小さな宝箱 2



 押入はあおいのワンルームで唯一の収納場所だ。生活に必要な物は大抵、ここに仕舞ってある。

 あおいは押入の襖を開けて、中に積み上げていた物を一つずつ下ろし始めた。

 あまり整理できていない押し入れの中は、雪崩こそ起こさないが整頓もされていない。目的の物を探すあおいの足元は、あっという間に物で溢れかえった。


 一方、こたつの上では、剣士が次々と積み上げられていく生活用品をしげしげと興味深そうに眺めていた。サーベルは既に鞘に納め、押し入れを漁るあおいの背と荷物を交互に見比べる。

 あおいは掃除機を手に、一度こたつの脇に戻って来た。そしてこたつに掃除機を立て掛けると、彼女はまた押し入れに引き返す。剣士は長く大きなそれにまた驚いて、サーベルの鞘で突き始める。

 剣士はしばらく掃除機の様子を伺っていた。掃除機がひとりでに動かないことを確認するまで、突いたり、軽く叩いたりして反応を確かめる。剣士は、あおいが何の警戒もなく扱うのだから問題はないだろうと結論付けたのだが、やはり気になって仕方がない。今度はさらに近寄って、掃除機の青いホースまじまじと眺めた。

 あおいは除菌シートと救急箱を見つけ出すと、台所の棚からティッシュ箱も掴んだ。剣士の手当てをしようと、あおいはこたつへ戻って来る。


 剣士の頬からは血が流れ続け、こたつテーブルにもぼたぼたと赤い滴が落ちている。あおいは剣士に折り畳んだティッシュを渡し、それで傷口を押さえるように指示した。その間にあおいは汚れたテーブルを除菌シートで拭い、ガーゼを小さく切り始めた。


「ねえ、どうして怪我したの? その剣は本物? 」

「ああ、そうだ。傷はさっきまで斬り合いをしていたから、その時に付けられたんだろうな」


 気付かなかったな、と剣士はぽつりとこぼした。あおいが剣士の顔を見ると、彼もあおいを見る。


「帝国でないなら、いい。悪かったな」


 あおいが微笑んで頷くと、剣士も小さく笑った。

 剣士の頬の血を押さえるティッシュがみるみる赤く染まってゆく。あおいは替えのティッシュを折り畳み、彼に手渡した。血みどろになったティッシュをポリ袋に捨てて、ガーゼ切りを再開する。


「どうしてそんなに小さいの? 」

「お前が大きいだけだろう」


 剣士は再びあおいをギロリと睨みつけた。彼はふてくされたような顔をして、コタツの上にアグラをかく。そして決まり悪そうにあおいから顔を逸らし、ぶすっとしたままアグラの上に頬杖をついた。頭上の蛍光灯までもが不機嫌そうに瞬くので、あおいの焦りは倍増する。

 剣士はさも面白くなさそうに、拗ねた顔をして黙り込んだ。あおいはハサミを動かしながら、なんとか場を取り持とうと次の話題を考える。


「ご、ごめん。そんなに怒らないでよ。ええと、そうだわ、あなたの名前は? 」

「……アベル・アグアイル」


 アベルはそっぽを向いたまま、ぼそりと答えた。彼はまだ、まだあおいを見ようとはしない。


「アベルは幾つ? 子供があんなもの振り回したら危ないわ。ヒヤヒヤしたわよ」

「15。もう元服したんだ。俺は子供じゃない」


 アベルはそっぽを向いたまま、ますますむくれた。彼は更に機嫌を損ね、頬を膨らます。わざと明後日の方を向いて、あおいとは目を合わせようもとしない。

 あおいは気まずくなった空気をどうしたものかと、焦りで回らない頭で考える。だがそれを察するように、アベルもまたちらちらとあおいの様子を伺っていた。


「乱世に生まれた以上、致仕方ないだろう。戦わねば殺される」


 アベルは腰のサーベルを見つめて、暗い顔をした。目を伏せた彼の表情に悲しい影が走る。あおいもつられて、アベルのサーベルや鎧へ視線を移した。

 アベルの鎧もその下の服も、どろどろに汚れていた。彼の服には相当な量の血や泥が染み込んでいて、汚れた部分は既に黒っぽく変色している。


「15じゃまだ子供よ。ご両親は反対しなかったの? 」

「もう死んだ。とっくに」


 あおいには返す言葉がなかった。アベルを見ると、彼は「何を言っているんだ」と言わんばかりの怪訝な顔をしている。


「お袋は帝国兵から俺を庇って死んだ。親父は戦に殉じた」


 アベルの精悍な、且つ何か思い詰めたようなきつい顔つき、彼の纏う殺伐とした雰囲気からも、とても嘘には聞こえなかった。

 あおいはガーゼを切っていた手を思わず止めた。視線をアベルに向けたまま、あおいは頭の中でアベルの言葉を反芻する。すると、次第にアベルは居心地悪そうにし始めた。渋い顔をしてアベルがあおいを見つめると、あおいはアベルの視線にはっとした。


「ごめん。不躾だったね」


 じろじろと見てしまったことをアベルに詫びて、あおいは視線を手元のガーゼに戻した。黙ってアベルの言葉を待っていると、彼はニヤリと口角を上げた。


「君はどうなんだ。そんなにぼやっとしていると、すぐに殺されてしまうぞ」

「生憎そんな経験ないわ。だいたい、本物の武器なんて初めて見たんだから」


 あおいが少しムッとして答えると、アベルは笑った。


「そうだろうな。その調子なら、危なっかしくてとても見てはいられん」

「まあ、失礼ね」


 あおいはからりと笑うアベルを軽く睨みつけながら、切り終えたガーゼをこたつに置いた。そしてアベルの頬からティッシュをはずすと、頬の血は止まっている。あおいはほっと息をついた。


「目と口、瞑ってなさいよ。消毒液をかけるから、少ししみるわよ」


 あおいはスプレータイプの消毒液を、アベルの頬に吹きかけた。彼は歯を食いしばり、しみる傷口に顔を歪ませる。

 アベルは一言も弱音は吐かなかった。さほど痛がりもせず、じっと耐えている。

 アベルの傷は浅い。だが、大きかった。右の頬骨から右の口角の近くにまで及んでおり、本当ならば縫合が必要なほどの怪我だ。本当ならば、顔面麻痺になっていそうなものだが、きちんと動いている事がせめてもの救いだ。

 とはいえ、さすがに病院に連れて行けないし、あおいには医療の知識も技術もない。上から圧迫するだけではまた傷が開くかもしれないが、あおいにはこれ以上どうすることもできなかった。


「君は多少危なっかしそうだが、常に死ぬ心配をしなくても生きられる世の中なのだろう。良いことだ」


 そう言って、アベルはにっこりと笑った。それまでの暗い影が払われたかのような、明るい笑顔だった。

 この子はこんな顔もするのか。アベルの笑顔を見たあおいは意外な気持ちがした。

 アベルは必死で背伸びして大人ぶっている。けれど、彼の本当の顔はこちらなのかもしれない。


「そう、ね。今日死ぬかもしれないなんて、今まで考えたこともなかったわ」


 あおいはアベルの頬に張り付いて固まった血を濡れガーゼでふき取った。そして新しいガーゼを傷に当て、その上からテープで固定する。


「よし、これでいいわ」

「ありがとう。すまないな。すっかり世話になってしまった」


 アベルは頬に手を遣り、ガーゼの感触を確かめた。


「わたしは、あおい。真田あおい。18歳だから、わたしの方が少しお姉さんね」

「あんまり変わらないだろう。偉ぶらないでくれ」


 アベルは唇を尖らせて抗議する。けれど、そうしてすぐに拗ねるところが子供っぽくてかわいいと、あおいは心の中でくすりと笑った。


「あら、3年の差は大きいのよ」


 わたしがそう言うと、アベルはまた不満そうにぷうと頬を膨らませた。傷が痛むらしく一瞬でやめてしまったが、今度も随分拗ねている。


「ふふ、拗ねるな拗ねるな」


 いちいちむくれるのがとにかく可愛いと、あおいは人差し指でアベルの頭を撫でてやる。すると今度は照れているのか、アベルの顔が少しばかり赤くなった。

 アベルはまたそっぽを向いた。けれど、決して怒っているわけではなかった。いつの間にか効き始めていたエアコンの暖かい風が、ふわふわとアベルの束ねた髪を掠めて行った。


 手当をした後、あおいはアベルのために寝室を用意した。台所で深めの皿を見繕い、タオルやフェルト、ハンカチを敷き詰めてベッドを作った。出来上がったのでアベルを呼ぶが、返事がない。


「アベル? どこー? 」


 あおいは台所を出ると深皿を抱えたまま、アベルを探し始めた。名前を呼びながら、こたつの周りを見渡す。だが、一向に返事はない。あおいはかがんで宝箱を見下ろした。

 アベルはこたつの上に置いたままにしていた宝箱の脇にいた。アベルは宝箱の壁に寄りかかるように座ったまま、サーベルを抱えて眠っている。よほど疲れていたのだろう。手当が終わるとすぐに寝てしまったらしい。

 起こしてしまうのも悪い気がして、あおいは慌てて口を噤んだ。アベルの肩に上からタオルハンカチを掛けて、そのまま動かさないようにしておくことにした。


 翌朝、元の世界に帰れないことに落胆するアベルを慰めるところからあおいの一日が始まった。

 アベルは酷く落ち込んだ。しかし、あおいにもアベルにもどうしようもない。アベルは浮かない顔で素振りを始めた。

 アベルは素振りをする事で気持ちを落ち着けている。そして、気丈に振る舞った。朝の鍛錬が日課だと言い、アベルは爪楊枝を木刀替わりに素振りをしている。汗を飛ばしながらひたすら爪楊枝を振るう姿は、まるでそこに相手がいるかのように激しかった。

 あおいに剣のことは分からない。けれどアベルの一振り一振りが彼の不安を振り払うかのように見えて、いたたまれなかった。


 アベルの様子を見ながら味噌汁と卵焼きを作った。そして冷凍庫から余った米をおにぎりにしておいたものを取り出す。おにぎりをレンジにかけている間に、おかずを皿によそった。

 朝の講義に間に合うように早起きしたものの、あおいはすっかりアベルに気を取られていた。大急ぎで食事してドタバタと鞄を掴んでダウンジャケットを着込む様は、アベルが「まさかここも戦場だったのか」とあおいに確認したくらいだった。


 あおいはいつものように大学へ行った。バイトもこなして、夜に帰宅するとアベルと夕食を食べた。

 食後にお椀に湯を張って、あおいはアベルに風呂を勧めた。服もドロドロだが、アベルもドロドロに汚れている。あおいはアベルが少し臭う事にも気付いた。

 アベルは風呂と聞くや否や、嬉嬉としてその場で服を脱ぎ始める。あおいは目のやり場に困って目を泳がせたもの、うっかり見てしまった。アベルの身体には、肩、背中、腕、足、腹に到るまで、身体のあちこちに幾つもの傷跡が残っている。中には最近出来たであろう新しい傷もあり、それらは彼の生活の激しさを物語っていた。


 アベルのこれまでの人生には、ほぼ戦いしかなかった。アベルの傷だらけの姿にそれを感じる。あおいは、もはや何度目かも分からない大きなショックを受けた。


 アベルはあおいの様子が変わった事にすぐ気付いた。脱ぎかけていた上半身の服を脱ぎ終えると、すまなさそうな顔であおいを見上げる。


「すまない。驚かせてしまったな。俺は見られても構わないが、見てもあまり気分のいいものではないだろう」

「ごめんなさい。そうじゃないの。なんだか、悲しくなってきちゃって」


 あおいは慌ててアベルから目を逸らす。鼻の奥がつんとするのを感じたあおいは、慌てて涙を堪えた。

 傷は確かに恐ろしい。けれど、それよりもあおいはアベルに同情してしまった。つらいことばかりだったのではないか、子供らしい生活をしたことなどないのではないか、などと考え始めるとキリがない。余計なお世話かもしれないが、そう思わないではいられなかった。

 ふと、おおいは左肩に重みを感じていることに気が付いた。アベルがいつの間にか、あおいの肩によじ登って来ていた。アベルはそこに腰を下ろし、心配そうにあおいを見上げている。

 アベルはズボンのような袴のような服を、小さな拳できゅっと握った。


「どうしてあおいが悲しむんだ」

「だって、身体中傷だらけじゃない」

「俺は気にしていない。どれもほとんど治っているし、今更どうという事はないさ」


 悲しげな目をして、あおいは黙ってしまった。アベルは困ったような、曖昧な笑い方をしてひとつ息をつく。


「ここにいると、本当に戦わなくていいんだな。俺はずっとこんなだから、どうもピンとこないんだ」


 アベルはどこか遠い目をしてそう言った。

 戦わない生活は、アベルにとって普通ではない。けれど望んで戦っているわけでもない。楽な生き方ではない。


「ここにいる間くらいは、ゆっくりしてね」

「ありがとう。あおいは優しいな」


 アベルは笑った。明るい方の、無邪気な笑顔だった。



 それから数週間の間、二人は穏やかに過ごした。その間にアベルの頬の傷は大方癒えたが、跡はくっきりと残ってしまった。


「ああ、きれいな顔なのに。勿体ない」


 アベルの顔からガーゼをはずすあおいの口から、ポロリと本音が出た。役目を終えたガーゼをコタツに広げたビニール袋に入れて、あおいは袋の端をきゅっと結ぶ。


「そうか? そりゃあ、ない方がいいけど、今更消せないし」


 こたつに胡座をかいたアベルは困ったように笑いながら、傷の真横の皮膚をポリポリと掻いた。治りかけた傷が痒い。


「そんなことよりも、俺は世界の情勢が気になるよ。仲間達は今頃どうしているだろう」


 アベルは深くため息をついた。思い詰めたような顔で、こたつの上の宝箱を見ている。アベルはため息をつくと、自分の裸足の爪先をじっと見つめた。


「俺はいつまでこの生活を続けるのだろう。今もきっと、仲間は戦っているのに」

「帰る方法がわからないんじゃあ、どうにもならないわね。あの宝箱も調べてみたんでしょう? 」

「ああ。でもお手上げだ」


 アベルは肩をすくめて、また一つため息をついた。

 アベルはこの数日、宝箱の本体はもちろん、蓋の部分や箱の裏側までひっくり返して調べていた。けれど、出てきたものは隙間に挟まった埃くらいのもので、大した収穫はない。いくらアベルが帰りたくても、どうにもならなかった。

 アベルはすっと立ち上がった。そして、少し歩いてこたつテーブルに肘を付いていたあおいの左腕に手をかける。彼はセーターの編み目を上手く使いながらするすると登り始めると、鮮やかにあおいの肩に腰掛けた。

 いつしかあおいの左肩は、アベルの指定席になっていた。用事がある時や話がしたいときにはいつも、アベルはここへよじ登ってくる。


「そういえば。あおいはよく出かけているな。とこに行っているんだ? 」

「大学よ」

「なんだそれは」


 アベルの顔にクエスチョンマークが浮かんだ。その反応に、あおいも同じように戸惑った。

 アベルの国には大学が無いのかもしれない――そう思い至ったあおいは、別の言葉に言い換えられないかと思案する。


「学校ならわかる? 勉強しに行っているのよ」

「学校──ああ、学問をするところだな」


 アベルは合点がいった、というような顔で答えた。


「俺は学校に行ったことがない。でも、新時代が来たら学問が必要だから、お前も本を読んでおけと上司に言われた。何冊か借りていたんだが、全部置いて来てしまった」


 アベルは「いつか読破するのだと意気込んでいたのだが」と自嘲気味に笑う。


「いつから戦ってるの? 」

「俺が生まれた頃には既に革命は始まっていた。親父が死んだ後からだから、2年くらいか」


 あおいは返事に困った。聞いてもよかったのだろうかと、今さら迷っている。アベルはあおいの不穏を察知すると、努めて優しい声を出した。


「気にするな」

「ごめん、わたし」


 しどろもどろしながら、あおいは言葉を探した。アベルからすれば恐らくぬるま湯の生活しか経験のないあおいには、どこまで踏み込んで良いのかすら判断がつかない。

 するとどこかさっぱりとした面もちで、アベルは自身のこれまでの事を話し始めた。

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