものだろう。空に帰れたのだから、嬉しいはずだ。空で彼女は仲間と再会し、喜び、そして――ぼくのことなんて忘れて行くのだろう。

 それが彼女の幸せなんだって、ぼくはわかっている。

 それでも。

ぼくは自分の幸せを、完全に無視することは出来なかった。たとえ彼女がぼくを忘れてしまっても、ぼくは彼女を忘れないだろう。水の底で、何度も彼女のコトバや姿を思い描いては、その幻想は泡となり消えて行くのだろう。こんな悲しみを背負って、ぼくはどうして、このまま別れることができるだろうか。

せめてもの願いだ。

ぼくは彼女に、頼んだ。

「歌を歌ってくれない?」

 ぼくが愛した、彼女の歌を。

 彼女はやさしく笑った。ぼくが今までに見た中で、一番きれいな表情だった。

小さく、頷いた。

彼女はゆっくりと息を吸う。もったいぶるように。彼女の中は空の空気で満たされていく。

そして、歌を歌い始めた。

唇で糸を紡ぐように繊細な仕草。想いをこめた表情。彼女の口から流れ出す世界一美しい振動が、世界を包んでいく。

この歌を聴けたからこそ、ぼくは彼女に出逢えたのだ。

ヒトが想像したぼくらの物語は、たとえ最後が別れであっても、バッドエンドではない。

ぼくは目を閉じた。

彼女の歌声が、ぼくの中に染み込んでいく。

ぼくにもいつか歌が歌えるようになる日が来るのだろうか。また彼女と会える日は本当に来るのだろうか。

もしかしたら、この物語はここで終わっていないのかもしれない。続きがあるのかもしれない。

けれども、続きの物語なんて今のぼく自身にはわからない。続けるのか、このまま終わってしまうのか――全てはヒトの想像力次第なんだ。


 こうして彼女は空へと戻って行った。

ぼくは、彼女を見送った後、一人暗い水底へと沈んでいく。

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