05. 〈テイマー〉の誕生

 よりにもよって、入試の結果が判明したその日に、父が経営する会社が倒産した。

 いや、実質的にはそれよりもずっと以前から資金繰りに行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなっていたことを両親は承知していたそうなのだが、どうにか水利の進学先が確定するまで内緒にしていたらしい。

「とにかく、だ」

 水利の父親はいった。

「せっかく受かったんだから、大学はちゃんと卒業するように。

 こちらもできるだけ援助はするつもりだが」

「いや、そういう誤魔化し、いいから」

 水利は最後までいわせなかった。

「それで、借金はどの程度残っているの?」

「そりゃあ、お前……」

 途端に、父親は言葉を詰まらせる。


 渋る両親から何度も聞き返して確認したところ、残った負債は、なんとか返済できる程度の金額ではあるらしい。

 しかし、家族に迷惑が掛からないように離婚して、父親はどこか遠いところに働きにいくそうだ。

 両親としては借金の精算が終わってからまた再婚する気があるようだが、そんなことは所詮夫婦の問題であり、水利にとってはどうでもよい。

 問題となるのは……。

「わたしと真砂の学費は?」

「悪いが、貯金と奨学金でなんとかしてくれ。

 当座の生活費は母さんに預けてある」

 現在住んでいる住居も売り払って返済の足しにする、という。

 もちろん、家財道具なども最低限必要なもののみを残して処分する。

 母と水利、真砂(まさご)姉妹の三人は別の賃貸住宅に引っ越して生活を続けるしかない。

 借金返済のためというのはもちろんだが、今後の生活コストを削減するためにもそうするしかない。

 これまで専業主婦でまともに働いたことがない母親も、これからどこか働ける先を探すそうだ。


 事実上、草原一家の解散宣言に等しかった。

 少なくとも、草原水利はそのように受け止めた。



 それからの日々は慌ただしかった。

 転居先探しと引っ越しの準備、それに母親は仕事探し。

 まだ高校一年生だった真砂はそのまま登校していたが、すでに三年生でほとんど登校のする必要がない水利はそうした雑事のほとんどを集中的に負担することになる。

 父親の姿はいつの間にか見えなくなっていた。

 借金取りがこちらに来ないだけマシと、そのように考えるべきか。

 とにかく水利は家の中のものを整理したり荷作りをしたり、不動産を巡ってできるだけ条件のいい物件を探したりしているうちに高校を卒業した。

 進学を断念することも考えたのだが、せっかく入試を突破したわけだし、それに長期的に考えると学歴くらいつけていないと将来的に行き詰まると判断し、奨学金を頼りにそのまま入学することにする。

 奨学金、とはいっても、実質的には卒業後に自分で返済する必要がある借金だった。

 当座の学費はこれでどうにかするにしても、生活費やその他雑費は通学しながらどうにかして工面するしかなかった。


 家から徒歩二十分ほどの距離にある古いアパートを確保できたので、卒業式の数日後に、女三人で最低限の家財道具だけを持ってそこに移る。


 春休みに入り、妹の真砂は近所のコンビニにバイトで入るようになった。

 長期休暇の時期や週末、夕方から十時頃までの時間帯にシフトを集中させて、できるだけ長く勤めることで学業と両立させるつもりのようだ。

 水利が進学をあきらめなかったのと同様に、真砂も学業を断念しないという決断をしていた。

 そうなると、経済的にも学習的にも計画的に事を運ぶ必要が出てくる。

 幸い、受験準備などでは水利もそれなりにフォローすることができたので、そちらの方もあてにしていいと伝えてある。


 これまで職歴がなかった母親の仕事探しは流石に難航したが、どうにか保険の外交員という仕事を見つけてきた。

 条件的にかなり厳しそうだが、接客も事務も経験したことがない五十近くの中年女性を受けつけてくれる職場はかなり限られている。

 着慣れないスーツを着て朝早くから夜遅くなるまで出かけるようになって以来、最初のうちひどく草臥れた様子を見せていた母親が、時間がたつに連れて妙に溌剌とした様子に変化していった。

 ある日、

「お金を稼ぐのがこんなに大変だとは思わなかった」

 とかこぼしていたが、水利には、その表情は離婚する以前よりも輝いているように見えた。


 そして水利といえば、入学までの期間を利用して登録制の倉庫整理とか引っ越し屋のバイトを集中的に入れて日銭を稼いでいた。

 そうした仕事は肉体労働メインであり、どちらかというと男性ばかりの職場であるように水利は思いこんでいたのだが、調べてみると案外女性の募集ある。

 引っ越しなども細かい荷造りや軽い荷物の取り扱いなどで、あえて女手を必要とする現場もあるようだった。

 この期間を利用して運転免許を取得することも考えたのだが、この先なにがあるのかわからないし、年齢からいっても女三人のこの所帯で一番頼りにされるのは長女である自分なのである。

 だから、早めにできるだけ経済的な余裕を作っておくことを、水利は優先した。

 この判断が、入学後にさっそく役に立つとは予想していなかったが。



「本当にお金を稼げるんですか?」

「それは、やり方次第になるね」

 数名の、水利と同じ新入生たちが、恰幅のいい女性を取り囲んでいた。

「危ない儲け話なんかじゃないから、利益の確約をすることはできない。

 けど、慎重に振る舞って、なおかつ本人にやる気がありさえすれば、お金を稼ぐことはそう難しいことではない。

 迷宮とは、そういう場所なの」

 入学式がはねた直後、城南大学の目黒キャンパスでのことだった。

 まさしくお金を求めていた水利は、ふと足を止めてその一団の会話に耳を澄ましてしまう。

「いい?

 つまり、すべては自分次第。

 無料のランチも楽に稼げる方法も、この世の中にはないの」

「それでも、その迷宮っていうところにいけば」

「その、迷宮っていうところの資料とかはどこにいけば確認できますか?」

「ネットで不可知領域とでも検索すれば、関連情報はいくらでも確認できるはずよ。

 そういうのを確認して、それでもやってみようって思うんなら改めて連絡をちょうだい。

 一応、うちのチラシを渡しておくけど。

 聞き耳を立てていたあなたも、一持っていく?」

 そのハスキーな声をした女性はそういって唐突に振り返り、水利にもチラシを渡す。


 帰宅したあと、水利は自分のパソコンを使って不可知領域のことを検索し、一通りの情報をチェックしてみた。

 迷宮とかそういうモノが存在するということは小耳に挟んだことがあったような気もする。

 しかし、これまでは水利の生活に直接関係することでもなかったので、あまり気にとめることもなかった。

「こういう世界もあったのか」

 というのが、一通りのことを調べた上で水利が抱いた感想だった。

「なに、水利ちゃん、迷宮に入るの?」

 妹の真砂がパソコンの画面を覗きこんで声をかけてくる。

 狭いアパートに親子三人居住していれば、プライバシーなどないに等しいのだった。

「いや、ちょっと気になったから調べてみただけで……」

「あー、そうか。

 大学には、迷宮に入るためのサークルなんてものもあるのか!」

 真砂は、机の上に置いていた城南大学不可知領域研究会のチラシを手にとって、少し声を大きくした。

「流石は大学。

 そうか。

 サークルとしてそういうものがあってもおかしくないよねえ。

 水利ちゃん、ここに入るの?」

「いや、そんなことは。

 ただ、お金の面で……」

「そうだよねえ。

 今のうちの状況だと、こういうのがあると利用したくなるよねえ。

 同じ働くにしても、お水系にいくよりはよっぽどいいし」

「そ、そうなのかな?」

「そうだよ。

 リスクはあるけど、それ以上にリターンがある。

 ただ、これ。

 探索者、っていうの?

 これに登録するためには、未成年の場合保護者の同意書が必要になるわけだけど……母さん、書いてくれるかな?」


「迷宮に入る探索者、ねえ」

 そういって、水利の母親は太いため息をついた。

「お母さんの若い頃は、そういう仕事はちょっとアレな人がするものだったけど。

 今は若い学生さんなんかもやるんだねえ」

「母さんの若いときと今とでは、時代が違うよ」

 真砂がパソコンの画面を指さしていった。

「ほら。

 公社っていうお役所の人たちが、毎年頑張って危険性を減らして誰でも働ける職場にしてきたんだから」

 画面には、不可知領域公社の公式ページが表示されている。

「でも、完全に安全な職場でもない。

 ほら。

 現に毎日のように、迷宮から帰ってこない人がたくさん出ているんだし」

 水利たちの母親が指さした場所には、「未帰還者数」というグラフがある。

 そのグラフによると、毎日三桁に届くか届かないかといった人数が迷宮から帰ってこれなくなっているようだった。

 毎日百人前後と聞くと少ないようにも思えるのだが、この数字は日本全国の交通事故死者数よりもかなり多い。

 迷宮は東京近郊にしか存在せず、現在、実働している探索者数もせいぜい数十万人という単位だと予想されることを考えると、かなりの危険な仕事場であるといえる。

 重軽傷を負って迷宮から帰還した者も数に含めると、迷宮は毎日相当数の被害者を生産し続けている、という見方もできるであった。

 母親はそういった内容のことを諄々と説明した上で、

「だから、結局は、水利が本当にやりたいかどうかだね」

 という。

「止めないの?」

 水利が確認すると、

「どうして止めるの?」

 と、かえって怪訝な表情になる。

「そりゃあ、自分の子どものことだもの。心配か心配でないかっていったら、心配よ。

 でもねえ。

 母さん、結婚してからずっと家の中にいて、最近になってはじめて自分で働くようになって、大変は大変だけど、こういう生き方というのもあったんだなあってしみじみ感じているところなの。

 だからねえ。

 今は、あれは駄目これは駄目って危なそうなものを片っ端から禁止していくのではなく、まだ失敗できるうちに、いろいろな可能性を試してみるのもいいんじゃないかな、って、そう思うの」

「じゃあさ、母さん。

 わたしが探索者やりたいっていったら?」

「そうねえ。

 この、登録っていうの?

 これに必要な費用はすべて自分で用意して、学校が休みのときに行くのなら、止めはしないわ。

 でも、十八歳以下の人は十八歳以上の引率者が同行していないと迷宮に入れないみたいだけど、そのあてはあるの?」


 結局は、水利が本当にやりたいのかどうかという問題になってくる。

 困ったことに、高校時代の小遣いとバイト代、それに春休みのバイト代をひっくるめると探索者として登録をするための初期費用くらいは工面できるのだ。

 水利は数日、各種の資料を自分で調べて考えた末、ふかけんに入って学生兼探索者としてやっていくことを決意した。

 なにせよ、これからお金を自分で稼いでいく必要があることは確かなのだ。

 探索者は、学生が自分のペースでお金を稼ぐ方法としてはかなり効率的に思えた。

 その分、リスクもあるわけだが。


 決意したあと、水利の行動は早かった。

 ネット上から探索者登録講習の予約を行い、同時に、ふかけんの部室に行ってその場に居合わせた先輩に声をかけて入部届を出す。

 妙におっさん臭い、徳間先輩という人が対応してくれた。

「自前の装備とか、もう揃えている?」

「いえ、これからです」

「そうか」

 そんな問答のあと、徳間先輩は壁の一面を占める棚の上をなにやら探り、古ぼけた物体を取り出した。

「よかったら、これ使うか?

 スリングショット、いわゆるパチンコってやつだな。そいつの、本体。

 ゴムを張り替えれば、まだ十分に使える。

 非力な女子の最初の武器としては、これで十分だ」

 これ以外にもまだまだ使わなくなった装備が放置されているから、なんだったら勝手に探して持って行くといい。

 とか、そんなことまでいい出す。

「勝手に持って行って、いいんですか?」

「いいの、いいの」

 徳間先輩は、平然とそういってのけた。

「この手の装備類はな、ちょいと腕がよくなってより深い階層に行きはじめると、もっと性能のいいものに買い換える必要が出てくるわけでね。

 それで、まだまだ使えるのにも関わらず不要になったものがこういうところに放置されていくってわけだ。

 武器なんかはドロップ・アイテムを使うからまだしも、防具類なんかは溜まっていく一方だ。

 だから、サイズさえあえば適当に持って行ってもいいよ。

 ここにあるのはどれも、初心者にしてみれば過ぎた代物ばかりだ」

 こうして不要品をリサイクルしていくのも、ふかけんの伝統であるらしい。

「いうまでもないことだが、洗濯とか消毒は自前でしっかりとやっておくように」

 とも、つけ加えていたが。

 無用な出費は抑えておきたいところであったので、水利はありがたくその言葉に甘えることにした。


 学生の本分である講義に出るのはもちろんだったが、水利はその春、それ以外の時間を迷宮のために費やすことになった。

 登録に必要な講習以外にも、ふかけんの有志が行っているトレーニングに参加したり、迷宮について先輩方からはなしを聞いたりと、やるべきことはいくらでもある。

 入学直後になんとか探索者としての登録手続きを終えた水利は、何年も前から探索者として活動している早川静乃と藤代葵、それに、経験こそないが入学前に探索者として登録していた白泉偉と野間秀嗣についで、新入生の中で三番目に早く探索者としての登録を終えたグループに属する。

 そうした水利ら、三番目のグループが最初に迷宮に入るようになったとき、水利は懐かしい顔ぶれと再会することになった。

 水利が迷宮に興味を持つようになったそもそものきっかけ、つまり例のチラシを配っていた女性と、受け取っていた新入生たちと再び出会うことになったのだ。


「あら、あなたたち。

 本当に来たの」

 あのときチラシを配っていた恰幅のいい女性は昇殿顕子といい、今回は引率者として参加していた。

「本当にここまで来る人って、意外と少ないんだけどね」

 あのときこの昇殿顕子からチラシを受け取っていた二人は水利と同じ新入生で、一陣忍と双葉アリスといった。

 都内の同じ高校の出身者で、以前からの顔見知りであるという。

 そして二人とも、水利自身と同じく、非力な初心者むけのスリングショットを手にしていた。

「これで、全員、揃ったかな?」

 昇殿顕子は白金台迷宮のゲート前に集合した新入生たちを見渡す。

「それでは、迷宮に入ります」

 顕子のやり方は、他の先輩方の方法と比較するとかなり独特であった。

 細かい指示はまるでせず、基本的に新入生たちのやりたいようにやらせておく。

 ただし、迷宮に入っている間中、延々となにかしらの歌を歌い続けていた。

 それが〈応援歌〉というパーティーメンバーの性能を底上げするスキルの一種であることは新入生たちの間にもすでに知れ渡っていたのだが、実際に歌われる歌が「どんぐりころころ」などの童謡や「ズンドコ節」などいうはなはだ緊張感のない曲、はてはこぶしをきかせまくったまくったド演歌のメドレーなどが続くと聴衆である新入生たちもいい加減にげんなりしてくる。

 その顕子のスキルによって実力以上の能力が引き出されていることに感謝をしつつも、

「もう少し選曲的にどうにかならないかな」

 という所感が、新入生たちの間で囁かれていた。

 どうやらこの〈応援歌〉というスキルは、曲目はなんであっても歌でありさえすれば効果は変わらず、実際になにを歌うのかは顕子の気分次第であるらしい。

 選曲はともかく、顕子は決して音痴というわけではなかい。

 それどころかマイクもないのに迷宮内に朗々と歌声を響かせて、何時間も歌い続けても少しも疲れた様子を見せないタフで巧い歌い手でもあった。

 巧いからこそ、かえって脱力するような選曲にいいようのない憤りを感じてしまうという側面もあったのだが。

 顕子のリサイタルをBGMにして新入生たちは迷宮を進み、普段の実力以上の力を発揮してエネミーに挑み、次々と破っていく。


 引率者の先輩は顕子だけではなく、角川夏希、史緒の姉妹のいずれかや徳間隆康、金城革などの先輩方、それに同じ新入生ではあるが以前から探索者として活動していたという早川静乃や藤代葵などが行うこともあった。

 習得しているスキルが異なるからか、引率時における言動やスタンスなどもそれぞれ微妙に異なっていて、しかし、新入生に経験値を稼がせるのと同時に経験者でしかできないような大小のアドバイスをさりげなく伝えようとする態度は、ほぼ共通していた。

 むしろ、タイプが異なる探索者数名が代わる代わる自分の経験に由来する助言を行っている形であり、これは直接的に探索者の諸元性能を引きあげる、エネミーを倒したときに得られる経験値と並んで貴重な情報資源なのではないか、と、水利は思った。

 そうした助言はスキルの種類や使い方、装備品についての細かい知識、迷宮に関する、ときに信憑性が疑われるような噂の数々にまで多岐に及び、いつの間にか新入生たちの脳裏に染み込んでいった。


 実は、ふかけんへの入会手続きはしたものの、途中で脱落してサークル活動にほぼ出てこなくなった新入生たちも相当数存在し、さらに何度か迷宮に入ったあとにもぼつぼつとサークル活動が離脱する新入生も決して少なくはない。

 実際に体験してみると、探索者の活動というのはエネミーの返り血にまみれながら重労働であり、精神的にも肉体的にも消耗するところが多い、きつい仕事だった。

 継続する気持ちが萎える者が出てきたとしても無理はないかな、と、水利も思う。

 経済的な事情を抱えている水利自身には、ここで探索者を辞めるという選択肢はありえなかった。

 水利にしてみれば、今後、探索者としてより有利な位置に求めるためにふかけんという存在をとことん利用するつもりであり、水利の視界にはそうした脱落者の姿はほとんど映っていない。

 水利は自分に探索者としての資質が備わっているとも思っていなかったが、これからの自分の人生を切り開くためには探索者として経済的な自立をすることが必須であり、それ以外の方策が自分にはほとんど残されていないこともよく理解をしていた。

 ひとことでいうと、それだけ必死で周囲をよく観察する精神的な余裕も、この時点ではあまりなかった。


 そうした水利にとって、眩しく思える新入生が何名か存在した。

 入学前に何年も探索者として活動している早川静乃や藤代葵、ではない。

 彼女たちと水利とでは、あまりにもいろいろな事柄がかけ離れすぎていて、もはや比較する気にもならない。

 入学前に探索者として活動しはじめたばかりの、白泉偉と野間秀嗣の二人であった。

 この二人は、探索者としてのキャリアを比較すると、入学してから慌てて探索者登録をした水利と、いくらも違わない。

 実質半月ほど、多く見積もっても一月くらいしか、キャリア自体は違わないはずだった。

 しかし、新入生の中ではいち早くスキルを習得して、それどころか独自のスタイルを構築しつつある。

 以前から護身術らしきものを修めていたとかいう偉はともかく、どうみても運動が苦手なタイプである秀嗣までもが不器用ながらも試行錯誤を重ね、なんとか様になる戦闘スタイルを身につけつつあった。

 実は水利自身も、スキルの習得はかなり早い。

 スキルの習得という一事のみに着目すれば、新入生の中では偉と秀嗣の二人に続いて、立て続けに複数のスキルを自分のものにしている。

 客観的にみても、初心者探索者のスキル構成としては、決して見劣するものではなかった。

 ただし、習得したみっつのスキル、〈フクロ〉と〈フラグ〉、〈ヒール〉はすべて直接戦闘に関わりのないタイプのスキルであったこと、が水利の気分を暗くする。


「まあ、いんじゃないかな」

 先輩である角川夏希は、仲間内での雑談時に草原水利の話題になったおり、この時点での水利についてこう評していた。

「〈フクロ〉と〈フラグ〉、〈ヒール〉のみっつを同時に持っていれば、必ずどこかのパーティには入れるわけだし。

 そういう探索者も、ときには必要だよ」

〈フクロ〉と〈フラグ〉、そして、〈ヒール〉。

 どれも、迷宮に入るのに必須であり、ほとんどの探索者がどのうちのどれかを習得している、かなり一般的なスキルであった。

 水利のように、そのみっつをすべて習得している探索者は、特に初心者にはかなり珍しかったが。

 そう評した夏希自身は、〈フクロ〉は持っていても〈フラグ〉と〈ヒール〉は持っていない。

 それ以外の習得スキルはすべて戦闘用という、根っからのアタッカータイプだった。

「それよりも、気になるのは、あの子の場合……」

 夏希は、そう続けた。

「……あくまで見た範囲での感想になるけど、一度も、自分ではエネミーに攻撃を当てていないんだよね。

 信条なのか、それとも、単に自分のせいで血を流すのことに過剰に忌避する感情でもあるのか。

 どっちなのかまではわからないけど、どちらにしろ、そういう優しすぎる人種は探索者にはむかないと思うんだけどなあ。

 誰だって、いざというときに至ってもエネミーを傷つけることに躊躇する探索者に、背中を任せられないでしょう?」

 そういってから夏希は、

「いや、あくまで本人の問題なんだけどさ。

 ただ、このまま続けていくつもりなら、あの子はかなり苦労するんじゃないかなと、そう思ってね」

 とも、つけ加えた。


 一陣忍と双葉アリスの二人は、水利がスキルを習得するのと前後してショット系のスキルを何種類か習得していた。

 ショット系のスキルは、一撃の威力は劣るものの、属性つきの攻撃が可能となるスキルで、使いこなせるようになれば連発も利く。

 比較的手軽におぼえられることと、それにフェイントやデバフ効果があるもの多く、さほど攻撃力がないのにも関わらず、後々まで使えるスキルであるとされていた。

 ふかけんではまず最初に初心者におぼさせたい攻撃スキルとして、このショット系のスキルを推奨している。

 サンダーショットをおぼえたばかりの忍は、このままショット系スキルを充実させていくことを決意し、同時に近接戦闘系の攻撃方法を身につけたいとも考えて、白泉偉に声をかけて適切な道場を紹介して貰った。

 迷宮内で習得できるスキルのみに頼り切っていると、とっさのときに体が反応しないことがあると先輩方から聞かされていたし、実際、幼少時から薙刀を嗜んでいた藤代葵の例もあるように迷宮の外でなんらかの武術をかじっている探索者も決して珍しくはなかった。

 偉が実際に忍に紹介してくれたのは、古色蒼然とした武道系の道場を漠然と想像していた忍の予想に反して、スポーツチャンバラを楽しむ某市民団体であった。


「一陣さんの場合、今から型に囚われたものをおぼえるよりも、スピード勝負でとにかく相手の攻撃に反応できるようにする方が手っ取り早いと思うんだよね」

 とは、紹介してくれた偉の弁である。

 偉は、一般的な武道というものが短期間のうちに習得しやすいものではないということを重々弁えていた。

 実力を発揮できるようになるまで、短くて数年、長ければ十年以上の歳月を必要とする世界なのだ。

 それよりは、もっとフランクに手を出せる分野に入っていた方がより実践的であると、偉は、そのように判断した。

 幸い、中学高校と卓球部に所属していた忍は体力や運動神経、動態視力などにはそこそこ自信があった。


 半信半疑ながらも偉に紹介されるまま、スポーツチャンバラとかいう競技をやってみると、初回はまるで相手の攻撃に反応できないままに終わった。

 初心者だから、とかそういうことではなく、小学生の子どもにまでいいようにあしらわれたのである。

 スポーツチャンバラとは歴史が浅い競技であり、剣道などと比べると攻撃の型もあまり固定化されていない。

 ラフな印象もあったが、実際にやってみるとかなりきつかった。

 なにより、偉も指摘していたように、スピードが、忍が想像していたのとまるで違う。

 このスピードに慣れてくれば、少しはなにかが掴めるのかな、と、忍は思った。


 一方、忍ほど体力や反射神経に自信がない双葉アリスは、まずは遠距離攻撃が可能なショット系のスキルを極めようとしていた。

 物陰から、相手の攻撃が届かない距離から一方的にエネミーを叩くことができる遠距離攻撃系のスキルは、臆病であることを自認するアリスの性格にもあっている。

 最終的には金城革先輩や早川静乃のような強力なスキルを習得したいところではあるのだが、まずはもっと身近なショット系からおぼえていこう。

 攻撃力のなさでは定評のあるショット系スキルではあったが、状況に対応して属性攻撃を使い分ければそれなりの戦力にはなるはずである。

 ある意味では、このアリスこそが、足踏みしている草原水利や自分の好みに賭けている一陣忍よりは堅実な戦略を採用している、ともいえた。

 決して無理をせず、手の届く範囲から着実にできることをしているのだ。



 そうして、ふかけんに残っていた新入生たちがそれぞれの方法で探索者としての道を模索しはじめた矢先に、秋田明雄負傷の報が届いた。

 秋田明雄は、探索者登録に必要な費用をその場で工面できなかった関係で五月に入ってから研修を受けていたのだが、その実習の際、変異体エネミーに遭遇して、片足を脛の半ばから切断された、という。

 重傷ではあったが、応急処置が適切であったことと切断面が比較的きれいであり、持ち帰った欠損部位を再接合するのに都合がよかったこと、それに周囲にヒール持ちがいくらでも居る環境であったことが幸いして、大事には至らなかった。

 明雄程度の負傷は迷宮の界隈では日常茶飯事であり、医療関係者の方も対応には慣れている。

 基本、生還できさえすればその程度の負傷ならどうにかなってしまうのが、探索者の世界であった。

 本当に怖いのは、最初にパーティ内の〈フラグ〉持ちが潰されるなどの事情によって迷宮から外に帰ってこれなくなる場合なのだが、これについてはいずれ改めて詳述する機会もあると思う。


 この秋田明雄負傷の報は、当然のことながら新入生たちに大きな動揺と衝撃をもたらすことになった。

 迷宮内での負傷、あるいは死亡事故。

 確率としては、いつ自分自身に降りかかってきてもおかしくはないと説明されていたのだが、実際に身近な人間にそれが起こるとなると、切実さが違ってくる。

 この事件を機会にふかけんを正式に辞める者、保護者の反対にあって不本意ながらも探索者としての活動を辞める者が新入生の中から続出した。 

 不可知領域探索公社は、未成年の探索者に関して保護者の同意書を提出することを義務づけていたし、十八歳以下の探索者に関しては、迷宮に入る際、同じパーティ内に成人の探索者が入っていなければならない、とも規定している。

 つまりは、いくら本人がやる気があっても、保護者の承諾を抜きにして探索者として活動を続けることは不可能であり、ここで多くの新入生たちがふかけんから脱落した。



 水利自身は前述の経済的な理由でふかけんの活動を辞める選択肢ははじめからなかったのだが、意外なことに一陣忍と双葉アリスも居残り組に入っていた。

「実は親類に探索者の方がいまして」

 と、アリスは説明してくれる。

「とはいっても、資格を持っているだけで最近ではあまり迷宮に入っていないようですが。

 とにかくその方の口添えがあって、どうにか両親も納得してくれました」

「うちは、基本的に放任だからなあ」

 忍はそういった。

「例の件もニュースで知っていたみたいだけど、ふーん、で終わり。

 一応、あんたも気をつけなさいよとはいわれたけどね」

 家庭それぞれの方針というもかなり違うのだな、と、水利は思った。


 一陣忍と双葉アリスという、新入生の中でも自分に近い位置にいる二人がスキルを習得し、それぞれの方針を決定してさらに先に進もうとしていている様子を目の当たりにしている草原水利は、この頃から焦り感じはじめていた。

 戦闘系のスキルがまるで生えてこない。

 というよりも、攻撃をエネミーに当てることができない。

 そろそろ、角川夏希がそうであるように、この水利の性質に薄々感づきはじめている者が増えはじめている。

 それでも、〈フクロ〉と〈フラグ〉、〈ヒール〉のスキルを持っていさえすれば、必ずどこかのパーティには入ることができる。

 あぶれることはまずないということであったが……それでも、「エネミーを直接攻撃できない」という事実は、探索者としてはあるまじき欠陥ではあるのだ。

 悩んだ末、水利はまず早川静乃に、そのことを相談してみた。

 この頃には水利たち新入生たちもハクゲキスイギュウ程度のエネミーにはどうにか対応できるようになっており、定期的に狩りにいっては静乃のコネで紹介された業者に卸すまでになっている。


「……うーん」

 一通り水利の心配について聞いたあと、静乃は頼りのない答え方をした。

「自分ではエネミーを攻撃できない、ねえ。

 でもさ。

 それで水利は、なんか困ること、あるの?」

「困ること、って」

 こうした反応を予想していなかった水利は、絶句した。

「だって、探索者として、それでは」

 あまりにも、不完全でしょう、と、続けるところだった。

 その途中で、静乃は水利の顔の前に手のひらを広げ、発言を遮る。

「いいたいことは、なんとなくわかるけどさ。

 一口に探索者ってっても、タイプはいろいろだよ?

 別に、エネミーへの攻撃能力を他のパーティメンバーに全面的に依存する探索者がいても、それはそれでアリだと思うけど」

 すべての探索者がエネミーへの攻撃能力を持っていなければならない、とかいう固定概念を静乃は持っていない。

 かえって静乃は、水利が懸念の深刻さをうまく想像することができないでいた。

「だって、〈フクロ〉、〈フラグ〉、〈ヒール〉のみっつをすべて持っている探索者なんて、滅多にいないよ。

 あぶれることはないどころか、どこのパーティでも歓迎さえるよ。

 引っ張りだこだよ」

「それでは」

 水利は反論した。

「他のパーティメンバーの人たちすべての手がふさがっているときに、想定外のエネミーに襲われたときは?

 わたしが、そのエネミーに対抗できないでいるために、そのパーティが壊滅するような可能性が絶対にないといい切れますか?」

「……あう」

 そういわれて、静乃は絶句した。

 これまで、顔見知りばかりとパーティを組むことが多く、しかも実力的にかなり楽に倒せるエネミーを相手にすることが多かった静乃にとっては、そこまで切羽詰まった状況というのがなかかな想像できないのだ。

「ごめん。

 多少でもいいから、やっぱり攻撃能力はあった方がいいかも知れない」

 しばらく考えた末、静乃も水利の意見に賛同する。

「まあ、最低限、自分の身を守る程度には、ね」


 相談相手が悪かったのか、あまり身のある結論が出なかったわけだが、どう考えても少しでも早いうちに、水利も攻撃用のスキルを習得しておくのがいい。

 その事実だけは、どうにも否定できないようだ。

 水利はスキル抜きの身体能力だけでエネミーに対抗できるとは思えるほど、自分の能力を過剰に信頼していない。

 それではどうするのかとつらつら考えた末、水利は単独で迷宮に入ることを決意した。

 いくら初心者といっても、水利もこれまで百時間以上、迷宮内で過ごしている。

 その間、それなりに経験値も溜めており、相応に基本能力も伸びている。

 五階層よりも浅い場所に出没するエネミーでなら、水利単独でもどうにか対抗できるのではないか。

 仮にやばそうな場合は、すぐに〈フラグ〉を使用して帰還すればいい。


 これは別に水利が自分だけで思いついたアイデアというわけではなく、最近新入生の間で噂になっていたある探索者の方針を真似たものだった。

 さらにいえば、同じような方法は昔から誰もが一度は思くのだが、たいていはすぐにその危険性に気づいて実行するまでには至らずに終わる。

 仮に実行をしたとしても、単独行動のリスクを度外視しても作業面での単調さや非効率性からすぐに根をあげるのが常だということだった。

 ただし、その噂になっている探索者は、どんな事情があるのか知らないが、探索者登録以来から一貫して、徹頭徹尾ソロで活動しているという。

 そんな酔狂な真似をする探索者は滅多にいなかったから、一部の探索者の間で注目され、生暖かく見守られているようだった。

〈スライム・キラー〉というあだ名まであるとか。

 その〈スライム・キラー〉を真似たのかどうか、白泉偉や野間秀嗣も講義がはじまる前の早朝の時間帯を利用して、単独で迷宮に通いはじめたという噂があった。

 あの二人がやっているのならば、わたしも。

 といった具合に、草原水利はソロで迷宮に入る決心をしたのであった。


 単身で迷宮に入るのは、水利にしてもこれがはじめてのことになる。

 迷宮の白々とした壁面は、いつもと変わらずかすかな燐光を放って行く先を照らしていた。

 水利自身も、実際に迷宮に出入りする前は、ここが暗くて狭い通路が交錯する、洞窟のような場所であるとイメージしていた。

 しかし、実際には道幅も二十メートル以上はあって、天井もかなり高く、壁面や床、天井がかすかな燐光を発している、かなり開放的な印象の空間だった。

 空気も、外よりはよほど湿度が低く、しばらくするとすぐに喉が乾くほどである。

 不自然なほどに清潔で、そして影がほとんどできないこともあり、かなり人工的な環境であるという印象を受けていた。

 実際、この迷宮の環境は、人為的なものであるという学説があるらしい。

 何者かが、おそらくは人類以外の知性体が、なんらかの目的で構築した環境であるという。

 国内ではそうでもないのだが、国外ではこの迷宮の存在こそ創造主が存在することの証であるとする、いわゆるインテリジェント・デザイン仮説を補強するための証左として挙げられることが多いという。

 水利自身も、この迷宮は自然の造形物というよりは、やはり何者かが意志を持って造成したという説を信じている。

 その何者かが、この宇宙を一瞬で製造した創造主とどう同一の存在であるとまでは思っていなかったが。

 とにかく、単独で入った迷宮の、人間にとっっては不自然に大きすぎる空間は、水利の目にはいつもよりさらに空虚なものに映った。

 こんな、無駄に広い空間を、一体、誰がなんの目的で作ったのか。

 そんなことは、水利の想像の外にあったが。

 水利はこのとき、

「あ。

 これは、人間のための場所ではないな」

 という感慨を、今さらながらに抱いた。

「巨人のための、回廊だ」

 と。

 そのサイズといい、不自然なまでに白々とした影のない空間といい、迷宮の中では自分のような矮小な人間の方が場違いなのだ。

 普段、仲間たちと迷宮にはいるときはそんなことを考えたりしないのだが、普段とは違ってはなし相手がいないこともあって、このときの水利は柄にもなくそんなことを考えたりする。

 いつまでも突っ立ているわけにもいかないので、その巨人用の回廊を、水利は先へと進む。

 迷宮の通路は、意外に直線が多い。

 数百メートル単位の一本道は普通にあるし、ときには何キロも進まなくては次の曲がり角にぶつからない、などということもざらだった。

 迷宮という語感から来る一般的なイメージとは違い、迷宮の中は、人間の感覚でいうとかなり広大なのだ。

 だからこそ、全高が十メートル以上もある巨大なエネミーも不自由することなく往来できるわけだが。

 水利たち探索者が、そうした巨大な迷宮でも特に困らないのは、少し経験を積みさえすれば累積効果によって体力や走る速度もすぐに倍増していくからだった。

 特に視界がよい開けた場所では、探索者たちは意外に小走りで移動していたりする。

 そうした移動の際、探索者たちの主観では「小走り」で済んでいるのだが、客観的に見ればかなりの速度が出ているはずなのだが、走力と同時に体力まで強化されている迷宮内の探索者たちはそんな細かいところにまで頓着しない。

 このときの水利も、軽やかな足取りのままかなりの高速度で迷宮内の通路を駆け抜けていた。

 外での水利は、普段、運動などほとんどせず、走るのも苦手ならいつまでも走り続ける体力など持ち合わせていない。

 しかし、迷宮の中ではすべての事情が違ってくる。

 水利は、息ひとつ切らすこともなくいつまでも走り続けた。


 その水利が、不意に足を止める。

「いた」

 誰にともなく、そう呟いた。

 遠くに、二百メートル以上は先の床面に、なにかが蠢く気配がした。

 床面とほぼ同じ色の毛皮をしているので見分け難いのだが、大きさからいってあれは第一階層から出没するハネネズミというエネミーだろう。

 何度もそのハネネズミと遭遇していた水利にしてみれば、見間違えるはずもなかった。

 距離があるため、水利の存在にまだ気づいていないのか。

 それとも、気づいた上で、この距離ならばまだ脅威にならないと判断しているのか。

 とにかく、そのハネネズミは、まだ安心しきっていて、逃げる様子もない。

 水利は素早く腰のベルトに刺していたスリングショットを取り出し、ポシェットから直径一センチほどの鉛玉をゴムに装填して構えた。

 このゴムも探索者の筋力ではじめて引くことができる、かなり戻りが強い特製のゴムになる。

 このスリングショットの平均有効射程はせいぜい二十メートルほどで、扱いに熟練した探索者ならば五十メートル先の標的に命中させることも可能だというのだが、水利自身はそこまでの技量は持たない。

 できるだけ近づいて、命中させる。

 そう決心をして、スリングショットを構えた水利はハネネズミの方に近づいていった。

 水利の腕では、十メートル以内に近づいても命中させることができるかどうか、怪しいくらいなのだ。 

 ハネネズミとの距離が、五十メートルを切った。

 そのハネネズミはすでに水利の存在に気づいているようで、こちらの方を凝視したまま、しかし逃げもせずにその場で待っていた。

 なにを考えているんだ。

 と、水利は思う。

 逃げるにせよ、むかってくるにせよ、こちらの存在に気づいているのなら、さっさと行動に移せばいいじゃないか!

 そう思いつつも水利はスリングショットを構えながら、さらにハネネズミとの距離を詰める。

 三十メートル。

 二十メートル。

 ハネネズミは、まだ動かない。

 その方が、水利にとっては都合がいいわけだが、なぜかいつまで経っても動かないハネネズミに対してこの頃から水利は奇妙ないらだちをおぼえるようになった。

 ハネネズミと距離が十メートルを切り、この距離あるならば、水利であってももはや標的を外すことはない。

 水利は改めて深呼吸をして気分を落ち着かせて、ゴムを引いていた利き手の指を放す。

 鉛玉が放たれてからも、そのハネネズミはきょとんとした顔をして水利のことを見返していた。

 このくらいの距離になれば、標的のハネネズミのことも、水利の目からはかなり細部まで判別できるようになっている。

 スリングショットから放たれた鉛玉は一瞬で十メートルの距離を詰めて、ハネネズミの左後肢の根本に着弾した。

 スリングショットのゴムによって発生した運動エネルギーはそれなりに強力で、鉛玉はハネネズミの後肢を半ば引きちぎるような勢いで貫通する。

 ぎきぃ!

 と、ハネネズミが悲鳴をあげてその場にもんどりうって倒れた。

 しまった、と、水利は思う。

 水利としては体幹部を狙ったのだが、わずかに狙いが逸れてしまったらしい。

 一撃で仕留めることは適わなかったが、それでもそのハネネズミの移動力は大きく損なわれているわけで、水利はすぐに第二の鉛玉をスリングショットに装着して構えた。

 ハネネズミは、ぎきぃ! ぎきぃ! と鳴き声をあげならが、残った右後肢を使ってどこかに移動しようとするのだが、焦っているのと片脚だけで移動することに慣れていないのとで、バタバタと半径一メートル以内の周辺をいたずらに跳ね回っている。

 チャンスだ。

 水利は思う。

 仕留めることはできなかったが、ともかくエネミーに自分の攻撃を届かせることはできたのだ。

 あと一息。

 おそらくは、あと一撃で、水利は不完全な探索者から完全な探索者へと脱却することができる。

 水利が慎重に狙いをつけて、鉛玉を放そうとしていたそのとき。

 予想外の乱入者が、水利の視界を遮った。

 夥しい数の、数十という空を飛ぶエネミーが、手負いのハネネズミに群がっている。

「なっ!」

 こうした乱入者をまるで想定していなかった水利は、一瞬、頭が空白になった。

「なにをっ!」

 そして、次の瞬間には怒気を込めて叫んで、構えていたスリングショットから鉛玉を放つ。

 狙いを定めたわけではないのだが、空飛ぶエネミーのうちの一体に命中したらしく、シロコウモリが弱々しく羽ばたきながら床面に落下していく。

「わたしの獲物を、横取りするなあっ!」

 水利は素早くスリングショットを〈フクロ〉の中に収納し、変わりに二メートルほどの金属製の棒を取り出す。

 水利はこれまでに使う機会に恵まれなかったのだが、念のために用意してあった、初心者むけの近接戦用武器だった。

 その金属棒を滅茶苦茶に振り回しながら、水利はシロコウモリの群れに突進していく。


 次に水利が我に返ったとき、周囲にはシロコウモリの死体がいくつか転がっていた。

「……あ」

 自分が殺めたのだということに気づき、水利は愕然とする。

 そもそも、今回迷宮を入ったのはこうしてエネミーを自分の手で仕留めることが目的なのであり、別に驚く必要も衝撃を受ける必要もないのだが、このときの水利はそのふたつの心理的な打撃に打ちのめされた気分だった。

「……そんな。

 わたし、が……」

 水利は掠れた声でそんなことを呟きながら、シロコウモリの死体を拾いあげて、手に取る。

 そのシロコウモリは完全に事切れていたようで、胸部も動いていない。

 水利の手の中で、徐々に体温を失って冷えていく感触があった。

「わたしが。

 わたしが!」

 小さな声で呟きながら、水利はそのシロコウモリの体を床の上にそっと置き、なにかを捜しはじめる。

 なにかを?

 なにを?


「いたっ!」

 水利は涙声でそう叫び、ようやく見つけたまだ息のあるエネミーを見つだした。

 最初にみつけたハネネズミと、それに、最初に負傷して床に落ちたシロコウモリ。

 その、水利自身が傷つけたニ体が、最初の負傷以外は無傷の状態で床に放置されていた。

「えっと。

 治療。

 ……そうだ!

 ヒール!」

 水利は、いつものようにそのニ体のエネミーに〈ヒール〉をかけるのだが、なにも変化は見られなかった。

 基本的に〈ヒール〉は、同じパーティの構成員にしかかけることができない。

「お願い!」

 水利は叫ぶ。

「わたしをパーティメンバーだと、仲間だと認識して!」

 身勝手な要望だということは、水利自身も重々承知していた。

 なにしろ、このニ体を傷つけたのが他ならぬ水利自身なのだ。

 矛盾していると自分でも思うのだが、水利はそうせずにはいられなかった。


 何度もそのニ体のエネミーに対して〈ヒール〉を使用し、そしてそれに成功したとき、水利は〈テイム〉というかなり珍しいスキルを習得していることに気づいた。

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