14. 躓き

 一橋喜慶は自身の体重の二倍近い重量のバーベルを肩に担いだ状態でスクワットをしていた。

 この荷重が現在の喜慶にとってギリギリ持ちあげることが可能な重量であり、そうした負荷を少ない回数扱うことによって効率的に筋肉を肥大させることができる。

 喜慶はそういう理論を自分自身で一通り調べた上で実践していた。

 喜慶は別にボディビルダーというわけではなかったが、特に迷宮の中では最後にものをいうのは自身の肉体であるという信念を持っている。

 だから、なんらかの理由で迷宮に入らない日はあっても、一日以上トレーニングを休むことはなかった。

 現在では探索者としての自分を鍛えることを目的としてこうしたトレーニングを続けているわけだが、喜慶が体を鍛え始めたのは探索者になってからではない。

 むしろ、トレーニングをはじめるようになってから探索者としての活動をはじめ、それまで無目的に行っていたトレーニングに対外的な、他人を納得させるための口実ができた形であった。

 客観的に見れば原因と結果が逆転しているといってもいい状態であったが、喜慶自身はそのことを不自然だとは思っていない。

 自分がそれまで縁がなかったトレーニングをいきなりはじめた理由を、喜慶自身はよく理解していた。

 喜慶が体を鍛えはじめたのは、つまるところ大学受験に失敗したからだった。



 一橋家、つまり喜慶が生まれたのは優秀な中央官僚を多く輩出している家系だった。

 父方の親類も母方の親類もそのほとんどが代々官公庁内でそれなりの地位に就いていて、それ以外の仕事に従事している者への風当たりは非常に強い。

 喜慶の兄たちも当然のように東京大学を経由して日本政府の中枢に近い場所で働いている。

 そんな空気の中にあって、喜慶は大学受験に失敗し、東京大学に入学することができなかった。

 現在在籍している城南大学も、世間的なイメージでいえば決して見劣りする大学ではない。

 国内の私立大学の中ではかなり上位に食い込む、偏差値と卒業後の選択肢から見てもかなりの優良な大学であるとみられているのだが、一橋家の中では大学といえばすなわち東大のことを指す。

 つまり、大学受験に失敗し私立大学に行くしか選択肢がなくなった喜慶は、その時点で一橋家の一員として落ちこぼれたのに等しい。

 そのことで家族や親類連中から露骨に差別されたという記憶もないのだが、目に見えない隔意というものを感じることがあり、喜慶かなりにとって実家はかなり居心地が悪い場所になってしまった。

 喜慶自身、実際に受験に失敗するまで、自身の前途が洋々としていることに寸毫の疑いもいなかった。

 それまで喜慶は、事前の判定では合格はほぼ間違いないという成績を収めていたのだ。

 自分の将来像に関して確固たるイメージを抱いていた喜慶は受験が失敗したことを知った瞬間、自分の足元が不意に不確かなものに変化したような幻覚を感じた。

 挫折をしたという思いよりも、自分が自分自身ではなくなったような感覚、セルフイメージの崩壊を先に感じ、そのあとにゆっくりと底知れない恐怖に包まれていった。

 喜慶にとって、父や兄たちと同じような経歴を持たない自分の将来像というのがうまく想像できず、受験に失敗したことによって自分自身が人間の姿をしているが人間ではないなにか、そんな異物に変化してしまった。

 そんな気分に、いつまでもつきまとわれた。

 それまでの人生で挫折らしい挫折をしたことがなかった喜慶にとって、大学受験の失敗はそれほどの大事であり、誰に責められたわけでもないのに自我が崩壊しかねないダメージを負ってしまった。

 喜慶が体を鍛えはじめたのは、この頃からのことである。


 それまで喜慶は絵にかいたような優等生だった。

 成績も優秀なら運動やスポーツも得意とする。

 もっとも、特定のスポーツに耽溺するということもなかったが。

 先生方の心証もよく、学級委員や生徒会役員を指名されることも多かった。

 異性同性を問わず友人が多く、何度か告白されて女性とつき合ったこともある。

 それまで順風満帆な人生を送り大きな失敗をした経験はなかった喜慶は、大学受験に失敗したことではじめて大きく自信を喪失した。

 喜慶がトレーニングをはじめたのは、喜慶自身はそうと意識してはいなかったが、喪失した自信を取り戻すための行為であった。

 若いだけあって喜慶の体の反応はよかった。

 負荷をかければかけるほど、ごく短時間で筋肉が発達していく。

 筋肉痛に耐えさえすれば、目に見えて変化を実感することができた。

 それも、他ならない喜慶自身の体に起こる変化である。

 入学先が決定してから城南大学に入学するまでのごく短い期間に、喜慶の体は以前よりも引き締まり、若干ボリュームが増した。

 流石に体重に大きな変動が出るほど変化でもなかったが、体内の筋肉量が増したのは確かであった。

 以前よりも体がきびきびとよく反応するようになり、若干の自信を回復させた状態で喜慶は城南大学に入学する。

 入学し、城南大学目黒キャンパスで新入生むけガイダンスを受けたあと、喜慶は他の新入生たちといっしょに多くのサークルから勧誘の洗礼を受けた。

 その中のひとつに、ふかけんという耳慣れない名があったわけだが。

「なにをするサークルなのですか?」

 思わず、喜慶は聞き返していた。

「不可知領域研究会の略」

 聞き返されることが多いのか、その上級生は淀みなく答える。

「つまりは、迷宮に入る探索者の集まりだよ」

「探索者」

 喜慶は呟いた。

 迷宮なり探索者なり、この世にそういうものが存在しているということは喜慶も知識としては知ってはいた。

 ただ、これまでの喜慶からはあまりにも遠い存在であったので、その存在を強く意識することはほとんどなかったわけだが。

「あんたはガタイがいいし、探索者になれば相当稼げそうだぜ」

「おれ、むいていますかね?」

「やる気さえあれば体ひとつで稼げるのが探索者ってものだ」

 その上級生、徳間隆康は答えた。

 おれが探索者、か。

 と、喜慶は自嘲的に考える。

 そこまで落ちるのか、と。

 この時点の喜慶の探索者に対するイメージはかなり古いものだった。

 いわく、社会の底辺に属する犯罪者すれすれの、他の職業に就けないような人種がしかたがなく就く職業であるとか。

 そうしたイメージは少なくとも二世代以上は前の、時間的にいえば三十年以上前のステレオタイプなイメージに過ぎず現状の探索者業界の実態とは大きく乖離していたのだが、喜慶が属する家系はそもそも保守的な価値観を持つ傾向にあり、この時点の喜慶自身もこの時点ではそうした価値観からはまだ脱していなかった。

 そして少し考えたあと、これはなかなか面白いではないか、と喜慶は結論する。

 なにより、探索者の世界は本人の実力次第でどこまでも上にいける世界であると聞いている。

 どうせこれまで想定していた官僚への道を事実上否定された身なのだ。

 それならばいっそのこと、自分だけの力でどこまでのことができるのか、試してみるのも一興なのではないか。

 現実的に考えれば城南大学出身であっても国家公務員として身を立て、その世界で出世することを目指すことも十分に可能なのだが、最初の段階で他の親類との差がついてしまったと感じている喜慶はその進路を念頭から消し去っていた。

 どうせ親族の中では落ちこぼれになってしまった身である。

 ならば、まるで違う世界に身を投じてみてもいいのではないか。

 半ば自暴自棄な心境で喜慶はそんなことを思いはじめている。

 その探索者の世界とやらが、予想外に喜慶の気質に合っていたのは予想外のことであったが。


 ふかけんにも所属し探索者登録も無事に終了した喜慶は、短期間のうちに迷宮という環境に順応した。

 実際に体験してみて初めて判明したのだが、どうやら喜慶は暴力行為や充血沙汰に対する耐性が他人よりはあるらしかった。

 迷宮内に出現するエネミーに対して苛烈な攻撃を行うことに対して、同じ時期に探索者になった他の新入生たちよりもためらいがない。

 エネミーを相手にするということは、つまりは死に至るほどの損傷を与えるということなのだが、喜慶は眉ひとつ動かすことなくそうすることができた。

 自分が振るう暴力に対して喜びを感じているということもなかったのだが、平和な日本社会で生まれ育ったにも関わらず、どうやら喜慶は他者の生命を奪うことに関して少しの忌避の感情を感じないパーソナリティーらしかった。

 サイコパスの素養があると証明されたようなものだったが、そのことに関しても喜慶は特に思うところはなかった。

 むしろ、そうした自身の特性をも一種の才能であると評価し、冷静にエネミーを倒し続け、ごく短期間のうちに頭角を現すようになった。

 迷宮の中においては、自身の凶暴性をうまく利用できるものが探索者としてうまく成長できるという側面は、間違いなくあるのだ。

 そうしてエネミーを狩り続け、その結果としてより多くの累積効果を得た喜慶は、半年もしないうちに他の一年生たちと同じパーティを組むことが難しくなった。

 より多くの経験値を求めるため少しでも深い階層を目指す喜慶と、比較的安全な階層で活動することを望む他の新入生たちとが同じパーティになったとしてもお互いに得るものがない。

 そこで喜慶はふかけんの先輩たちのパーティに声をかけて同行させてもらったりふかけん外の探索者に声かけたりして、早くから独自の人脈を作っていく。

 自身の能力と力量次第でどこまでも上にいける迷宮という環境は、中央官僚になるという進路を自ら否定した喜慶にとって砕かれた自信を再建するために最適の場所であったといえよう。



 このとき以来、つまり喜慶が迷宮に喜慶の入るようになってから今年で三年目になる。

 現在の喜慶の思想を一言で現すならば、「実力主義」ということになるだろう。

 迷宮という環境は、人間の都合などを考慮してはくれない。

 次々と迫りくる数々の危機に関してどのように対処できるのか、対応可能な知識や技術、スキル、体力、知力などを総合した力量が非情なまでに実直に判定されるのが、迷宮という場所であった。

 そうした喜慶の目から見てみると、今年の新入生たちは中々の粒ぞろいだった。

 すでに探索者としてかなりのキャリアを持つ藤代葵や早川静乃のことはいうに及ばず、探索者としての経験はないものの、端倪すべきポテンシャルを持つ白泉偉のような化け物もいる。

 特に三人目の白泉偉などは喜慶から見ても底が見えない。

 もともと喜慶はそちらの方面には造詣が深いわけではない。

 白泉は明らかに武芸の素養がありそうだということくらいは喜慶にも見当がつくのだが、それ以上に実力を判定できる能力は持たなかった。

 あるいは、剣道と居合道の有段者であるという榊十佐などが見れば白泉の技量についてもそれなりの判定を下すことが可能であるのかも知れなかったが、いずれにせよ白泉は喜慶にとって手に余る人材であり、必要以上に詮索する理由もなかった。

 とにかく、その三人はある意味ですでに基礎が固まっている人材であり、今後に成長や発展がする余地はあるにしても、結局は喜慶の関心の対象外なのである。

 下手に完成している人材は鍛える甲斐がないし、それ以上に上級生である喜慶をないがしろにして制御できなくなる可能性もある。

 やる気は人一倍あるようだが探索者としての素養も人一倍欠落している野間秀嗣のような人材は問題外にしても、先天的な素養にもそれなりに恵まれていて、同時に探索者としての経験は欠いている、いいかえればいろいろと教え甲斐があり、それを恩に感じてくれるような都合のいい人材はいないものか。

 そう思って新入生たちを見渡してみた結果、喜慶の目にとまったのが秋田明雄という男だった。


 秋田明雄には、素質と野心があった。

 喜慶自身もその両方に恵まれていたから、すぐに同じ人種であると判別することができた。

 性格も経歴もまるで違うのだが、それなりの素養がすでにあったこととそれに迷宮を利用して何らかの力を得ようとする野心を持つという二点において、喜慶と明雄は似た者同士であり、だから喜慶も独特の嗅覚を持ってそのことをすぐに見抜いた。

 この場合重要なのは、喜慶と明雄が似た性質を持っているということより、そのことによって明雄が自身の目的を達するまで喜慶から離れることはないだろうという点である。

 明雄にしてみれば、自身の実力を十分に育てるまでは喜慶の元から離れるわけにはいかないわけであり、少なくともそれまでの期間、喜慶は明雄を便利な駒として利用することができる。

 喜慶も一方的に明雄のことを利用するだけではなく、その間、累積効果のレベリングという形で明雄にもそれなりの恩恵を与えているので、関係としては対等に近かった。


 その明雄は探索者資格を取るための講習中、想定外に強力なエネミーに遭遇して片方の脛を分断するという奇禍に見舞われたわけだが、喜慶の心配をよそに当の本人はひどくあっさりとした態度で探索者を続けるつもりだと見舞いに行ったときに明言していた。

 普通に考えれば迷宮に入るという行為そのものに重大な忌避感を抱いても不思議ではない重傷を負っているわけだが、どうした加減か明雄自身はそのことをちっともたいしたことには感じていないらしい。

 豪胆なのか、それとも並外れて鈍感であるのか。

 いや、おそらくは後者なのだろうが、とにかく明雄はこの点でも探索者として優れた気質の持ち主であることを証明してくれた。

 どこか壊れた者でなければ、多大なリスクがあることを承知で長く迷宮に入り浸ろうとはしないものなのだ。


 秋田明雄もだが、喜慶自身もはやりどこか壊れている。

 そのことは、喜慶自身も重々自覚しているところだった。

 喜慶が迷宮に求めているのは、自身の力をより強大にするという単純な欲求を満たすことだった。

 経済的な成功などは所詮副次的な効果に過ぎず、迷宮の中であれば娑婆では体験できないほどの強大な力を手にし、存分に振るうことができる。

 ある意味では非常に原始的であり、味方によっては幼児的な願望充足に過ぎないという自覚もあるのだが、社会的な意味で栄達することに関してすでに大きな挫折を経験している喜慶にしてみれば、その単純な要求を満たすことは意外に切実な意味を持っている。

 そうした、本人にしてみればそれなりに切実なモチベーションを維持している喜慶は、少なくとも同じ程度のキャリアの探索者の中ではそれなりに強い部類に入ると自負している。

 たとえば、探索者として八年目に入っているという徳間隆康には到底敵わないと承知しているが、同期の者たちの中では一歩も二歩も先に進んでいると、本人は思っていた。

 実際には、探索者としての優劣というのは容易に比較できるものではないのだが。

 戦闘系スキルを重点的に育ててきた探索者と支援系スキルを重点的に育ててきた探索者を単純に比較しても意味がないし、同じ戦闘系スキル重視の探索者であっても近接戦闘メインの者と遠距離戦闘メインの者では、やはり比較の対象にはならない。

 そうした理屈、いや、現実を重々承知の上で、誰よりも強さに拘る、自分を鍛えることに意義を見出している喜慶には、少しでも今よりも強くなろうと常に足掻いていた。

 計画的なトレーニングに従事しているのもそのためであるし、それ以外にも、自由になる時間のほとんどを迷宮内に入ることに費やすよう、様々な工夫をしている。

 喜慶はめぼしい探索者たちに片っ端から声をかけ、日付により曜日によりいくつもの常駐パーティを使い分けていた。

 自身が主催するパーティとして榊十佐や猿渡朋春などのメンバーを集めたパーティを確保しているのだが、このパーティで迷宮に入るのは週に一度か二度くらいの割合でしかない。

 パーティ内での役割分担が固定してしまうといざというときに臨機応変な対応ができないということもあったし、それに榊十佐や猿渡朋春クラスの探索者になるとそれなりに誘われる先に困ることはなく、実際問題として毎日のように集めることは難しかったからだ。

 では、自身が主催するパーテ喜慶ィを招集していない日はどうするかというと、いくつかのパーティにゲストとして参加させて貰っていた。

 喜慶ほどの実力になれば中堅どころの探索者として実う戦力として十分に期待することができたし、喜慶の方もあちこちに声をかけていい反応があった場合には、東京中のどこの迷宮にも身ひとつで出張っていった。

 パーティが変われば自然と喜慶に期待される役割も異なってくるし、同時に赴く階層もパーティごとに異なってくるので、毎回のように新鮮な体験をすることができた。

 喜慶にしてみればその都度、機転を利かせて与えられた状況に適切に対応するための柔軟さが求められるわけだが、単純な累積効果以外にもそうした機転の利かせ方ができるような頭の回転も喜慶は強さを決定づける際の重要な要素であると信じていた。


 喜慶はふかけんの下級生の面倒を積極的に見るタイプではなく、その意味ではあまり面倒見がいいとはいえなかったが、例外的に体力や身体能力に自信がないい下級生の相談にはよく乗るという面があった。

 これは、喜慶自身が人一倍強さに拘る性格であるということと、それに、各種トレーニング理論を学習、実践してきた関係で実際的な助言をするだけの知識を持っていたからでもある。

 実際には強面の喜慶にわざわざ声をかけて相談しに来る下級生など滅多に居やしないのであるが、体力作りとかそちらの方面に限っては、喜慶は積極的に時間を割いていた。

 あくまで善意からの行為であったが、そうした際にあたりはばからぬ大声で叱咤することもあり、どうやら評判はあまりよくないらしい。

 喜慶がいないところでは軍曹などと呼ばれていることを喜慶は知っていたが、そうした評価を喜慶自身はさして気に留めてはいなかった。

 喜慶が自分が強くなることに真摯であったから、他者が強くなろうとする際にも自分ができる範囲内で真摯に協力しようと思っている。

 かなり不器用で偏ったやり方ではあったが、喜慶なりに後進を育成しようと気持ちはそれなりにあるのだった。

 ふかけんの下級生に限らず、他のパーティで出会った経験の浅い探索者に対しても適切な助言を与えたり余っていたドロップ・アイテムを無償で融通したりすることがある。

 喜慶のそうした面に触れる機会のある者はごくごく限られていたが、客観的に見て喜慶は決してなにごとも暴力だけで解決するような粗暴な性格の人間ではなかった。

 むしろ、迷宮内でエネミーを相手にしているとき以外は暴力沙汰から縁遠い性格であるともいえる。

 なにしろ、暴力に訴えて他人に何事かを強制しようというほどには、喜慶は他人に関心を抱いていないのだ。


 ただ、何事にも例外というものはある。

 喜慶にとって不運だったのは、その日、たまたま喜慶が立ち寄った先に、そうした少年が居合わせてしまったことだろう。

 当時〈スライム・キラー〉と揶揄まじりに呼ばれていたその少年は、探索者としてはかなりいびつな成長の仕方をしていたため、一瞥しただけではその実力を推し量ることができなかった。

 たとえ鑑定系のスキルを所持していないとしても、それなりの経験を持つ探索者であれば対面した相手の実力をある程度は予想することができる。

 スキルという以前の山勘に近い感覚であったが、そうした感覚が研ぎ澄まされていないと一度に多くのエネミーを相手にすることが多い迷宮の中では咄嗟の判断ができなくなる場合がある。

 だからそうした対面した相手の実力を予想する勘は探索者であれば自然と鍛えられるわけだが、例によって出張った先の四ツ木迷宮でその少年に遭遇したとき、喜慶は内心でかなり狼狽えてしまった。

 強いのか弱いのか、それがどうもうまく判断できなかったのだ。

「あいつは?」

 喜慶は目線でその少年を示して、この四つ木迷宮を根城にしている仲間の探索者に小声で訊ねてみた。

「ああ」

 その日、喜慶とパーティを組んでいた探索者が、吐き捨てるような口調で短く答える。

「スライム・キラーっていう、この春先からずっとソロでやっているような変わり者の初心者さ」

 初心者だって?

 喜慶は心中で訝しんだ。

 それにしては……。

 心の中に沸きあがった疑問を確認するため、喜慶はその少年の方に近づいていった。

 その日、パーティを組んでいた探索者たちが慌てて喜慶を制止しようとしていたのだが、喜慶自身は仲間たちのそうした挙動に気づいていない。

 この時点の喜慶のつもりとしては、軽く声をかけて疑問を解消するだけのつもりであった。

「おい、あんた!」

 喜慶はその少年の背中から肩に手をかけて、声をかけた。

「あんた、スライム・キラーっていわれている人だろ?」

 肩の位置が低いな、と、喜慶は思う。

 それに、細い。

 白泉偉も小柄だったが、この少年もその白泉ほどではないにせよ、体格には恵まれていない。

 いかにも、頼りなさげな雰囲気を持った少年だった。

「うん」

 その少年は振り返って答えた。

「そうですが、なにか用ですか?」

 口調こそ丁寧だったが、明らかに声をかけてきた喜慶のことを歓迎していない雰囲気を漂わせている。

 その事実が、喜慶をかすかにいらだたせた。

「あんた、今、潜行時間がどれくらいになる?」

「もうすぐ五百時間を超えます」

「五百時間!」

 喜慶は小さく叫び、頭の中で素早く計算する。

 この少年は、春から迷宮に入りはじめたとかいっていたから。

「一日十時間以上、潜っているのかよ!」

 それが事実だとすれば、かなりの執念であるといえた。

 喜慶自身でさえ、毎日そんなに長時間に渡って迷宮に入り浸っていはいない。

 というか、常識的に考えてみても、かなり無謀な行為といえた。

「平均すると、そうなりますね」

 内心でかなり驚嘆の念に駆られている喜慶をよそに、その少年は涼しい表情で答える。

 それがどうかしたのか、とでもいいたげな表情だった。

「それだけの時間をかけて、今の階層は?」

「七階層を攻略中です」

「それだけの時間をかけて、まだ七階層かよ!」

 喜慶は思わず大きな声をあげてしまった。

 そして声をあげてしまってから、慌てて少年の反応をうかがう。

 幸いなことに、その少年は喜慶の反応を目の当たりにしてもあまり気を悪くした風にも見えなかった。

 あるいは、こうした反応にはすでに慣れっこになっているのかも知れない。

 少年はどこか諦観を滲ませた表情を作って、喜慶にむかってこういった。

「用件は、それだけですか?」

 そして、少年は喜慶に背をむけて去っていこうとする。

「ちょっと待てよ!」

 喜慶はまた少年の肩を掴んだ。

「あんた、フクロ持ちだろ?」

 喜慶はいった。

 せめて〈フクロ〉のスキルくらい持っていなければ、長期間に渡るソロ活動なんかできるわけがない。

 というのが、喜慶の持つ常識だった。

「ちょうどいいや。

 おれたちのパーティにはまだフクロ持ちがいないんだ。

 あんた、おれたちのパーティに入って荷物持ちをやって……」

 これは、本気で荷物持ちを欲していたわけではなく、喜慶にしてみれば純粋に善意から出た言葉であった。

 この奇妙な、掴みどころがない少年に喜慶は強い興味を抱いていた。

 口実はどうあれ、喜慶たちのパーティに同行しさえすればまだまだ経験が不足している様子のこの少年に対してレベリングを行うことができる。

 後進の探索者に対して奇妙な保護者意識を持つ喜慶としてみれば、別段不自然な発想というわけでもなかった。

「お断りします」

 しかし、少年は以前にも増して表情を消してそう答えた。

「おれにとって、まるでメリットがないんで」

 その返答を耳にした途端、喜慶は自分でも予想していなかった反応をしてしまう。

 なにか考えるいとまもなく、反射的に利き腕を動かして渾身の力を込めて、その少年の頬を殴ったのだ。


 え?


 誰よりも喜慶自身が、自分の行動に驚いていた。

 もともと喜慶は、暴力で何事かを解決しようとするほど粗暴な人間ではない。

 それに、強化された探索者の力で生身の人間を暴行すれば、柔な人間の体など呆気なく壊れてしまう。

 刑法上でも、迷宮の効果範囲内で探索者が暴力をふるった際は、武道の有段者がそうであるように凶器を使用して暴行したのと同様に扱われることになっている。

 そんな基本的な事実を、喜慶が失念するはずはないのだ。


 どうして。


 と目をむく喜慶はよそに、殴られた側である少年の方は、相変わらず醒めた表情で喜慶の顔を見返している。

 被害者らしからぬ、落ち着き払った態度だった。


 なぜ、その少年はその場に立っているのか?

 探索者として強化された喜慶の力で、全力で殴られているというのに。


 そんな疑問が喜慶の頭に浮かんだとき、ようやく喜慶は痛みを感じた。

 これまで、喜慶は迷宮内で大小の負傷を負っている。

 そのどのときよりも大きな痛みを、利き腕のこぶし、つまりその少年を殴った手で感じていた。


 あ。

 と、口から悲鳴をあげながら、喜慶の冷静な部分がそう判断している。

 これは下手をすると、こぶしか指の骨が、何本かイっているな、と。


 つまりは、その少年の体幹が、予想外の強靭さを持っていた、ということだ。


 なにが五百時間だ、と、喜慶は心中で毒づく。

 その少年は、どう考えても潜行時間換算でその数倍に相当する実力を秘めている。

 最初から感じていた違和感は、やはり間違いではなかったか。

 とも思った。


 喜慶とパーティを組んでいた連中が、慌てて喜慶に近寄ってくる。

 数人で喜慶を囲むようにして、その場から去ろうとしていた。

 喜慶自身も、それに逆らおうという気力はない。


「すぐに医者にいくか、ヒール持ちの方を探すことをお勧めします」


 そんな喜慶たちの背を、その少年の声が追いかけてきた。

 他にもなにかいっていたような気がするが、喜慶の耳には入っていない。



「いったい、なにがどうなったっていうんだ?」

「わからない。

 一橋先輩がどこかの迷宮で未成年の探索者に暴行を働いたことは確かだというが」

 このときならぬ不祥事は、当然のことながら、ふかけんの関係者たちの間で取りざたされることになった。

「被害者が雇った弁護士がうちの大学の学生課に照会に来たそうだし」

「逮捕されたって本当?」

「警察で取り調べは受けたらしい」

「先輩の実家が慌てて示談金を積みあげて、被害届を取り消させたそうだ」

「結構いい家柄だとかいってたしな」

「身内から犯罪者を出すとやばいらしいね。

 職業的に」

「それより、うちのサークル大丈夫なの?

 先輩、一応うちの会長だったろ?」

「どうかなあ」

「仮に活動停止になったとしても、実際にはあまり困らないだろう。

 ふかけんのメンバーでなければ探索者として活動できないわけでもなし」

「それもそうか」

「もともと、うちのサークル、普段から集まってなにかするってわけでもないしな」

「先輩、大学からは処分があるんだろうか?」

「でも、不起訴処分だろ?

 微妙なところだな」

「厳重注意くらいはあるだろうけど」

「停学処分っていっても、ちょうど今、夏季休暇中だしな」



「というわけで、下級生たちは憶測もまじえてかなり騒がしいことになっているわけだが」

 そう前置きしたあと、徳間隆康は本題を切り出した。

「本格的な処分についてはまだ決まっていないわけだが、学生自治会の方からはとりあえず一橋をふかけんから除名しろというお達しがあった。

 弁護士さんから学生課に連絡があった以上は、こちらとしても相応の動きをしてみせる必要があるそうだ」

「はあ、なるほど」

 部室に呼び出された新鷄兼平は頷く。

「それはいいんですが、なんでおれが呼び出されているんですか?」

「鈍いやつだな」

 隆康は軽く顔をしかめた。

「一橋のやつは、あれで一応、うちの会長ということになっている」

「自治会に提出する書類上だけの、ですよね」

 兼平は頷く。

「うちのサークル、あんまり集団で動くことはないから、誰が会長でもあまり変わり映えはしないわけですが」

「その会長である一橋が除名になる以上、誰か他の者を会長に据えなくてはならない」

 隆康は兼平の顔を見つめながらいった。

「ちょっと時期的に早くなったが、いい機会だから代替わりのしてしまおうかと思っている」

「まあ、時期が時期ですしね」

 兼平は、また頷く。

「いいんじゃないでしょうか?」

 本当に鈍いな、こいつは。

 と、 隆康は思った。

「そういうわけで、今日からお前がふかけんの会長な」

「え?」

 ついに隆康がそういい渡すと、兼平の顔は覿面にこわばった。

「……なんで、おれが?」

「他に適任者がいるか?」

 隆康は兼平の問いに質問で返した。

「お前さん、地味な雑用とか好きだろう?

 ふかけんの会長の仕事なんて実際にはほとんどないし、仮になにかあったとして地味な雑用ばかりなんだからお前さんは適任だと思うけどね。

 それともなにか?

 お前さんが責任を持って同期の中の誰かしらを会長に据えてくれるっていうんなら、それはそれで構わないんだが……」



 被害者である〈スライム・キラー〉の動きは迅速で的確だった。

 事件があったその日のうちに弁護士を雇って各種の証拠を持って最寄りの警察署へ被害届を提出。

 加害者である喜慶の身元は、残された防犯カメラの映像を元にして不可知領域管理公社の協力を得て特定したらしい。

 その後、喜慶の実家に内容証明を送付。

 同時に城南大学に連絡を取って喜慶が在籍をしていることを確認し、事件の概要について伝える。

 喜慶は即座に大学事務局に呼び出され、事実関係の確認を求められた。

 とはいえ、防犯カメラの映像となぜか〈スライム・キラー〉が所持していたボイスレコーダーのデータが残されていたので喜慶自身ができるのはそれらの証拠が示すところが事実であるという追認だけであったが。

 それらのデータを実際に確認してみると、事件当時の喜慶がなにを考えていたのかはまるで関係がなく、喜慶の側が〈スライム・キラー〉に対して一方的にいちゃもんをつけて殴りかかっているようにしか思えない状況にしか見えない。

 客観的に見て、そうとしか判断できない状況であり、喜慶としても抗弁する余地は事実上なかった。

 つまり、大学での処分をそのまま受けるという意思を示した上で喜慶は自宅に帰った。


 自宅に帰ったとしても喜慶はまだやるべきことがあった。

 自分が起こした事件について家族に対して説明する必要がある。

〈スライム・キラー〉が雇った弁護士がすでに内容証明を送付している以上、それは明日にでも自宅に着くはずであり、この期に及んで誤魔化してもなんの益もなかいのであった。

 二人いる兄たちは何年も前に独立して家から出ており、父親は昔から多忙な人なので滅多な時間に帰宅することはない。

 残る母親はいわゆる専業主婦であったが、これまた各種の習い事で日々忙しくしている人であり、自宅に居る時間が極端に短い人でもあった。

 それでもどうにか帰宅したところを捕まえて、冷静な口調で自分がしでかした事件について説明をし、大学の事務所でコピーさせてもらった映像と音声のデータを披露する。

「あら大変」

 どうにか事件の概要について理解した喜慶の母親が発した第一声が、これであった。

「それでよーちゃん、逮捕されちゃうの?」

 父親とは見合い結婚で結ばれたという喜慶の母親はおおよそ世事に疎く、一歩でも家庭の外で起こった出来事に関しての判断能力は一切持ち合わせていなかった。

 重要な決断を要する判断に関しては、結婚するまでは両親の、結婚してからは喜慶の父親の意見をそのまま鵜呑みして過ごしてきた、箱入り娘がそのまま年齢を重ねたような人なのだ。

 今回の件についても、どこまで事態の深刻さを理解しているものか、にわかには判断できないところがあった。

「もちろん、警察に呼び出されれば行かなければなりません」

 喜慶はそう答えた。

「まずは事情聴取が先で、いきなり逮捕されることはないと思います。

 ですが、家族の人たちには迷惑をかけるかもしれません」

 ちなみに喜慶は家族に対しても普段からの敬語を使っている。

「そーなのー」

 喜慶の母親はやはり緊迫感を欠いた声で応じる。

「どっちにせよ、お父さんやお兄さんたちにも早めに知らせおいた方がいいのよね?」

「お願いします」

 喜慶はいった。

「ぼくは、呼び出しがあるまで自室で待機をしています」


 それからの数日は喜慶にとっても怒涛の日々となった。

 まず葛飾警察署という、四つ木迷宮から最寄りの警察署に呼び出されて長時間に渡る事情聴取を受けた。

 ごく短時間に起こった事件の概要を、何度も繰り返して聞き返された。

 なにかの嫌がらせかと思ったのだが、あとで父親が雇った弁護士に聞いたところ、何度もしつこいくらいに同じことを訊くのは偽証を防止するための警察の常套手段であるとのことだった。

 喜慶が警察に拘束されている間に、母親から連絡を受けた父親が喜慶の意思を確認もせず弁護士を雇い、さっさと〈スライム・キラー〉が雇った弁護士と雇った弁護士と連絡を取ってこの件を示談にして被害届を取りさげさせてしまった。

 父親も別に喜慶のことを心配したからそうした手配をしたわけではなく、いや、心配はそれなりにしているのだろうけど、それ以上に厳しい競争社会に身を置いている父親が身内のスキャンダルをこのまま放置しておくわけもなく、なによりも自分の足元を確かなものにするために早々に手配をしたのだろう。

 と、喜慶はそう想像をする。

 おそらくは示談に持ち込むために、〈スライム・キラー〉側の代理人には相応の金銭を用意したのだろうとも予想できるのだが、父親がそのことを喜慶に示唆したことは一度もなかった。

 たとえ父親が自身の保身を第一に考えてそう動いたにせよ、喜慶が迷惑をかけた事実には変わりはない。

 この示談が成立したことにより、警察に事件の記録は残されるものの、その時点で喜慶が刑事罰を受ける目はなくなった。

 決して、事件そのものがなくなったことにはならないのだが。

 その証拠に、それからいくらもしないうちに城南大学の事務局と不可知領域開発公社から喜慶に対してくだされた処分が通知されてきた。

 大学からは三か月の停学処分、公社からは探索者登録の抹消ならびに三か年の再登録禁止処分だった。

 このうち喜慶にとってより堪えたのは、もちろん後者である。


「おれはなにをやっていたのだろう」

 怒涛の数日を乗り越えて見事になにもやることがなくなった喜慶は、自室のベッドに寝そべりながら誰にともなくそう呟く。

 今回の件だけに限らず、三年前に大学受験に失敗して以来、ずっと一人で空回りをしていたような気がする。

 この先三年間も迷宮に入ることができないとなれば、もはや体を鍛えるべき理由もない。

 それならばそもそもの原因となった例の〈スライム・キラー〉に謝罪にでも出向けばいいのだろうが、当の〈スライム・キラー〉の側から最初に接触禁止の約束を強制されている。

 というか、示談金よりもなによりも、〈スライム・キラー〉は今後喜慶が接触してくることを禁止することを示談に対する第一の条件に指定してきた。

 どうしてもというのならば書面を〈スライム・キラー〉側の弁護士に手渡すことは可能であったが、その謝罪文を〈スライム・キラー〉が本当に読むという保証はどこにもない。

 傷害事件の被害者が加害者に会いたくないという心理はそれなりに納得できるのだが、喜慶にしてみれば一度直に顔を合わせて謝罪をし、同時にあのときに自分がなにを考えていたのかを伝えておきたい気持ちもあった。

 今となっては、どうにもならないことだが。


 本当に、おれはなにをやっていたのだろうか。

 改めて、喜慶は自身に対して問いかけてみる。

 ここ三年間、喜慶が本気で取り組んできたことはすべて、現在の空白状況が発生したことで無意味になってしまった。

 だからといって、これまでにやってきたことのすべてが無駄になったとは、喜慶自身はまるで思っていないわけだが。

 それでも、客観的に見れば壮大な空回りに過ぎないだろう。

 これから、いったいなにをすればいいのだろうか。

 喜慶は、そうも思う。

 これから三年間経過すれば、喜慶も再び探索者として働けるようになる。

 探索者として再登録が可能になるまでの、三年間という決して短くはない時間を無為に過ごすのはあまりにも馬鹿げているように喜慶は思った。

 なにかしら、するべきことを見つけなければならないとは喜慶も思うのだが、ではさて具体的になにをするべきかということはまるで思いつかないのであった。

 こうして落ち着いて考えてみると、案外おれは無趣味な人間なのだなと、喜慶は改めて自分について認識する。


 そうした空白期間中、長らくあっていなかった二人の兄たちから、見舞いとも揶揄ともつかない連絡を立て続けにもらった。

「まあ、若いうちのヤンチャで済んでよかったじゃないか」

 上の兄はそんないい方をした。

「お前も受験に失敗してからこっち、だいぶフラフラと寄り道をしていたようだが、これもいい機会だ。

 城南だって世間的に見れば決して悪い大学ではないし、すっぱりと正道に戻ることだな」

「お前まだ探索者なんてヤクザなことをやってたのか」

 下の兄は、もっと直接的に諫言をし口にした。

「お前あれ、探索者なんてのはまともな人間が本気で取り組むような仕事じゃないぞ。

 そんなことにいつまでもうつつを抜かしているから、事件なんか起こすんだ。

 お前だってあれ、普通ならばボチボチ進路とか就職先とかを本気で探すような年齢だろ。

 いつまでも探索者なんて浮ついたことやってないで、大人になれよ大人に」

 兄たちが口にする戒めは世間一般的に見ればごくごく常識的な内容であり、ましてや今回は喜慶自身が原因となって家族にも多大な迷惑をかけていたので喜慶にしてみても反論することはできなかった。

 そうした兄たちの意見が探索者という存在に関する偏見に基づいていたとしても、喜慶自身、自分が探索者になるまでは同様の偏見を持っていたわけであり、正面から反論する気にもなれなかった。

 今の喜慶は、兄たちに蔑視される探索者でさえないのだ。


 自分が何者でもないと自覚するのは、なんとも心許ないものだなと喜慶は改めて思う。

 ほんの数日前までは、喜慶は自分が何者であるかを問う必要さえなかった。

 しかし今の喜慶は、学生でも探索者でもない。

 一時的に、それらのアイデンティティは取りあげられて、棚上げにされてしまっている。

「旅にでも出るかな」

 喜慶はベッドの上に寝そべって天井を眺めながら、ぽつりと呟く。

 何の考えもなしにふと口えおついて出た言葉だったが、それはなかなかいいアイデアなのではないのかと思いはじめる。

 この時期に三か月も停学になれば、進級に必要な単位が取れない可能性もあった。

 いや、それ以前に、無事に卒業できたとしても、まともな企業に就職することは不可能だろう。

 それならばいっそのこと、一年ぐらい休学してどこかに旅にでも出るか。

 いやいや。

 いっそのこと、がらりと環境を仕切りなおして、家から出て大学も辞めて、どこか別の場所で新しい人生を歩んでみるのもありか。

 幸いなことに、これまでの三年間で喜慶は普通に暮らしていれば数年は食うに困らないだけの蓄えをしていた。

 家を出て独立したとしても、十分にやっていけるのだ。

 いや、どこかで働いてみるとというのもいいな。

 思い返してみれば、喜慶は探索者として以外に金銭を稼いだ経験がない。

 普通の学生が経験するような普通のバイトをしたことさえ、ないのだ。

 いずれにせよこのままでは、喜慶の世間と視野は狭いままなのではないか。

 喜慶は兄たちの探索者に関する偏見が不当なものだとは思わないのだが、それでもごくごく一面的な物の見方でしかないということも理解している。

 探索者のこと限らず、自分たちの家族はやはりごく狭い範囲でしか物事を見ていなかったのではないか、と、探索者の世界を三年間体験した喜慶は思っている。

 つまり喜慶は探索者を経験しただけで以前よりもそれだけ視野が広がったわけで、だとすれば他の仕事を経験すればさらにその分だけより広い視野を持つことができるのではないか。

 大学なり迷宮なりに戻るのは、もうしばらく別の場所に寄り道してからでもいいかと、喜慶はそんなことを思いはじめている。

 より自由に、より広い場所に。

 この時点では具体的な将来設計など見えていなかったが、喜慶は漠然と目指すべき指針を構想しはじめている。



 喜慶の不祥事はふかけんのメンバーにそれなりの動揺を与えはしたが、それで大きな混乱が起こるということもなかった。

 城南大学の方針として学生がなんらかの不祥事を起こしたときは断固とした処分を下す一方、よほどのことがなければ所属するサークルなどの連帯責任とすることはまずないだろうと予想する者が多かったこと。

 それに、仮に大学によってふかけんのサークルとしての活動が停止に追い込まれたとしても、もともと各人が独自の判断で動くことが多い探索者たちにとっては具体的に受けるダメージがほとんどないという見方をする者がほとんどであったことが、無用な混乱が起こらなかった一番の原因である。

 そうした事情は探索者としての経験が浅い新入生たちもにとってもさして変わらず、噂や憶測をあれこれと交換することはあっても、必要以上にそれに拘泥する者は新入生の中にもほとんどいはしなかった。

 実際問題として、新入生たちは新入生たちでそれぞれにもっと差し迫った問題をかかえており、数えるほどしか顔をあわせたことがない上級生の進退問題について本気で悩むほどの余裕もなかった、ともいえる。

 多くの新入生たちにとって、この夏の差し迫った問題といえばだいたいは自身の迷宮攻略についてになるわけだが、ごく少数の新入生たちはまた別の問題を抱えていた。


 たとえば、白泉偉の場合。

「どうしてこうなるかなあ」

 その前後、偉はそんなことをしきりに呟いていた。

 現在、偉は練馬区内にある神社の境内に建てられた祖父の家に居遇していた。

 その神社の境内はこの夏、例年にない来客たちを迎えてかなり賑やかなことになっている。

 例のラッコ戦で偉と偉の技の存在を知った、城南大学の留学生たちであった。

 ほとんど地元の住人しか訪れないような閑静な神社の境内に毎日のように人種も国籍も様々な留学生たちが集まってきている様子は、壮観ですらあった。

 彼らは、もちろんのこと偉の技術を学びたくてわざわざここまで足を運んでいる。

 彼ら多忙な留学生たちにしてみても、ニンジャの技はそこまで魅惑的なものだったらしい。

 彼らが姿を現したはじめた当初、偉はもちろんのこと、即座に祖父に事の次第を説明し、今度の対応策について相談してみた。

「わたしはこれでも忙しい」

 偉の祖父の反応は芳しいものではなく、鷹揚な様子でそんなことをいうだけだった。

「偉が適当に相手をしておやりなさい」

 偉にしてみれば、祖父が面倒くさがっているようにしか見えなかった。

 いや、宮司としての仕事以外にも駐車場や賃貸物件などを何点か所有し、日々その管理業務に追われている祖父は確かに決して暇を持て余しているわけではないことは理解できるのだが、伝家の技術体系は数日や数十日程度の修練でたやすく身に着くようなインスタントな代物ではないのだ。

 正直なところ、任された偉にしてみても、どうにも持て余してしまうような仕事であった。

 しかも、明らかに日本人ではない風貌の連中が数人から多いときには十名以上も連日のように集まってくれば、否が応でもご近所さんの噂になる。

 偉自身が一種の帰国子女であることはこの時点では周知されていたから、偉の友人たちが訪ねてきただけだと解釈されて実際には特に混乱をすることもなかったが、奇異の目で見られていたことは確かであった。

 根が真面目なところのある偉としては、伝家の技術の深淵までとはいわないまでも、そのとば口くらいはどうにかして短期間のうちに覗けるようにする方法はないだろうかと、真剣に考えてしまう。


 そんな最中、さらに偉を悩ませる来客が神社を訪ねてきた。

「なんで先輩まで来るんですかね」

 偉は露骨に渋面を作って榊十佐を出迎えた。

「住所はおろか、連絡先だって交換したおぼえはないのに」

「ご挨拶だなあ、おい」

 十佐の方は、特に気を悪くした様子もなくそう答えた。

「やはりここで正解だったか。

 白泉というのはかなり珍しい姓だし、実家が神社をやっていると聞いたからちょっと調べたらここがわかった。

 前のときはあれだったが、よくよく思い返してみるとお前からも学ぶべき点が多々あることに気づいてな。

 特にあの独特の、対面する相手に気取られないうちに肉薄する独特の歩法。

 あれは、是非とも伝授していただきたい」

 そんなことをいって、十佐は持参してきた風呂敷包に梱包された一升瓶二本を偉に示して見せる。

「おれ、未成年ですよ」

「お前が飲めなくても、お前の保護者は飲めるだろうよ」

 十佐は悪びれることなくいった。

「どちらかというと、おれとしてはそちらの方に伝授して貰いたいくらいだ」

 境内の木陰で野良猫と戯れたり近所のコンビニから調達したアイスキャンディを齧っていた留学生たちが、目ざとく十佐の姿を見つけてサムライ、サムライとか騒ぎはじめる。

「実のところ、一橋先輩がああなって迷宮に入ることもできなくてな。

 今さら自分でパーティを集めるのも面倒ではあるし、いい機会だからそちらの方は一時休業してしばらく自分の技を振り返ることにしたんだ」

 十佐は、そう続けた。


 もう一人、一橋先輩とか迷宮攻略などに心を砕く余裕がなかった新入生がいる。

「甘かった」

 松濤迷宮の影響圏内に新たに借りたばかりの事務所で、早川静乃は机の上に突っ伏して愚痴をこぼした。

「……ちょっとこれは、想定外だったかな」

 創業にかかわる手続き全般は、藤代葵がやってくると約束をし、その約束は迅速に実行に移された。

 手伝ってくれると約束してくれた葵の先輩にあたる扶桑文佳も、なにかと相談に乗ってはくれるし細かい雑用を積極的にこなしてくれる。

 二人とも、ありがたい存在だった。

 そのありがたい存在がったとしても、実際に企業をするともなればクリアしなければならない問題が山積みになってしまう。

 事業に必要な車両の入手と必要な手続きについては葵が担当してくれたが、そのかわり静乃はここ数日、これから雇う予定の従業員の面接のために時間を取られていた。

 時間を取られるだけならまだしも、多くは静乃よりも年上の人たちの職務履歴書などを精査し、対面してなんらかの判断をくだす仕事はまだ若い静乃にしてみれば気苦労と不安ばかりが多い仕事だった。

 いくら回数を重ねても、本当にこの決断でいいのかとという不安が脳裏から去ることがない。

 誰かを正式に雇用するという決定をくだすのは、失敗すれば損失が大きすぎることが容易に想像できる分、静乃のような小娘にとっては荷が勝ちすぎる。

 今が夏季休暇の時期でよかった、と、静乃は本心からそう思う。

 採用面接を開始してからこの方、静乃は今借りているマンションに帰るなり、シャワーや最低限の食事以外のなにかをする余裕もなく、ほとんどばたんきゅー状態でベッドで寝てしまっている。

 静乃にとって連日の採用面接は、それだけ神経をすり減らす仕事だった。


「そういうときはね」

 ある日、様子を見に来た扶桑文佳は、静乃の不安と愚痴について一通り聞いたあと、そんな風に助言された。

「こういう呪文を唱えるの」

「呪文、ですか?」

 静乃は訝しがる。

「そう、呪文」

 文佳は真面目な表情でそう続けた。

「いい。

 三回ずつ、こう唱えるの。

 なるようなるなるようになるなるようになる。

 なるようにしかならないなるようにしかならないなるようにしかならない」

 静乃は軽く噴き出した。

「なんですか、それ?」

「でも、事実でしょ?」

 文佳は微笑んでそう続ける。

「立場はともかく、一回や二回顔を合わせたくらいで他人が考えていることなんかわかりはしないんだから。

 あまり深く考えすぎないで、直感任せでいいんじゃないかなあ。

 駄目でもともとくらいに考えて、運を天に任せるくらいのつもりでさ」


 改めて文佳にそういわれたことによって、静乃の気分はぐっと楽になった。


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