風の鳴る道
群青更紗
風の鳴る道
幼稚園から小学校に上がる春休みの間、神社に預けられていたことがある。その頃の私は無気力で無関心で無感動で、心配した両親が相談した結果だった。父の知り合いを通じて紹介されたその神社では、神主だという一人の老婆が出迎えてくれた。麦(むぎ)と名乗った緋袴姿の彼女は、総白髪すら美しいと思えるほどの凛とした佇まいで、「夏葉(なつは)様、どうぞ健やかにお過ごしください」と、幼女へ接するには丁寧すぎるほど恭しく頭を下げた。麦と二人で父母を大人しく見送ると、私は縁側に面した小さな部屋へと案内された。預けられる間、ここで寝起きをするらしい。
翌日から、毎朝麦が起こしに来た。神社の朝は早い。洗顔身支度の後、数人の神職や巫女らに混ざって楚々と朝食を済ませると、麦は私を縁側へ座らせた。
「風をお読みください」
私は首を傾げた。言葉を呑み込むのに時間がかかり、呑み込んだ後も理解出来なかった。
「どうやって?」
「それはどうぞ、ご自身でお考えくださいませ」
麦はそう言って頭を下げると奥へ下がった。私は彼女の伸びた背筋を見送ると、とりあえず眼前の庭を見た。純和風の日本庭園。隅の桜は七分咲き。見上げれば青空。麗らかな春の日だ。
「風は見えましたか?」
昼食時、麦に問われた。私はふるふると首を横に振った。
「焦らず、気をつけてみてください。必ず出来るようになります」
正直退屈だった。縁側から足を出してプラプラさせたりしているうちに、気付くと横になって寝ていた。目を覚ますとタオルケットがかけられており、日は西に傾いていた。
不意に、リーンと音がした。見上げると軒下に、風鈴が下がっていることに気付いた。夕暮れの風に吹かれて鳴ったらしい。長い短冊がゆらゆらと揺れている。
――あ。
急に分かった気がした。私は短冊を見つめた後、庭に下りた。池に駆け寄り水面を見ると、うっすらと波紋が見える。木々を見上げれば、小さい動きだがかすかに揺れが見える。私は嬉しくなった。
「見えましたか?」
振り向くと、麦が立っていた。私がこくりと頷くと、麦は優しく手を取った。
「明日からも続けてください。夕食にします」
そのあとの数日は楽しかった。どんなに穏やかに見える世界でも、必ず小さな風が吹いていることが分かったし、それを探すことに夢中になった。
結局、神社には一週間ほどいたと思う。両親が迎えに来てくれたとき、麦と別れるのが寂しかった。麦は軒下の風鈴を外し、私にくれた。鉄製だと教えられたそれは重く、しかしよく見ると胴の部分が招き猫のような形をした、随分と愛らしいものだった。
「どうかここで覚えたことを、ずっとお忘れにならないでください」
帰宅すると、父が私の部屋の窓際に風鈴を下げた。
「夏でもないのに、」
母は呆れたが、私は満足していた。風のない室内でも、風鈴は小さく揺れていた。
小学校へ上がったあとも、風読みは続けた。ただ同級生らに一度説明した際に、あまり理解されなかったので、その後は誰にも言わずに密かに行うことにした。
ずっと後になって聞いたことだが、あの神社では私のような無気力を「霊障」と見なし、その祓いの儀式があの数日だったのだそうだ。風鈴も祓いのお守りだったという。本当にそうなのかは知らない。けれどひとつ言えるのは、あの日々を経て、世界に色が付いたということだ。
今日も私は風を読む。風鈴の招き猫が、今日も風鳴りを告げる。
「良かったのですか?あの子を人里に返して。あれは明らかに、我らの仲間ではありませぬか」
神主の一人が麦に言う。麦は金色の豊かな九尾を手入れしながら、しとやかに答えた。
「確かに、あの子はヒトではなかった。しかしあの幼さで動揺を与えては、余計な妖(あやかし)を招いてしまうだろう。幸いあの子は風を読めた。祓いの品も渡してある――あの子が十六になる頃、真実が伝聞される仕掛けをして。その時、再び我らを尋ねたならば、助けてやるのです」
その日夏葉が家に帰ると、風鈴の短冊が落ちていた。直そうと手に取ると、一枚紙ではなく、丁寧に折り畳んで隅を薄く糊づけたもので、その隅が少し剥がれて中に文字が見えた。
夏葉は、そっとそれを剥いだ。そして文字を読んだ。
風の鳴る道 群青更紗 @gunjyo_sarasa
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