03. 新入生たち

 別に新入生たちが全員、静乃たちのように最初から迷宮に入ることができるわけではない。

 迷宮への出入りは不可知領域管理公社によって厳重に管理されており、探索者としての登録を済ませていない者は立ち入りができない制度になっている。

 この探索者登録を済ませていない新入生たちも少なからず存在していて、その未登録の新入生たちはその場で探索者登録を行うための手続きをするものと、その登録作業に必要な費用を工面しようとする者とにわかれた。

 探索者として登録する際には初期の装備代も込みでざっと二十万円から三十万円前後の費用が必要であり、この費用をさっとその場で都合できるか否かは新入生それぞれの経済事情による。

 実家が比較的裕福な者はすぐにその足で自宅近くの、あるいは目黒キャンパスから最寄りの迷宮にむかって登録に必要な研修の予約を行った。

 そうでない者は、バイトなどの手段で自力で必要な工面をするしかない。

 北関東の片田舎から出て先に上京していた姉のマンションに転がり込んでいる秋田明雄などは、この自力で登録費用を工面する必要がある新入生に属する。


 秋山明雄は高校卒業から大学入学までの空白期間を利用して運転免許を取得していた。

 その際に高校時代にせっせとバイトで稼いだなけなしの貯金もおおかた吐き出している。

「まさか、探索者なんておいしい商売があるとは思わなかったもんなあ」

 とか、明雄はぼやいた。

 迷宮内に入って一攫千金を狙う探索者の存在は今では世界中で知られているわけだが、迷宮自体がほとんど東京近郊にしか存在しないため、まさか自分でもその探索者になれるものだとは思わなかったのだ。

 西部劇でお馴染みのカウボウイという職業は厳然として実在するのが、平均的な日本人の大多数がまさか自分自身もそのカウボウイになれるものとは本気で思わないのと同じように、明雄にとっては探索者という職業はそれだけ非日常的な、まるで絵空事の中にのみ存在であるかのように認識していた。

「流石は、東京」

 妙なところで、明雄は感心している。

 少々の危険は伴うものの、勤務時間は自分で決められる上、学業との両立も可能であり、しかも並の学生バイトよりは格段に高収入であるという探索者業は、明雄にしてみれば夢のような条件だった。

 明雄は就職してから資金援助をすることと引き換えにこの春から姉のマンションに転がり込んでいるわけだが、渋谷かどこかのショップで古着売りをしているとかいう明雄の姉は、当然のことながらこの弟との同居を快諾したわけではない。

 いくら姉と弟とはいえ、狭いマンションで成人の男女が同居することは、血を分けた身内であればこそ気まずい局面が多々あり、探索者として活躍して実入りがよくなれば明雄はすぐにでも新しい賃貸物件を探して姉と別居するつもりだった。

「さて、そのためには」

 蝶ネクタイを絞めた明雄はバイト先のロッカールームに備えつけの鏡をのぞき込んだ。

「稼がないとね」

 二十万。できれば装備代と込みで余裕を持って、三十万は欲しい。

 それだけの初期費用をどうにか工面しなければ、なにもはじまらない。

 そのため、明雄はあらゆる媒体のバイト情報を漁り、結局水商売を選択した。

 現場仕事でも良かったのだが、郷里で先輩方に聞いたところではなんの資格も経験もない学生が飛び入れで稼げる金額はたかが知れているということだったので、明雄はあえて夜の仕事を選択している。

 勤務時間が講義の時間とかぶらないし、それに運が良ければ客からのチップなども期待できるということだった。

 しばらく様子を見て期待したほど稼げないということになったら、昼間にできる仕事も掛け持ちすればいい。

 まだ若く体力にも自信がある明雄は、

「自分なら、それくらいのことはできる」

 と確信していた。


 ふかけんに入会したあと、すぐに探索者登録に必要な手続きを行った者に草原水理と一陣忍、双葉アリスなどがいる。

 実家が裕福であったりたまたま自身の貯金が必要な金額を所持していた者たちだった。

 とはいえ、彼らもすべてにおいて円滑に進んでいたわけではなく、まず登録に必要な講習の予約を取るのが意外に大変だった。

「ああ。

 そりゃ、時期が悪いわな」

 新入生たちの相談役を引き受けている徳間先輩は、そううそぶく。

「春先はさ、混むんだよ。

 お前たちのような新入生たちでさ」

 春休みや夏休み、それに先末年始のまとまった長期休暇の時期には、公社が開催している講習はすぐに予約で一杯になってしまうのだという。

 迷宮に付属している施設で公社が行う講習以外に、認可を受けた民間企業が行っている講習を受けることで登録者として登録を行うことも可能なのだが、この民間企業経由の登録は費用的に割高になる上、講習内容も雑であることが多く、一般的にもあまりいい印象がないと徳間先輩は説明してくれる。

「都心に近い迷宮や交通の便がいい迷宮はすぐに予約がいっぱいになるからな。

 急ぐのなら少し死を伸ばしてあまり人気のない迷宮で講習を受けるのもアリだな」

 などと、徳間先輩は勧めてくれた。

 その分、移動の時間と運賃が必要となるわけだが、逆にいえばその程度の不便を我慢しさえすればすぐにでも講習を受けることが可能である、というわけだ。

 彼ら講習を受ける必要がある新入生たちは慌ててネットで情報を漁り、適切な迷宮を探しはじめる。

「いくら都心から離れたところといっても、所沢や印旛沼まで出て行くのは大変だよな」

「適度に外れで、それに人気がなさそうな迷宮となると」

「交通の便以外にも、周辺の環境や設備の充実度なんかも関係してくるんじゃ?」

「ええっと、つまり」

「ここなんかよさそうじゃない?

 一応都内だけど、かなり寂れていそうだし。

 河川敷の中にある迷宮だから、周りにはなんにもないし」

「予約状況は、っと。

 おお、見事に空いている」

「ここからだと、どれくらいかかる?」

「地下鉄だと三田で乗り換えで、四十分かかるかからないかくらいだね」

「山手線で新橋まで出て、そこから都営地下鉄に乗り換えるルートもある。

 時間は……やはり、四十分前後か」

「思ったよりも近いね」

「それじゃあ、ここでいいね?

 申し込んじゃうよ?」

 正式な申し込みをするのは講習に必要な費用と引き換えに公社の窓口ですることになるわけだが、探索者登録講習の予約はネット上でも可能である。



「おらおらっ!

 てめえら、トロトロしてるんじゃねえ!」

 城南大学目黒キャンパスに怒声が木霊した。

 城南大学にも体育会系のサークルはいくつかあり、特に春先には上級生を新入生がしごく光景がよく見られる。

 しかし、ふかけん、つまり不可知領域研究会なるサークルが体育会系に属するかどうかは意見が分かれるところであった。

「とくにそこのデブ!

 歩いているんじゃねえよ!

 そんなんだったら転がった方がはええよ!」

 先ほどから罵声をあげているのは一橋喜慶。

 百八十センチを越える長身にボディビルダーのように鍛えあげられた体躯、浅黒く日焼けした顔があ特徴の、ふかけんの仲間内では「軍曹」と呼ばれている三回生であった。

 この喜慶はふかけんの中でも「ガチ勢」と呼ばれる迷宮の深層探索に熱心な一派に属しており、一応ふかけんい所属してはいるものの、あまりふかけんの行事には参加しないことで知られている。

 当然、下級生の面倒を見るなどという面倒な仕事を率先してやるタイプでもないのだが、新入生の体力づくりに関しては例外的に熱心に協力していた。

 将来有望な、つまりはガチ勢に組み込めそうな人材を早期発見するためだという噂もあったが、それでも自分でこれと見込んだ者関しては、それなりに面倒見がいいようだ。

「おい!

 そこの小さくて細いの!

 そう! お前だ!

 お前、なんという!」

 喜慶はある一年生を呼び止めた。

「白泉偉といいます」

 女性と見まがうほどの小柄で華奢な体格をしたジャージ姿の一年生が、足を止めて名乗った。

 息切れひとつしていない。

「しらいずみおおい、か。

 変わった名だな」

 喜慶はそういってなにやらしきりに頷いている。

「それで、白泉。

 お前、なにかスポーツをやっていたのか?」

「スポーツといいますか、親や親類に護身術を少々」

 偉は平然と答える。

「親の都合で、去年まで海外にいましたもので」

「そうか。

 白泉は帰国子女なのか」

 喜慶は、また頷く。

「護身術というと、合気道かなにかか?」

「まあ、そんなようなものです」

 偉は、具体的になにを習っていたのかこの場では明かさなかった。

「演舞か型か、そんなようなものをこの場でできるか?」

「ここで、ですか?」

 喜慶の問いかけに、偉は困惑した様子を見せた。

「ここでは、ちょっと。

 そういう派手な真似をお見せするような流派でもありませんもので」

「そうか」

 喜慶はそれ以上追求せず、あっさりと偉を解放する。

「時間をとらせて悪かったな。

 お前の動きが一番こなれていたように思えたのだが」


 もうひとり、喜慶が注目した新入生がいた。

「ほっ。ほっ。ほっ」

 短距離走のような勢いでキャンパス外周を駆けていく、秋田明雄だった。

 白泉偉のような無駄のない、洗練された動きではなかったが、勢いと持続力がある。

 先天的に、体力や瞬発力に恵まれている体質なのだろう。

 明雄の動きは、どの新入生よりも目立っていた。

 明雄のそうした様子を見て、喜慶は、

「あいつもよさそうだな」

 と目をつける。

 ああいう迷いがないタイプは、迷宮内でもなにかといい働きをすることが多い。

「おい、そこの茶髪。

 そう、お前だ」

 そして明雄が近くに来たとき、喜慶は早速声をかけた。

「お前、名は?」

「ええ。

 秋田明雄といいます」

 明雄は即答する。

 流石に息が弾んでいた。

「お前、なかなか見所がありそうだな」

 喜慶はすぐに本題を切り出した。

「もう登録は済んでいるのか?」

「いえ。

 恥ずかしながら、まだ講習に必要な費用が工面できないものでして」

「そうか」

 喜慶はあっさりと頷く。

「それでは、登録が済んだらおれのところに連絡してこい。

 おれたちのパーティで直々に鍛えてやる」

「そういつはどうも。

 よろしくお願いします」

 明雄はいそいそとスマホを取り出して、喜慶と連絡先を交換する。



「おう。

 今年もまたやっているなあ」

 空き教室の窓からキャンパスを見おろしていた徳間隆康が喜慶の様子を確認してそんな感想を述べる。

「あいつも、懲りないねえ。

 でも流石に、今年は女子には声をかけていないか」

「去年は確か、角川姉妹に声をかけてさんざんな目にあっていましたからね」

 そばにいた金城女子も、隆康の言葉に頷く。

 角川姉妹を取り込んだ喜慶のパーティは、半年も保たずに内部から分裂した。

 実際になにが起こったのか外部からはよくわからなかったのだが、その分裂劇以降、角川史緒に「パーティクラッシャー」などという不名誉な呼び名がついたことから、なんとなく想像はできる。

 意外と男女の恋情のもつれが原因で解散するパーティは多く、喜慶もあの分裂劇以降はパーティメンバーとして同性しか誘っていないようだった。

「まあ、あれで、喜慶も身内に対しては面倒見がいいからなあ」

 隆康はのんびりとした声を出した。

「別に悪いことをしているわけでもなし、しばらく放置してこう」

 喜慶に誘われた新入生にしてみれば、助けになることは確かなのだ。

「喜慶のあれは、独善的というんですよ」

 金城女子は、喜慶に対してより醒めた見方をしているようだ。

「自分の意に沿う相手に対してはとことん甘く、そしてそうでない相手にはとことん冷淡。

 結局、自分の都合しか考えていないんです」



「はぁ。はぁ。はぁ」

 ようやくキャンパス外周五周走を終えた野間秀嗣は即座に地面に寝そべり、荒い息をついた。

 ちなみにこの長距離走を終えたのは女子も含めてこの秀嗣がダントツの最下位である。

 全身が汗塗れの状態で寝そべって荒い息をついている秀嗣の様子は、お世辞にも見目麗しいものとはいえなかった。

「お疲れ」

 軽い声でいって、白泉偉は冷たいペットボトルを秀嗣の胸元に投げた。

 秀嗣は自分の胸元の上でバウンドしたペットボトルをようやく掴み、大儀そうに上半身を起こしてペットボトルのキャップを明け、ごくごくと喉を鳴らして飲む。

「随分ゆっくりだったね。

 走るのは苦手?」

「……苦手もなにも」

 ペットボトルの中身を半分以上飲み干してから、ようやく秀嗣は返答した。

「小生、走るのはおろか運動と名がつくものは一切苦手としております。

 なにしろ、この体ゆえ」

 秀嗣の背こそ高いものの典型的な肥満体型であった。

 それだけではなく、運動神経もかなり、鈍い。

 本人はあまり気にする性格ではなかったが、幼少時からいじめられることの方が多かった。

「その体だと、無理に走ろうとするとかえって膝を痛めるんだけどね」

 偉はなにげない口調で助言めいたことをいう。

「まずは、インナーマッスルを中心としたストレッチからはじめた方が効率的かな」

「白泉殿は、そうした方面に見識がおありか」

「偉でいいよ。

 見識というか、祖父がときどき公民館を借りて近所の子どもたちとかに教えたりしているんで、その関係で自然と」

「小生が教えを乞うたら、その見識をご教授いただけるであろうか?」

「ああ、うん。

 知っている範囲で構わないのなら」

 偉は、あっさりと秀嗣の提案を呑んだ。

「運動が苦手な人にもいろいろなタイプがあるんだけど。

 でも筋力とか心肺機能を強化するだけなら、誰にでも可能なんだよね。

 時間と、それに本人の意志は最低限、必要になるわけだけど」

「ちょっと、よろしいでしょうか」

 偉の背後から、二人の会話に割り込んできた者がいる。

「ついでに、といってはなんですが、野間さんだけではなく他の一年生にも教えていただけませんでしょうか?」

「……ええっと、藤代さん、だっだっけ?」

 振り返った偉は、葵の顔をみて一瞬、訝しげな表情になる。

 彼らは、すでに探索者登録が済んでいる新入生組として数日前にいっしょに迷宮探索を行っていた。

「葵で結構です」

「それでは、ぼくのことも偉で」

「それでは、偉。

 どうやらあなたには十分な素養がおありのようですから、希望する一年生に体の動かし方を教えていただけませんでしょうか?」

「ええっと……」

 偉は、少し思案顔になる。

「……別に構わないけど、なんで葵自身がやらないの?

 素養というのなら、葵も十分だと思うけど」

「わたしが幼少時から習ってきた薙刀術というのは、かなり特殊ですから」

 葵は淀みなく答えた。

「それに、こうみえてもわたし、他人にものをお教えする才能が欠けておりますの」


「高校まで部活とかで鍛えてきた人たちには物足りないかも知れないけれど」

 偉はそう前置きしてから、簡単な鍛錬法を紹介する。

 とはいうものの、そんなに大袈裟なものでもなかった。

 肩を何度も上げ下ろしする動作をしてから、深呼吸をしながら腹を凹ませる。

「ドローイングとか呼ばれているものだけど、普段あまり使うことがない体の内側を鍛える運動になります。

 これを毎日できるだけ数多く、反復して行ってください」

 確かに、時と場所を選ばすにどこでも行える運動なのだが。

「本当に、これだけでいいんですか?」

「まずは、これだけですね。

 これができるようになったら、今度はお腹を凹ませたままの状態でストレッチをしたり軽い運動をしたりします。

 まずはこれを継続して反復することからはじめましょう」

 実のところこれは、丹田とかチャクラとか呼ばれる場所を鍛えるための第一歩であるのだが、そうした知識については偉はあえて教えなかった。

 そのあと偉は脊椎の周囲にある筋肉をほぐすための、あるいは骨盤や大きな間接を柔軟にするためのストレッチ方を簡単に教えてその日は解散する。

 教えたことをどこまで忠実に実行し、自分のものにするのかはあえて各人の判断に任せることにした。

 偉にしてみれば教えてくれといわれたから、いわばお義理で紹介しただけであり、彼ら教えられた側がどこまで自分のものにできるかどうかまでは責任を持ちきれないのだった。


 ふかけんのトレーニングは、別に強制ではない。

 いやトレーニングに限らずふかけんの活動全般が、誰かが誰かに強制をするような性質のものではないのだ。

 ともあれ、秋田明雄は途中で他の新入生たちと別れ、着替えてからひとり姉が借りている武蔵小山のマンションへとむかう。

 そこでシャワーを浴びて身支度を整えてから、夜のバイトへ急がねばならなかった。

 どうやら有力そうな先輩にコネを作ることに成功したようだったし、なおさら探索者登録を急ぐ必要がある。

 明雄は自分の前に輝かしい未来が開けたことを予感し、高揚を感じていた。


 ふかけんの先輩方は、基本的にあまり親切すぎたりはしない。

 現に、新入生たちの面倒を積極的に見ているのは、ふかけんに登録している上級生のごく一部に過ぎなかった。

 それで人手が足りなくなって、新入生である早川静乃や藤代葵にまで声をかけて協力をしてくれるように声をかけてきている有様だった。

 ふかけんに限らず、探索者という人種は基本敵に利己的で、さらにいえば秘密主義的な傾向がある。

 自分の手口は容易に明かしたがらないし、自分自身に直接利益をもたらさない後輩の育成にわざわざ時間を割くような物好きは、そう多くはなかった。

 ふかけんに属してはいても実際にパーティを組んでいっしょに迷宮に入っている者がおなじ学内の者に限定されているわけでもなく、なにも知らない素人同然の者を好んで自分のパーティに招こうという者も皆無に近い。

 徳間先輩や金城女史、それに角川姉妹などはかなり特殊な例外であるといっていいようだ。

 彼ら後輩育成に熱心なふかけんメンバーは、現在も探索者登録が終わった新入生がある程度集まったとき、全員で迷宮に入ってレベリングと実戦を体験させていた。

 つまりは、すでにそうした先輩方の助力を得ていた藤乃たちは、自力で自分たちの面倒を見るしかなかった。

 実際的には、新入生のみでパーティを組んで迷宮内に入るしかない、ということになる。


「とはいっても、スケジュールとか相性の問題がありますからねえ」

 早川静乃は、そういった。

 適切な組み合わせでパーティを割り振るのは、これでなかなか難しい。

 どうせ最初は低階層をうろつくくらいしかできないのだから、人数さえいればそうそう危ない目に遭うことはないはずなのだが。

 だが、なにせ人間同士を組み合わせる作業であるわけだから、それ以外の要望を満たすのがなかなか難しかった。

 要望、というのは、要するに、

「あの人と組むのは嫌」

 などの選り好みのことなのだが。

「そんなの、割り切って強制にすればいいだけのことでは?」

 藤代葵は、そう意見した。

「まあ、最悪は、そうしなければならないのかあ、って」

 静乃は、そういって頭を掻いた。

「でも、できるだけ希望にそうようにはしたいんだよね」

 早川静乃と藤代葵。

 この二人は、探索者での経験を買われて、なし崩し的に新入生の世話役のようなことをしてしまっている。

 別にそこまで面倒を見るべき理由もないのだが、なんとなく、ずるずると続けていた。

「実際、今の段階では、まずは迷宮に慣れることが先決でしょうに」

 葵は、そういって軽くため息をついた。

 まだスキルもろくに生えていない段階でパーティメンバーの選り好みなど、百年早い。

 などと、六年間も部活で迷宮に潜っていた葵は、そんな風に思ってしまう。

 お嬢様然とした外見とは裏腹に、葵は意外と体育会系のノリなのである。

 葵にいわせれば、静乃は他人に気を使いすぎなのだ。

「それはそうなんだけど、さ」

 静乃は苦笑いを浮かべる。

 静乃にしてみても、葵がいうことはわからないでもない。

「でも、初心者だからこそ、最初の段階で迷宮を嫌いになって欲しくないって気持ちもあるんだよね」


 静乃と葵は時間が許す限り五、六人程度のパーティを組んで順番に新入生を引き連れて迷宮に入っていた。

 レベリングのためである。

 エネミーを倒すことに有利なスキルをすでに所持していた二人は、他の新入生たちの底上げを行うことが可能だった。

 実際に迷宮内での立ち振る舞い方に関しては、各人がそれぞれ迷宮に入って学ぶしかなかないのだが、経験値を得れば、なにかと余裕ができる。

 特に初期の段階でのいくらかでも余分な経験値を得られることは、かなり大きな影響を及すのだった。

 他のパーティメンバーの安全を確保する必要があるため、あまり深くは潜ることができないにせよ、静乃と葵は自分たちにできるだけのことをしていた。


 現在問題となるのは、静乃と葵が直接引き連れていくことができなかった面々のことである。

 一応、公社公認のものやふかけんが用意したSNSにはスケジューラも兼ねたパーティメンバー管理機能があるのだが、これがあまりうまく機能していなかった。

 最初は人見知り的な理由、つまり、よく知らない人とはパーティを組みたくないという理由によって尻込みし、ある程度顔見知りができて以降は、あいつとは絶対に組みたくない、などといい出す者がいる。


「人気なのは偉。不人気なのは秀嗣ですね。

 特に秀嗣は、女史には壊滅的に嫌われています」

 葵は、そんな身も蓋もない、いい方をした。

「秀嗣くん、いい探索者になりそうなのにな」

 静乃はそんな風に呟く。

 実は秀嗣は、今年の新入生の中で、一番最初にスキルを生やしている。

 迷宮内で戦闘中、使用していた盾をエネミーに破壊され、それでも身を挺して他のパーティメンバーを庇ったとき、戦闘を終えたら〈ヒール〉が生えていたそうだ。

「あの外見がネックになっているのですかね」

 葵は、秀嗣についてそんないい方をする。

 その巨体もさることながら、秀嗣はかなりの汗っかきであった。

 会うたびに、顔の全面をねっとりと濡らしていることも珍しくはない。

 本人もそのことに自覚的でハンドタオルを手放さず、ことあるごとに汗を拭うようにしているようだが……いずれにせよ、清潔感あふれる好青年とはいいがたかった。

「彼のよさは、放っておいてもすぐに広まりますよ」

 静乃は、秀嗣のことはあまり心配していない。

 自分の身よりもまず周囲の他人の安全を優先する秀嗣の資質がいかに得難いものであるか。

 そして、そうした資質が迷宮内でいかに頼りになるのか、迷宮内で経験を積めば積むほど骨身に染みるはずなのだ。


 今年の新入生の中で野間秀嗣に続いてスキルが生えたのは、白泉偉になる。

 とはいえ、このとき偉が獲得したのはパッシブ・スキルであったため、たまたま通りかかった金城女史が指摘するまで、偉自身もそのスキルを得たことを自覚していなかった。

 だから、偉がそのスキル〈体術〉を実際にいつの時点で獲得ていたのかは、誰にも明言できなかった。

 また、偉にしてみてもスキルの獲得前と獲得後の違いをあまり体感しておらず、事情を知る者の間では、

「これは追認スキルというやつではないか」

 とか、囁かれている。

 追認スキルとは、迷宮の外ですでに獲得していたスキルを迷宮が追認するようにスキルとして表示する場合の俗称である。

 公社などが正式に認めた用語ではないのだが、そうしたことが往々にあることは探索者たちの間では常識になっていた。


 その偉に続いて、スリングショットを常用していた新入生たちがばらばらと遠距離攻撃系のスキルを生やしはじめた。

〈ファイヤー・ショット〉や〈ライトニング・ショット〉など、属性を付与した、しかし遠距離攻撃系のスキルとしてはごくごく初歩的で威力の小さいスキルではあったが。

 それでも、一度生えたスキルは使い続ければ威力を増していくし、場合によっては派生的な別のスキルを生やすこともある。

 この先どこまで行けるのかは、スキルを獲得した本人の努力次第であった。


 ともあれ、新入生の中にスキル持ちがぼつぼつ現れたことによって、静乃と葵の気も一気に楽になっていった。

 なんといっても、新入生同士でパーティを作る際の制約が少なくなる。

 先にスキルが生えてきた者を中心にしてパーティメンバーを配置すれば、ほぼ問題は起きないようになっていた。

 入学してから探索者登録を終えた者たちも続々と入っていく来るなか、ふかけんの新入生たちはなかかないい具合に仕上がっていく。


 新入生の世話以外にも、静乃はふかけんの中で大きな仕事をひとつ、行っていた。

 食肉仲介業者への紹介、である。

「叔父さんと取引のあった業者さんを紹介するのは別に構わないんですが。

 でも……うーん。

 どうかなあ」

 最初、仲介を頼まれたとき、静乃は珍しくそんな風に言葉を濁した。

「なあ、頼むよ」

 徳間先輩は神妙な表情をして静乃に懇願する。

「エネミーの死体を食肉として捌けるようになれば、低階層にしかいけないやつらもそれなりに稼げるようになる。

 お前さん、ほとんどハクゲキスイギュウを専門に狩っていたんだろ?」


 エネミーとは、迷宮が生み出す疑似生命体であるといわれている。

 迷宮に入った人間に対して敵意を剥き出しにするという共通した性質以外にも、寄生虫や雑菌などがまるで付着しておらず、それどころか生物として必須な生殖能力さえ欠いているということがこれまでの研究で判明していた。

 子孫を作る能力がなく、まるでついさっき、迷宮内で人間が近づく直前にいきなり生成したかのような無垢な疑似生命体を、関係者たちはエネミーと総称している。

 では、探索者たちが倒したエネミーの死体はその後とうなるのかというと、そのまま放置してスライムの餌にする者、持ち帰って肉や毛皮、革皮なども有効活用する者など、これは探索者によって様々であった。

 仮に持ち帰ったとしても、損傷のいかんによっては到底食肉にはできず、動物園の飼料やペットの餌、それに肥料の原料などにしかならない場合も多い。

 当然、この場合に二束三文であり、たいした対価を得ることはできない。

 そのまま他のドロップ・アイテムといっしょくたに公社に売り払らう方が余計な手間が省けるくらいだった。

 別の場合、つまりあまり損傷が激しくなく、また、食材として人気のあるタイプの死体については、公社に売るよりは専用の業者に卸す方がいい。

 そうした迷宮産の食肉を専門とする仲介業者は大小あわせて多数あり、お互いに鎬を削っている状態だった。

 探索者から特定種類のエネミーの死体を指定して買い入れ、大手の外食チェーンやスーパー、コンビニなどにと取り引きしている食品加工業者などを中心にして卸している。

 迷宮内で産出した食肉は、国内はいうに及ばず国外にまで多く輸出されていた。


「いや、紹介したくないとは、いっていないんですよ」

 静乃は慎重な物言いをする。

「ただ、叔父さんとこと取引があったのは、ちょっと規模が小さな会社だったもんで」

「規模の大小で、なにか変わってくるのか?」

 徳間隆康は訝しげな顔つきになる。

「なんといいますか、大手のところとは違って、融通が効く分、探索者でしなければならない処理が大きくなります」

「処理?」

 隆康は口をへの字型に曲げて小首を傾げた。

「なんだ、そりゃ」

「百聞は一見にしかず。

 今度、少し時間をください。

 実地に見せてみましょう」


 数日後、白金迷宮の駐車場に二台の大型トラックが停まっていた。

 その二台のトラックの二台は、運転席の近くでカーテン状の物体で連結されている。

 片方は、どうやら荷台すべてが冷凍する専用車であるとようだ。

「やあ、静乃ちゃん。

 久方振りじゃないか」

「もう。

 先週、ウサギとスイギュウを引き渡したばかりじゃないですか」

「そうだったかな。あはははは。

 ここのところ忙しすぎて、おじさんよくおぼえてないや」

 片方の荷台の中で、静乃と中年男がそんな会話を交わしている。

 なんだ、これは。

 と、隆康は思う。

「それで、そっちのおっさんは?」

「見学者と思ってください。

 わたしが入った大学の先輩」

「ああ、はいはい。

 やっぱ、探索者?」

「そう。

 探索者」

「見学は、いいんだが。

 彼、大丈夫かい?」

「うーん。

 わかんない。

 それを確かめるために、見学してもらうっていうか」

「ああ、なる。

 そういう感じか」

 静乃と親しげに会話していた男は割烹着に似た白衣と布の帽子を着込み、マスクとゴム手袋、それにゴム長靴をはめていた。

 静乃にも同じような服と帽子、マスクと手袋、ゴム長靴を渡す。

「ほい、彼の分」

 隆康にも、同じものが手渡された。

「これ、着るのか?」

「他にどうするっていうんですか?」

 隆康の質問を、静乃は質問で返した。


「それじゃあ、静乃ちゃん。

 ちゃっちゃとはじめよう」

 二人が目を除いたほとんどの部分を手渡された衣服で覆うと、すぐに男がいった。

「はいはい」

 軽い調子で答え、静乃の前に唐突に巨大な肉塊が出現する。

 この駐車場は白金迷宮の影響圏内にあり、静乃が自分の〈フクロ〉の中からハクゲキスイギュウの死体を取り出したのだった。

「おお、相変わらず額を一発だね」

 男は、そんなことをいいながらハクゲキスイギュウの足に鎖を絡める。

 そして、天井部にあったレールの上にその鎖を渡し、ハクゲキスイギュウの巨体を持ち上げようとした。

 静乃も、その鎖にぶら下がって男に協力している。

「先輩!」

 静乃はいった。

「ぼうっとしてないで、手伝ってください」

「お、おう」

 隆康も慌てて近づき、鎖に飛びつく。

 三人がかりでハクゲキスイギュウを逆さに吊りあげ、固定する。

 ダバドバと大量の血液がスイギュウの額から噴出した。

 ハクゲキスイギュウの時間は静乃が〈フクロ〉の中に収納した時点で停止しているため、まだかろうじて心臓が停止しておらず、脈動にあわせて血液の出が良くなったり悪くなったりする。

 なんだ、これは。

 と、隆康は思う。

 正常な思考力が、完全に停止していた。

「それじゃあ、切るからね」

「はいはいー」

 そんな隆康には構わず、男と静乃はそんなことをいい合いながら、特殊な形状の刃物とノズルを構えている。

 男が、なんの躊躇もなくスイギュウの首に当てた刃物を引く。

 同時に鮮血が吹き出し、それまでとは比較にならないくらい大量の血液が流れ出て床を濡らす。

 床は血液を弾く加工がなされているらしく、大量に流出した血液はすべて運転席のある方向へと流れていった。

「いやあ、静乃ちゃんがしとめたやつはいつも新鮮で痛みが少なくて、こっちも大助かりだよ。

 こんだけ新鮮だと、バキュームもあまり必要なんじゃないか?」

「そんなことないですよ」

 静乃はいう。

「ほら、こんなに吸っているし」

 一般的にいって、血抜きは死後から時間が経過してないほど、楽に、完全にできるという。

 心臓の脈動が止まっているのいないのとでは、流出量に大きな差があるのだ。

「こんだけいい代物だと、今回もまたいい査定ができそうだな、っと」

 静乃がバキュームのノズルを構えている間に、男は長い針が飛び出た小さな機械を取り出して、その仮をスイギュウのそこここに刺した。

「ああ、これはねえ。

 等級を確認する機械」

 隆康の目線に気づいた男が、そんな風に説明してくれる。

「主に脂肪の含有量なんかをチェックするんだけどね。

 これの数値で肉の値段なんかも大きく変わってくるんだわ」

 ひとしききり、スイギュウのそこここに針を刺し終えた男は、今度はさっきとは別の刃物を取り出し。

 さっきのよりも、断然、刃渡りが長い。

「へへっ。

 ご開帳、っと」

 そういいって、男は、その刃物をスイギュウの下腹部から喉元にかけて、まっすぐ垂直に滑らせる。

 それから、無造作に腹を開いた。

 静乃が、その中にバキュームのノズルを突っ込んで必死になって血を吸い込んでいる。

「うちが卸しているのは焼肉店とかジビエの店とかが主になるんだけど、いずれにしろ新鮮なものなら内臓肉でも十分にいけるんですわ。

 この鮮度なら、レバーでもなんでも生でいけますぜ」

 そんなことをいいながら、男は手慣れた挙動でスイギュウの中から内臓を取り出しては傍らにある保冷箱に入れていく。

 うわっ。

 と、隆康は思う。

 隆康とて長年探索者として働いてきた男である。

 多少の流血沙汰には免疫がある……つもり、だった。

 しかし、これは……。

「あ。

 吐くんなら、外に出てからにしてください」

 隆康の顔色が変わったのを目聡く認めた男が、 隆康にそんなことをいう。

「そんで、外で吐いたらそのまま、この中には戻ってこないでください。

 なにせ食品を扱う仕事なもので、衛生には重々気をつける必要がありまして」


 隆康は駐車場の隅まで慌てて移動し、そこで盛大に吐いた。 


「とまあ、こんな感じで解体作業をお手伝いしなければならないわけですよ。

 わたしの伝手でお肉を売るとなると」

 しばらくして、所々に血糊がついた白衣を着たままの静乃が、荷台の外に出てきてきた。

「こちらも手伝う分、色をつけてもらいますし。

 それになにかと融通も効かせて貰えるんですけど」

 あっけらかんとした口調だった。

 おそらく静乃にとっては、この解体作業も日常の風景なのだろうな、と、隆康は思う。

「よく、理解できた」

 隆康はいった。

「今後、エネミーの肉を売りたいやつは、早川に直接連絡するように通達する」

「うん。

 それでいいと思います」

 静乃も、隆康の言葉に頷く。

「先輩、もうお帰りになります?

 だったら、これお土産に持って行きません?」

 静乃はそういって小さなクーラーボックスを取り出す。

 傷がついたり形が悪かったりで、売り物にはならない内臓肉だという。

「いや、そいつはお前が持って帰れ」

 顔色を無くした隆康は、かろうじてそういうことができた。


 そんなこんなをしているうちにあっという間に月日が流れ、五月の連休に突入する頃、ふかけんにあるニュースが届く。


「四つ木迷宮で登録研修を受けていた者たちが、実習中に変異体エネミーに襲われた」


 命に別状があるよな重傷者は出なかったが、引率の探索者と研修生の数名がエネミーの攻撃により手足を分断された、という。

 そうした負傷者の中に、秋田明雄の名も含まれていた。

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