19. 彷徨

「クリスマスっていうとあの映画を思い出すかな。

 高所恐怖症のおじさん刑事が離婚されそうになっている奥さんの勤め先のビルで、テロリストと戦うやつ」

「クリスマスの映画ですと、自殺をしかけた人を二級天使が助けるやつが古典ですね。

 日本ではなあまり知名度がありませんけど、アメリカではシーズンになると毎年テレビで放映されているそうです」


 早川静乃と藤代葵とが、大学の講義室で他愛もない内容をだべっている。

 夏以来のここ数か月、乃は葵を接する機会が多くなった。

 例の共同経営している会社の関係もあるのだが、それ以外でも大学、迷宮と顔を合わせる機会が多い。

 取っている講義の関係で一日中いっしょにいるわけでもないのだが、それでも毎日のように顔を合わせている。

 もちろん、顔を合わせば会社の経営とか探索者の心得とかそんな真面目なことばかりをはなしているわけではなく、むしろそういう真面目な話題が出ることは稀で、普通はたいていそんなどうでもいいことばかりだべっている。

 世間では着々とクリスマスが近づいていた。

 静乃の感覚では、夏以来、なんだかんだと忙しくしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまったような気がしている。

 学生、探索者、企業の共同経営者と二足ならぬ三足のわらじを履いている状態であったから無理もないのだが、それでも葵や扶桑さんがなにかと助けてくれるのでどうにかなっていた。

 事務仕事や会社経営に関する知識や経験を持っているこの二人がいなかったら、静乃はそもそもその経営に参加することはなかっただろうが、立ちあげ当初の夏前後ならばともかく、今の静乃が経営関係で必要とされる場面はもうほとんどなくなっている。

 必要な社員がそれぞれ自分の役割を飲み込み、すでに経営側が放置しておいてもしばらくは操業可能な段階に入っていたのだ。

 一応、何日かに一度、松濤にある事務所に顔を出してはいるのだが、静乃がいってもこなすべき仕事はほとんどない状態なのだ。

 つまり、この頃には静乃は、すでに他のふかけんの部員たちと同様の学生兼探索者と実質変わらない状態だった。


「それよりも野間くん、この冬休みも松濤に呼ばれているそうで」

「野間くんかあ。

 松濤の子たちの影響で、夏以降、急速にあか抜けてきたからなあ、彼も」

「外見だけは。

 髪形や服装をどうにかすれば、清潔感は出ますから。

 彼の場合、中身までは変える意思は持たないようで」

「いいんじゃないかな?

 あの人は、あのままでも。

 ときどきちょっと卑屈すぎるときがあるけど、いい人だと思うよ」

「いい人どまりの人、でもありますけれどね」



「これこれ」

 話題の野間秀嗣は、そのとき別の教室で白泉偉とともにスマホの画面を見ていた。

「これ、例のスライム・キラーでありますよね!」

「今は、スローターと呼ばれることが多いらしいですよ」

「スローター?」

「虐殺者という意味です」

 この二人、性格も容姿もまるで異なるのだが、意外に仲がいい。

 馬が合うのか、学内でもいっしょに行動することが多かった。

「なに観てんの?」

 秋田明雄が、二人の背中越しに秀嗣のスマホ画面を覗き込む。

「なにこれ?

 SFX?」

「スキルであります」

 秀嗣が答えた。

「〈いらだちの波及〉という、使用者が持つ武器にかかったエンチャント系のスキルであります!」

「かっけぇ」

 ぼつり、と、明雄が呟く。

「こう、バリバリっと稲妻が。

 これ……槍?」

「〈猪突の牙矛〉」

 偉が短く答えた。

「かなりレアな、ドロップ・アイテムだそうで」

「レアなアイテム、か」

 明雄はなにやら思案顔になった。

「さっきいってた〈いらだちの波及〉とかも、聞いたことがないから、レアかユニークだろ?」

「そうであります」

 秀嗣が頷いた。

「今の時点では、〈スローター〉だけが持つユニーク・スキルであります」

「ユニーク・スキルとレア・アイテムを同時に持っているって、どんだけ恵まれているんだよ、この男」

 明雄はいった。

「もうベテランなんだろうな」

 映像の中の〈スローター〉はフェイスガードを着けていたため、どんな顔をしているのかわからなかった。

 年格好すら、予想がつかない。

「年も経験も、ぼくたちとたいして変わらなかったはず」

 偉が即答する。

「確か、今、十八歳で、探索者になったのもこの五月から、だったかな?」

「マジかよ」

 明雄が、目を見開いた。

「そんでこんだけ動けるのかよ!」

 スマホの小さな画面の中では、炎と稲光を身にまとった〈スローター〉が所狭しと動き回り、武骨なレア・アイテムを振り回していた。

「で、これ、結局なんなの?」

 明雄はそういってスマホの画面を指さす。

「普通の探索者が自分のプロモなんかわざわざ作るとも思えんし」

「〈ダイダロス〉のCM映像」

 偉が答える。

「ネット上で配信されているだけだけどね」

「〈ダイダロス〉」

 明雄が呟く。

「保護服やなんかのメーカーだったけか」

「保護服以外にも、探索者用の装備は一通り作っておりますが」

 秀嗣がいった。

「クシナダ・グループ以外の新興のインディーズ系としては、かなり高い技術力を持っている会社であります」

 秀嗣は〈鈍牛の兜〉を新調する際に一通りの関連企業について調べたことがあったので、いつの間にか業界事情にも明るくなっていた。

「その、〈ダイダロス〉ってブランドのプロモってわけか」

 明雄は、そういって頷く。

 そんなやり取りをしている間にも、明雄の視線は秀嗣のスマホから離れなかった。

「年齢も経験もおれたちと変わらんのに、そんなブランドのプロモに出演しているような恵まれたやつもいるもんなんだな」

「それはどうなんだろ?」

 偉は首を傾げた。

「彼のSNSを見ていると、〈スローター〉が恵まれているとも思えないんだけど」



「ずっとソロでやっていた人、ねえ」

 白金台迷宮のロビーで明雄は小さく呟く。

「陰気というか、コミュ症なんか?」

 いずれにしろ、ずい分と危険な真似をするもんだ、と、明雄は思う。

 浅い階層だからソロでも安全、なんてことはなく、たとえ浅い階層であっても迷宮は迷宮。

 なにが起こるのか分からないし、パーティを組んでいないとどうしたって、非常時に対応するための柔軟性や余裕というものがなくなってくる。

 なにより、初期のレベリングがまったくない状態、外部からの支援がほぼ絶無の状況で迷宮を単独攻略なんてのは、先輩方の支援を積極的に活用してきた明雄にいわせれば正気の沙汰ではなかった。

 もっと楽な方法があるのにわざわざ苦労の多い方法を選択するやつの気が知れない、というのが、〈スローター〉という探索者に対する明雄の印象である。

「コミュ症って、誰が?」

 背中から声をかけられ、肩越しに振り返ってみると一陣忍がたっていた。

 どうやら、明雄の小さな呟きを拾って、それへの反応らしい。

「知らない人」

「なにそれ」

「うん。

 世の中には、いろいろな探索者がいるんだなってこと」


 この二人は、十月前後からなんとなくつき合っているような状態になっている。

 どちらかがはっきりとした告白をしたとかはないのだが、パーティーとか迷宮とかを離れた場でもふたりきりで行動することが多くなっていて、ふかけんのメンバーなど身近な人々にはすでに公認カップル扱いされていた。

 実際には、なんとなく気があっていっしょに行動をする機会は増えているだけだった。

 でも、男女とか恋愛感情みたいなノリとはちょっと違うよなあ、と、明雄などは思っている。

 二人ともどこか一人になるのを大げさに怖がるような傾向があって、それで自然とつるむ機会が増えているだけなんだけど。

 でも、周囲からそうゆう扱いを受けている方が余計な干渉がなく、ある意味では楽であったので明雄は誤解を解こうとはしなかった。

 忍といっしょにいると気が楽な部分は、確かにあるのだ。


「そういえば、今日は三桁だねえ」

 忍が話題を変えた。

「ここ数日、ずっと三桁」

「行方不明者数、か」

 明雄は呟く。

 忍がいっているのは、迷宮ゲート前の大型液晶モニターの隅に株価や天気予報などとならんで表示されている、ある数字のことだった。

 その日、迷宮での未帰還探索者数。

 探索者にとっては、その日の為替相場や天気予報よりも関心を惹かれる数値だ。

 東京近辺に全部で三十三箇所ある迷宮。

 その迷宮に入る探索者数は、日割りでどれくらいの人数になるのか。

 延べで数十万か、ひょっとすると百万人以上になるのかも知れない。

 そのうちの百名前後が、毎日のように迷宮内で行方不明となっている。

 この数字は、たとえば日本全国での交通事故被害者数と比較しても、圧倒的に多い。

 いや、この数字は純粋に未帰還のものだけを数えているから、重傷軽症を問わず迷宮での負傷者数も合わせると、迷宮は毎日多数の死傷者を大量生産していることになるわけで。

 公社と関連業者の長年に渡る努力のせいでかなり安全性が向上してきたとはいっても、迷宮はまだまだ危険な場所なのであった。

 その危険な公社に明雄たち探索者がみずから進んで入る理由は、目先の欲望から。

 少なくとも明雄自身は、完全に報酬が目当てで、リスクを承知して迷宮に入っている。

 ゲーム感覚の野間秀嗣や、どうやら山籠りのかわりに自己鍛錬の一環として迷宮に入っているらしい白泉偉とは違い、明雄の目的はごく単純なものだった。

 金が目当てだ。

 それ以外になにがある。


「そういえば、両角くん。

 もうすぐ田舎に帰るっていっているけど」

 忍が話題を変えた。

「もうそんな時期か」

 いつの間にやら、今年も師走と呼ばれる時期に入っていた。

 明雄にとっては、大学進学と上京、それに探索者になったことなども含めて変化の多い時期にあたり、それだけ時間の流れも早く感じた一年だった。

「あっきーは帰らないの?」

「うーん」

 明雄は珍しく言葉を濁した。

「帰らない。

 別に、用事もないし」

 実際には、帰りたくないというのが本音なのだが。

 忍に自分の家庭環境のことを説明していない手前、適当にお茶を濁しておくしかない。

「そっか」

 忍はその辺のことを追求してこなかった。

「それで、どうする?」

「どうするって?」

「だから、両角くんが帰省したら、こっちは」

「ああ」

 明雄はようやくそのことに思い当たった。

「迷宮のことか」

「他になにがあるの?」

「いや、別に」

 明雄は適当に流す。

「別に、二人パーティでもいいんじゃないかな。

 三人でやっているときよりは、浅い階層に調整しなけりゃならないだろうけど。

 それとも、年末年始の時期だけのメンバー、募集するのか?」

「それも面倒か」

 忍は素直に頷いた。

「浅い階層は浅い階層なりに、クエストとかで細かく稼げるもんね」

「なんだ」

 そんな会話に興じている間に、待ち合わせをしていた誠吾が合流してきた。

「今日はおれが最後か」

 すでに準備を整えていた三人は、すぐに迷宮に入っていく。


 迷宮で儲けるためには、おおまかにわけて二種類の方法がある。

 ドロップ・アイテムを換金する方法と、エネミーの死体を持ち帰ってなにかの素材として換金する方法との、二種類だった。

 このうちの後者は、買取価格が安定していなかったり、面倒で手間ばかりがかかる解体作業をする必要があったりでベテランの探索者ほど嫌がる傾向があった。

 深い階層に潜るベテランほど、よほど割のよい稼ぎになるエネミー以外は、その死体をその場に放置して帰ってくるのだ。

 しかし、百階層前後までの浅い階層については、この事情が今年の夏あたりから少し変わってきている。

 早川静乃と藤代葵が共同で立ちあげた会社が、そうした浅い階層に出没するエネミーの死体利用を事業化し、積極的に買い取る体制を確立してしまったのだ。

 それまで収益化が難しいとされていた分野に現役の大学生が進出して収益化に成功してしまった形であり、静乃と葵は迷宮関連はいうに及ばず、何度か経済誌のインタビューを受けるくらいには注目を浴びるようになてきている。

 明雄たち探索者にとっては、そうした浅い階層であっても、以前に比べると遥かに稼げるようになったわけだった。

 リスクも込みで考えると、二人だけのパーティになる間は、無理をして深い階層に挑むよりは浅い階層でちまちまと稼ぐ方がずっといい。

 たとえ稼ぎが少なくなったとしても、安全に稼げるのならばそれに越したことはない。



 稼ぐといえば、〈テイマー〉草原水利はここ最近、珍しいバイトをするようになっていた。

 秋ごろから公社からの依頼を受ける形で、研修中の探索者のレベリングを行うようになっていたのだ。

 そうしたレベリングは、週に数日、水利の都合を優先して日程を組んで行われていた。

 そうして拘束される時間分だけ、水利には公社からなにがしかの報酬が支払われる形である。

 そもそも、〈テイム〉のスキル自体が発生条件などがよくわかってない、比較的珍しいスキルである。

 その〈テイム〉スキルについてのデータ採集もかねて公社から誘いがあったのではないか、と、水利は思っている。

 水利自身は特に隠す必要も感じていなかったが、探索者の中にはレアなスキルを獲得してもそれを吹聴するようなことはせず、ひっそりと隠し続けることを選択する者も少なからず存在していた。

 鑑定系のスキル持ちの前に出れば隠しようもないわけだが、そうした探索者にしてみれば切り札はできるだけ伏せておきたいという気持ちが強いのだろう。

 そうした傾向もあって、公社はスキルの全体像をいまだに把握するに至っていない。

 そもそも、数十万とか数百万単位で活動している探索者ひとりひとりが所持しているスキルすべてを公社が把握するのは不可能であったし、公社が存在すら確認していないスキルもまだまだ多いといわれている。

〈テイム〉に限らず、スキルの発生条件の検証については、まだほとんど手をつけられていないといってもいい分野であった。

 別に極端な成功を夢見ているわけではない水利は、公社が提示した金額が普通に迷宮に入ったときの収入よりも格段に見劣りするのは承知した上で、都合がつく限り協力する姿勢をみせている。

 今までの段階で大学卒業までにかかる学費と生活費分くらいはすでに稼いでいたので、水利にしてみれば安定した収入になりさえすれば特に不満に思うこともなかった。



 早川静乃と藤代葵が最近行動をともにすることが多いのは前述した通りだが、迷宮に入るときはこの二人に加えて白泉偉と双葉アリスが同行することが多くなっていた。

 都合によりどちらかが欠けて三人パーティになる場合もあるし、その逆に野間秀嗣が加わって五人パーティになることもある。

 いずれにせよ、静乃や葵ほどではないにせよ、他の一年生たちもここまで育ってくると自分の身くらいは十分に守れるようになってきている。

 それに加え、前衛の〈薙刀使い〉葵と後衛の〈狙撃手〉静乃、フットワークが軽く撹乱役にうってつけの〈ニンジャ〉偉と援護役の〈弾幕娘〉アリス、それにたまに加わる〈鈍牛〉秀嗣の組み合わせはパーティ内での連携や役割分担の面でもバランスがよかった。

 現在、このパーティは四百階層前後を攻略することが多かったが、実力からいえばさらに五十階層は深い場所に足を踏み入ることも十分に可能実力をすでに獲得していると、静乃らパーティメンバーは判断している。

 安全面のことを考慮すると実力ギリギリで対応できる階層よりも五十階層以上は浅い階層を攻略するのが探索者としての鉄則とされており、そのセオリーに従う形で安全マージンを取っている形であった。

 事実、その実力からみて余裕を持ってエネミーに対応できる階層であれば、精神的にもかなり余裕ができる。

 この余裕の有無がいざというときに明暗をわけることが多かった。

 なにが起こっても不思議ではないのが、迷宮という場所なのだ。


 この日も、静乃と葵、偉とアリスの四人はパーティを組んで迷宮に入っていた。

〈薙刀使い〉葵は十名を超えるオーク・タイプに取り囲まれながらも余裕を持って対応している。

 そうしたエネミーたちの注意を自分に引きつけておかなくても、今のメンバーであればそれぞれ自分たちでどうとでも処理ができるものと葵が知っていることが、精神的な余裕につながっていた。

 リーチの長い薙刀は、使いこなせさえすれば多数の敵に囲まれた乱戦にあって絶大な効果を発揮する。

 この階層に出没するオーク・タイプは大半がショット系スキルを使いこなし、遠距離による攻撃も普通に仕掛けてくるのだが、取り囲まれていた葵は別に慌てる風もなく一体、また一体と着実にオーク・タイプを仕留めていく。

 葵めがけて放たれたスキルによる遠距離攻撃は、あっさりと避けられるか葵に命中する前に薙刀によって払われるかしていた。

 仮に、一発や二発命中したところで、この階層に出没するエネミーの攻撃くらいであればたいした被害は生じないはずだった。

 葵たちの装備は、資本主義原則と競争原理に則ってシーズごとにバージョンアップを繰り返してきた代物であり、耐弾性能や防刃性能はもちろんのこと、高低の温度差や酸やアルカリなどの化学反応にもかなり強い。

 もっと深い階層の強力なエネミーを相手にしているのならばともかく、今、葵たちが身に着けているグレードの装備であれば、この階層に出没するエネミーの攻撃が何発か命中したとしてもたいしたダメージにはならないのであった。

 もっとも、葵ほどに場馴れしていれば、その攻撃が命中することすら、かなり稀であったが。

 忙しなく薙刀を振り回しながら、葵は不意に軌道を変えて刃先をエネミーの体に潜りこませる。

 薙刀を振り回す速度自体がかなり高速であったし、それに加えて変則的な動きをするようになれば、この階層に出没する程度のオーク・タイプではもはや対応することもかなわず、エネミーたちは次々と着実にその数を減らしていく。


 エネミーたちの注意が確実に葵にむかっていたそのとき、集まってきていたエネミーの一角が不意に騒がしくなった。

 偉による掻き回しがはじまったのだ。

 偉の攻撃方法は、薙刀を使う葵のものよりはよほど短距離に特化している。

 リーチはほとんど偉自身の手足の長さと等しく、足捌きと機動力、それに手数の多さでリーチのなさを補う戦闘スタイルであった。

 投擲をはじめとして、偉は遠距離の攻撃法もそれなりに身につけてはいたが、こちらの方はあくまで補助的にしか使用していない。

 確実に仕留めることができる距離まで詰めてから、一撃で着実に仕留める。

 偉がリスクのあるこうした方法をあえて採用しているのは、なによりも確実性を重視しているからではないかと葵は推測していた。

 遠距離による攻撃は攻撃する側にリスクが少ないが、その分、仕留めたか否かを判断するまでにある程度の時間を必要とする。

 しかし、肉薄しての戦闘は相手の状態をその場で確認できるし、仮に不測の事態が起こったとしてもその場で対応が可能であった。

 なにより、偉の動きは凄い。

 長年、薙刀を扱っている葵の目から見ても、かなり驚かされるほどに熟練した動きだった。

 何度か迷宮の影響範囲外で模擬戦をしてみたが、葵は薙刀を持った状態でも、素手の葵に勝てたことがない。

 いつの間にか懐に入られて、首元に手刀をつきつけられている。

 素早いのはもちろんだが、それ以上になにか、対面している相手の注意から外れるような動き方を偉が身に着けているとしか思えなかった。

 偉自身にいわせれば、それはトリックでもなんでもなく、五年か十年も真面目に精進すれば誰でも身につけられる程度のごく普通の体術にすぎないということだったが。

 とにかく、近接戦闘に関していえば、偉はまず無敵といえた。

 対戦相手の感覚をすり抜けて接近する妙な歩法だけではなく、偉は死角からの攻撃にも敏感に即応する。

 薙刀という長物を振り回す葵ほど目立つことはないが、大勢の敵に取り囲まれた状態でもさして心配をする必要が無いという点では偉も同じようなものだった。

 そんな偉が、葵に気を取られていたオーク・タイプたちの中に入って獅子奮迅の活躍をしている。

 本人の動きが目で追えなくて、倒されたオーク・タイプと吹き上がる血吹雪によってはじめて動線を認識できるというのは何事か。

 戦闘中であるのにも関わらず横目で偉の動きを追う余裕がある葵自身も相当なものなのであるが、葵自身はそのことを自覚していなかった。


 吹き上がる血吹雪と交錯する遠距離スキル。

 集団の中に入って縦横に暴れている葵と偉の二人に百名近くいたオーク・タイプがいいように翻弄されていた。

 混乱して標準もつけずにショット系スキルを連発して派手に同士討ちをしている者も少なからずいるようだ。

 オーク・タイプは人間と比べて身体能力が全般に優れているエネミーであったが、知能の方は平均的な人間よりもかなり劣るという。

 個体差もあるわけだが、一説によると、八歳児に相当する程度の抽象的な思考しかできない種であるらしい。

 感情的なゆさぶりに弱くて、少し動揺するとすぐにパニックを起こす傾向があるということも探索者たちの間ではよく知られていた。

 相変わらず、あの二人の効果は抜群だなあ、とアリスは思う。

 アリス自身はある程度距離を取った場所から攻撃を得意とするため、その集団から三十メートルは離れた場所にいる。

 葵と偉の二人にエネミーたちの注意が集中している間に、ここまで近寄ってきたのだった。

「そろそろいきますか」

 誰にともなく呟いて、〈弾幕娘〉アリスはその呼び名の通りに複数のショット系スキルを同時に発動、エネミーの集団にむけて乱射しはじめた。

 この距離ならば、いくら射程が短めのショット系スキルであっても外すことは滅多にない。

 無闇にタフなオーク・タイプはアリスが放つショット系スキルが一発や二発命中したところで致命傷にはならない。

 せいぜい命中した場所に直径三十センチほどの穴が空き、そこにあった肉が吹き飛んだり抉れたり凍りついたりする程度であった。

 しかしそれが五発や十発、あるいはそれ以上が立て続けに命中するとなると、はなしは違ってくる。

 アリスのスキルは〈弾幕娘〉の異名に恥じぬほどに連発が効く。

 たとえ一発あたりの威力が微妙であっても短時間に何十発も撃ち込まれたらいかにタフなオーク・タイプであっても無事で済むわけがなかった。

 射線上にいたオーク・タイプが悲鳴をあえながら次々と倒れていく。

 たまに、何発かアリスのスキルを食らいながらも果敢にアリスにむかって肉薄しようとしてくるオーク・タイプも存在していたが、彼我の距離が開いているのでアリスの間近へと移動する間に集中した火線を浴びて倒れていった。

 アリスはスキルの連射を続けながら、エネミーの集団を着実に削っていく。

「杖持ち発見!」

『どこ?』

「こっちからみて、十時の方向。

 距離、二百メートルはあるかな?」

『ああ、わかった。

 見つけた』

 次に瞬間、アリスが発見した杖持ちエネミーの頭部が破砕する。

 この他に、静乃は遠くからこの場を望んで自分で見つけた要注意エネミーもその場で始末しているはずである。

 ハンズフリーのヘッドセットを経由してアリスが連絡を取っていた相手は静乃だった。

 ヘッドセットは安っぽい無線機に繋がれていて、直線距離なら数百メートルくらい離れていても通話が可能だ。

 静乃の現在地をアリスは知らなかったが、静乃の方はアリスの現在地を常時把握していることになっている。

 このパーティにおいて比較的移動しないアリスが前線観測要員の役割を果たし、優先的に倒すべきエネミーの現在地を静乃に報せるのが常だった。

 静乃の〈狙撃〉スキルは遠距離攻撃に特化していて、なおかつ一発あたりの威力が大きい。

 静乃の腕ならば、オーク・タイプくらいならば一発で沈めることができるのだった。

 杖持ちのエネミーは有効射程距離が長かったり攻撃範囲が広かったりする傾向があり、発見次第速攻で始末するのがセオリーとなっている。

 そうした杖持ちがすぐに攻撃を仕掛けられる場所にいなかった場合は、静乃に支援攻撃を依頼することになっていた。


「今日の成果は?」

「数えていないけど、二百体以上はいるかな?」

「この階層のエネミーも、もう完全に安全圏だね」

「この面子ならね」

 目につく限りのエネミーを倒しきってから、四人はそんなやり取りをしながらアイテム類の回収に取りかかる。

 オーク・タイプのような二本足で歩く人型のエネミーの場合、ドロップしたアイテムとエネミーたちが装備していたものを剥ぎとっていく形だ。

 下手をするとこの作業が、エネミー討伐以上に時間も手間もかかってしまったりする。

 やっていることは追い剥ぎとまるで変わらないのだが、すでに半年以上も探索者として活動しているこの四人の感性はそのことについて疑問を抱かないようになっている。

 確かに、ふかけんの一年の中では第一線のメンバーだよな、と、アリスは思う。

 この中に〈テイマー〉の水利や〈鈍牛〉の秀嗣、あるいは〈暗殺者〉の明雄あたりを入れてもいい。

 経験値が段違いな先輩方はさておき、一年生の中ではこのあたりが成長著しい、最先端の探索者ということになる。

「特殊効果つきの杖は高値で売れるからいいなあ」

 そんなことをいいながら、静乃がオーク・タイプの死体の手から杖状のアイテムを回収していく。

 逆にいうと、そうしたなんらかの効果つきアイテム以外は二束三文の値にしかならず、収益としてみるとたいした儲けにはならないということになる。

「もう少し深い階層に出ると、高値アイテムのポップ率もあがってくるそうだけどね」

 偉がそんなことをいい出した。

「明日あたりから、もう少し深いところまで進んで見る?」

「頃合いでしょうか」

 葵が偉の言葉に頷いた。

「この調子なら、もう少し深い階層でも問題はないと思います」

 この二人は、ふかけんの一年生の中でも慎重な性格だった。

 パーティの実力を性格に判断して、決して無理な場所には足を踏み入れようとしない。

 現在、収益性がよくないことを承知でこの階層に留まっているのも、まずは経験値をためてパーティ全員の地力の底あげを図っているためであった。

 迷宮の中では短期的には損をしても無理をしない方が長期的にトータルで見ると得をするケースがあり、経験の長い探索者ほどそのことをよくわきまえている。

 少なくともこの四人の中には報酬や経験値目当てに無理をしてでも慌てて先を急ぐような性格の者はいなかったので、これまでトラブルが発生したことはなかった。

「まあ、倒した数に比べて収益の方が振るわないしね」

 静乃も、より深い階層へ進むことに賛同した。

「それよりさあ」

 アリスが別の話題を振った。

「もうすぐクリスマスだね。

 みんな、もう予定決まってる?」

「ぼくは、爺さんの家でパーティ」

 偉がいった。

「なぜか留学生連中が居着いちゃって、大勢で騒ぐことになった」

「わたしのところは、家族で集まることになっています」

 そう答えたのは葵だった。

「別にうちはクリスチャンというわけでもないのですけど、例年のことになっているので」

「わたしは別に予定はないなあ」

 そういったのは、静乃だった。

「あれ?」

 アリスが、そう訊き返す。

「静乃ちゃん、颯くん家に帰らないの?」

「うーん」

 静乃は答えた。

「夏に行けなかったからなあ。

 年末年始には行くつもりだったし、クリスマスはいいかなって」

「印旛沼迷宮の近くでしたっけ?」

 葵が訊ねる。

「習志野」

 静乃は答えた。

「近くっていえば近くかな」

「大学からだと微妙に遠いね」

 アリスが指摘をする。

「それもあるし、颯の家の近所にうちのおじいさんといっしょにアパートを借りて住んでいたから、いっそのことこっちでひとり暮らしはじめちゃった方が早いかなって思って」

「ああ」

 偉がいった。

「それじゃあ、おじいちゃんきっと寂しがっているよ」

「いや、それはない」

 静乃が即答する。

「おじいちゃん、もういないから。

 二年前におなくなりになってて」



 結局、両角誠吾がさっさと帰省してからも忍と明雄は二人でパーティを組んで迷宮に入っている。

 誠吾を含めた三人パーティのときは三百四十階層あたりをウロウロしていたが、たった二人のパーティになって火力もかなり減退している状態なので、今は二百階層周辺からやり直している。

「これくらいの階層なら二人でもなんとかいけそうだね」

 エネミーの集団を手堅く全滅させた直後に忍がいう。

「まあな」

 明雄は忍の言葉に頷いてみせた。

「おれたちだって順著に成長しているわけだから」

 例によって、戦闘のあとにアイテムを回収しながらの会話だった。

 火力自体は減っているが忍と明雄の地力は以前よりもかなり向上していたし、なにより多種多様なエネミーへの効率的な対応法を二人がその体で実地に学んでいたため苦労することはなかった。

「杖も何本か回収できたし、実入りとしてもこんなもんか」

 明雄は、そう続ける。

「あっきーってそういうこと、拘るよね」

 揶揄する風でもなく、淡々とした口調で忍が指摘をする。

「なにをいっているんだか」

 明雄はいった。

「金のことは、大事だぞ」

 心配していた収益性についても、より浅い階層に移動して全体の実入りは減っていたものの、分配する人数もたった二人になっていたので、それほど大きく落ち込むということもなかった。

 自家住まいで何不自由なく大学生活を送っている忍はそうした経済的な事情はあまり気にしないが、明雄はかなり気にする。

 明雄も普通に迷宮に入っても十分な収益を得られるレベルに達しているはずだが、それでも普段から収益性のことを気にし、少しでも収益があがる方法を考えているふしがあった。

 なにか事情があるらしいのだが、これまで直接確認する機会がなかった。

「あっきー」

 そこで忍は、いい機会だから直接訊ねてみることにした。

「ひょっとして、なんか事情があってお金に困っているとか」

「ずいぶんストレートに訊くね、お前」

 呆れながらも、明雄は素直に答えてくれる。

「別に借金とか今すぐに金が必要になる差し迫った問題を抱えているわけないけど、それでも金は必要だと思っている。

 おれが探索者をやっているのも、それが目的だし」

「でももう、かなり稼いでいるでしょう」

 忍はそう指摘をする。

 ふかけんの部員で生活費と学費を自分で負担している者は少なくなかったし、明雄もすでにそれくらいは稼げているはずだ。

「それなりに稼げてはいるけれど、不安は不安だよ」

 明雄はいった。

「一生続けられるような仕事でもなさそうだし」

「まあね」

 忍も、その点には同意する。

 長年にわたって公社や関連企業が探索者の安全性を高めて来ているが、行方不明になる可能性、再起不能な傷を負う可能性などはどうしてもゼロにはならない。

 以前と比べればかなり安心できる職場になっているとはいえ、探索者として迷宮に入ることは、博打的な要素が拭いがたく残っている。

 ことに明雄は、探索者として資格をとる講習中に片足を失いかねない事故に遭遇している。

 そんな目にあってもまだ探索者になることを諦めなかったのは、凄いといえば凄いのだが、それだけに明雄は探索者を続けるための強い意志にがあるように、忍には感じられた。

「聞いてもいい内容だったら、はなして」

 忍はいった。

「あっきーがお金を必要とする理由」

「……うーん」

 明雄は、珍しく露骨に不機嫌な顔になった。

「聞いても、あんまり面白い内容じゃないぞ」

 そんな前置きをしてから、明雄は説明をはじめる。

「ざっくりと説明すると、おれが小学生のときに両親が事故死して、おれはねーちゃんと二人でしばらく親類の間を転々。

 最終的には、母方の爺さんの妹さんとかいう、かなり遠い親類の世話になることになった。

 そこの人はよくしてくれたけど、もうかなりの高齢で年金暮らしでな。

 高校を卒業するまでおれは、まあかなり貧乏な生活を送っていたわけだ。

 ねーちゃんは高校を卒業するとすぐに外に出て働きはじめて、そこの家に仕送りをするようになったし」

「ああ。

 うん」

 意外にシビアな内容だったので、忍はそうとしか返答ができなかった

「その人、今はどうしているの?」

「おれが東京に出てきたのと同時に、老人ホームに入った」

 明雄は答えた。

「今でも月に一度は面会に行っているよ。

 とにかくそんなことを体験しているんで、金はないよりはあった方がいいとおれは思うわけだ」

 二人の間でその話題が取り沙汰されることは、以後二度となかった。


 その日のうちに、二人は次の階層へ進む階段を見つけ、そのまま降りていく。

 わずか一階層くらいではエネミーの強さもあまり変化することはなく、二人はなんお問題もなくそのまま進み続けた。

「やっぱり、前に来たときよりは歯ごたえがないな」

「そりゃ、わたしたちがそれだけ強くなっているってことでしょう」

 そんなことをいいながら、二人はさらにに深い階層へとむかうう。


「やっぱ、エネミーが弱くなったように感じるなあ」

 しばらくして、明雄がそんなことをいった。

「二人パーティに慣れてきたから、なおさらそう感じるのかな」

 忍はそういって首を傾げる。

「でもその慣れが怖いね。

 もうかなり迷宮に入りっぱなしだし、今日はもう帰ろうか」

「そうだな」

 明雄は表情を引き締めた。

「その慣れが油断に繋がる。

 今日はもう帰るか」

 そおういった直後、明雄は戸惑ったような表情を浮かべた。

「あれ?」

「どうしたの?」

「〈フラグ〉が使えない」

「え?」

 忍は目を見開く。

「ええと」

 そういいながら、忍は自分でも〈フラグ〉を使用して迷宮出入り口へ移動しようと試みる。

 しかし、やはりなにも起こらなかった。

「なんで!」

 忍が叫ぶ。

「そういや、聞いたことがあるな」

 明雄はいった。

「迷宮のトラップ。

 特定のスキルだけ使用不能にするやつ」

「あれ、都市伝説みたいなものでしょ!」

 忍が声を張りあげた。

「それ、本当に体験した人いないって聞いたし!」

「その都市伝説級にレアなイベントに、おれたちは巻き込まれたってわけだ」

 明雄はため息をついた。

「〈フラグ〉使えないんなら仕方がない」

「どうするの?」

「自分の足で歩くんだよ」

 明雄はいった。

「地上に出るまで、迷宮を走破しながら」

「ここ、何階層だったっけ?」

「三百四十……何階層だっったっけ?

 三百五十は超えていないと思うけど」

 最深個人記録を更新しているときならばともかく、一度通過した階層を裁縫しているときに細かく現在地を把握する必要性もあまりないのだった。

〈フラグ〉で移動することが前提になっている今は、特に。

「それだけの階層を突破しないと、地上に帰ることができない」

 忍はそういってゆっくりと首を振った。

「それ、なんて罰ゲーム?」

「だが、今のおれたちの実力ならばやってやれないことはない」

 明雄はそう力説した。

「ただ、ひどく面倒でかなり時間がかかるだろうってだけのことだ」

「……そうだね」

 忍は弱気に頷く。

「ひょっとして、迷宮での未帰還者って、みんなこんなトラブルに巻き込まれたからなのかな?」

「かもな」

 明雄も頷いた。

「全部が全部とはいはないが、こんなトラブルで帰ることができなくなった連中も、少なくはないのかもしれない」


 そこからさらに浅い階層へと進んでいくわけだから、イレギュラーなどが現れないかぎりは浅い階層に行くほどエネミーは弱くなる一方なわけで、二人にとってはまるで問題にはならなかった。

 問題になったのは、耐久力。

 それも、精神と肉体、両面にかかる負担をどう受け流すか、だった。

 まず最初に直面した困難は、生理的な欲求の解決だった。

「いい!」

 顔を朱に染めた忍が、大声を出した。

「絶対に、こっちの方に近寄らないでよ!」

「近寄らねーよ!」

 明雄が怒鳴り返す。

 顔を伏せた忍が、明雄から視線を外しながら角を曲がって小走りに去っていく。

 その姿を見ながら、明雄は軽いため息をついた。

 忍がなにをしにいったのかというと、要するに小用をたしにいっているわけだった。

 男性ならばそこいらでしてしまえばいいのだが、女性の場合はそうもいかない。

 通常ならば一回迷宮に入ったとしても、長くて二、三時間もすれば地上に帰還する。

 だから、迷宮内でこうして生理的要求を解消することは、普通ならばまずない。

 これは、想像していたよりもヤバイ状況かも知れないな、と明雄は思いはじめる。

 たかがトイレだけでこの始末である。

 この先、迷宮内にもっと長居をすることになったら、どんな問題が出てくることやら。


「……お腹すいた」

「おれも」

 それから五時間後、明雄と忍は背中合わせで座り込みながら、そんなことをいいあっていた。

 ふかけんでは、なんらかの理由で迷宮内から脱出することが不可能になったときに備え、迷宮に入るときは何食分かの携帯非常食を多めに持参するように指導されている。

 具体的にいうと、ペットボトル入りの飲料とか栄養価の高い携帯口糧などになるわけだが、明雄も忍も持参した分はすでに食べ尽くしていた。

 迷宮に入ったときの探索者は、なまじ累積効果があって多少のことでは疲れなくなっているから、体をよく動かす傾向があった。

 つまり迷宮に入った前後は、それだけよく食べるようになる。

 明雄や忍もその例のもれず、迷宮に入ったあとはほぼ例外なくかなりの健啖ぶりを発揮していた。

 この二人に限らず、探索者というのは基本的に大食らいであり、体質的に燃費が悪いのだった。

「仕方がない」

 明雄はいった。

「エネミーの肉でも食うしかないか」

「それはいいけど、お肉の捌き方とかわかる?」

「スイギュウなら解体したことがあるし、やってみればなんとかなるだろう」

 明雄はそういって天井を仰いだ。

「それよりも、水の方が問題だな」

「水かあ」

 忍はいった。

「それも、いよいよ困ってきたら、エネミーの血でも啜るしかないのかなあ」

「……しょっぱくて、生臭そうだな」

 その様子を想像したのか、明雄は顔をしかめた。

「今、何時?」

「ええと」

 明雄は、腰のポシェットから取り出したスマホの画面を確認する。

「今、十八時過ぎだな」

「十八時。

 っていうと、六時過ぎか」

 忍が呟く。

「今、何階層まで来たっけ?」

「二百八十階層くらい、だと思う」

「五時間もかけて、それだけしか進んでないのか」

 忍がため息をついた。

「これは、門限はおろか、今日中に帰れるのかどうかもかなり怪しいかな」

 自宅住まいの忍には、両親によって門限が設定されていた。


 それからさらに三時間が経過した。

 現在地は、推定で二百五十階層前後。

 ここで二人は決断し、はじめてエネミーの肉を調理することに挑戦する。

 この調子だと、今日中に、どころか無事に地上に出るまであと何日かかるのさえ、容易に予想ができない。

 前途を遮るエネミーを倒すことにはなんの問題はなかったが、上の階層へと戻る階段を見つけるまで迷宮内を彷徨わなければならないため、時間がかかるのだった。

 いよいよこれは長期戦になる。

 そう判断した二人は、食料の確保と休憩について真剣に考えはじめていた。

 食料については、倒したエネミーの肉をよく血抜きしてからスキルによって加熱することで、味はともかくなんとか口にすることができるものができあがった。

 かなり癖があり、口の中に入れるとその場で戻しそうになるくらい変な匂いが鼻腔を抜けていったが、今後のことを考えて無理やり咀嚼して飲み込む。

 交代で排泄に行くことにも、いつの間にか慣れてしまった。

 慣れなければ、とてもじゃなければやっていけない状況なのだ。

 なんとか満腹したあと、二人は交代で仮眠を取る。

 もちろん、毛布や寝袋など気の利いた代物をこの二人が持参しているわけもなく、硬いヘルメットを枕にして、やはり硬い迷宮の床の上に直接寝そべることになる。

 じゃんけんで負けたため先に横になった忍はしばらく微妙な表情をしていたが、疲労には勝てなかったのか、五分もしないうちに軽い寝息をたてはじめた。

「さて、と」

 忍が寝入ったことを確認してから、明雄は血抜きしたエネミーの肉を取り出して自分のスキルで加熱しはじめる。

 もともと攻撃用のスキルであるから熱量が高く、加減をしないで使用するとあっという間に肉が消し炭になってしまう。

 なんとか口にするところができるまで出力を抑えながらスキルを使用することに、明雄は慣れる必要があった。

 幸いなことに、食用になりそうなエネミーの死体は〈フクロ〉の中にいくらでもある。

 普通に迷宮に入っているだけだったら、こんなスキルの使い方はまずしないだろうな、と、明雄はそんなことを思った。


 三時間ずつ睡眠をとったあと、二人は再び迷宮内を進みはじめる。

 浅い階層へ、より浅い階層へと。

 何度か食事や仮眠を繰り返すうちに、二人はスキルでエネミーの肉を調理することと、硬い地面の上で寝ることに慣れていった。

 そして、いつの間にか忍も〈察知〉のスキルを習得する。

 明雄が仮眠をとる間、周囲を警戒し続けるのはかなり応えたらしかった。

 やはりスキルとは、使用者が必要性を感じたとき生えてくるもんなんだな。

 と、明雄はそんなことを実感した。

 こうした仮説は以前から探索者たちの間で囁かれていたのだが、その仮説を具体的に証明することは不可能だった。

 そもそも人類は、探索者たちがごく普通に使用しているスキルという現象がどういう原理で発現するのか、そういう基本的なことさえ、まだ理解できないでいる。

 せいぜい、統計的なデータから、しかじかの行動をするとこういうスキルが生えやすいという傾向を調べ、当て推量で利用することくらいしかできていないのだった。


 忍の〈察知〉以外ににも、明雄と忍の二人は前後して〈鑑定〉、〈威嚇〉、〈忍耐〉などのスキルを次々と生やしていく。

 かなり有益なスキルであったので、こんな極限状態でなければ歓喜していたはずだが、今、この状況下ではうかつに喜ぶ気にもならない。

〈鑑定〉、〈威嚇〉はともかく、〈忍耐〉というスキルは忍も明雄も聞いたことがなかったので、早速生えてきたばかりの〈鑑定〉を使用して確認してみたところ、なんのことはない、

『極限状態にあっても動揺しない、強靭な精神力』

 などというふざけた説明文が読み取れた。

 明雄は乾いた笑い声をたてたあと、その内容を忍に説明する。


 二人で迷宮内をさまよううちに日時は過ぎていく。

 二人が迷宮に入ったのは十二月二十二日だが、今、明雄のスマホの画面には、現在が二十四日であると表示されている。

「メリークリスマス!」

 明雄はスマホの画面を忍に示して叫んだ。

「メリークリスマス!」

 忍は両腕を高々と掲げ、バンザイをして叫んだ。

 しばらく、二人して、

「メリークリスマス!」

「メリークリスマス!」

 と叫び合いながら周囲を飛び跳ねて回った。

 そんなことでもしなければ、気が狂ってしまいそうだった。


「おれたちも娑婆では、行方不明者扱いなんだろうな」

 さらに二日が経ち、ようやく百階層以内の浅層に突入した頃、明雄はそんなことをいった。

 そういう明雄の顔中には、びっしりと長く伸びた髭が生えている。

 一度、〈フクロ〉の中に入っている短剣で髭をあたろうとしたのだが、刃がかなりなまくらだったのか、髭はあまり剃れずに顔の傷ばっかり増えたため、途中で断念したのだ。

「早く帰らないと、お葬式も出されちゃうかも知れない」

 ひさしぶりに、忍が快活な声を出した。

「いや、十日やそこいらなら、そんな慌てたことはしないだろう」

 明雄は苦笑いを浮かべた。

「年末年始がかかってくるわけだし」

「まあ、現実的に考えると、わたしたちが娑婆に帰らなくても、三が日が開けるくらいまではなんにもしないか」

 忍も軽い口調で応えた。

「このペースで行くと、遅くとも年内には娑婆に出れそうだし」

「だよなあ」

 明雄は頷く。

 明雄の顔が髭だらけになっているのと同様に、忍の顔も今ではかなり酷いことになっているはずだった。

 寝るときにしかヘルメットを脱がないし、忍には絶対に寝顔を見るなと言明されているので確認したことはないが、ここにはメイクの道具はおろか、洗顔をするための水さえないのだ。

 外見上、どんなに汚れてえいたとしても、おれたちは生きている。

 明雄はそう思って、決意を新たにした。

 絶対に娑婆に、迷宮の外に出てやると。


 先に進むにつれて、二人が仮眠を取る頻度が目に見えて多くなった。

 強気を装ってはいいても、このような状況では、やはり心身の消耗が激しいらしい。

 逸る気持ちはあるのだが、二人はそれを無理にでも抑えて先に進むペースを落として、できるだけ体を休めるようにした。

 ここまで来て、からつまらないミスをして迷宮内で倒れることは避けたかったのだ。

 交代で仮眠を取り、エネミーの血肉を貪りながら、二人は先へ進む。


「迷宮が厄介なのは、登山とかと違って、遭難者の捜索ができないことだよな」

 あるとき、明雄はいった。

 探索者の資格をとるときの研修で、叩き込まれる知識であった。

 迷宮は、単一の存在ではない。

 探索者ごとに、あるいはパーティごとに、別の迷宮へと入っているらしい。

 その証拠に、迷宮から一度出て再び入ると、毎回、中の通路の形状が変化している。

 迷宮とはそんな存在であったから、仮に外部の者が迷宮内で遭難した物を探しに行こうとしても、遭難者と同じ迷宮に移動することがそもそも不可能だった。

 例外として、パーティ内の誰か一人が〈フラグ〉を使用して外部に脱出し、救援者と新たにパーティを組んでからふたたび〈フラグ〉を使用すれば、まだ迷宮内に残っていた者たちと合流することも可能であったが。

〈フラグ〉のスキル自体が無効化されている今の二人には、当てはまらない対策だった。

「食べて、寝て、焦らず、慌てないで動けば、少なくとも死ぬことはないのにね」

 忍は、そんなことをいう。

「迷宮を脱出するまで、時間はかかるにせよ」


 結局、二人が再び娑婆へ、迷宮を出たのは、十二月二十八日の午前六時四十五分だった。

 二人が探索者ID カードをゲートにかざしたので、その時刻は正確に記録されている。

 二人がゲートをくぐった途端、耳障りな電子音が鳴り響いて公社の係員が何人も集まってきた。

 長期間、迷宮に入っていたものが再びゲートをくぐると、こうして周囲に知らせるシステムになっていることを、明雄と忍は初めて知る。

 登録時の研修では、迷宮内で遭難したときの対応法をざっと教えてはくれたが、実際に生還したときになにが起こるかのはまでは教えてくれなかった。

 疲れきっていたこともあり、二人はゲートをくぐったときにはなんの感慨も抱かなかったが、こうして公社の係員に取り囲まれてから、はじめて迷宮を脱出したのだという実感が湧いてきた。

 明雄と忍は、公社の係員に取り囲まれながら、どちらからともなく笑い声をあげはじめる。

 二人で、いつまでも笑い続けた。


 それからも、二人はひどい目に合わされ続けた。

 まず公社が用意した仮眠室に通され、一眠りする。

 目がさめたら、二人の家族、つまり明雄の姉と忍の両親が駆けつけてくれて、泣いたり笑ったり説教をされたりした。

 それから、ようやくシャワーを浴びて着替え、健康診断を受けたり、何日かに分けて公社の係員に事情聴取を受けたり。

 二人がそうした騒ぎから開放されたときには三が日も過ぎており、その間になぜか明雄たち姉弟は一陣家とは年末年始と町田にある一陣家で過ごし、いつの間にか家族ぐるみでつき合う間柄になっていた。



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