喜びでも悲しみでもない旋律
厳しさの果てに凪あり二月尽く
「二月」は、春の季語。
寒さは一月と同様にかなり厳しい。季節風も強く、大陸から寒波の襲ってくることもあるが、日は次第に長くなり春が動くのが感じられる。
様々な人がいる。
いつも不機嫌そうに眉間を寄せ、不満しか口にしない人。
自分の不満を口にすることに恐れを抱き、いつも微笑んでしまう人。
いつも同じ表情をしている人は、常に心をどこか歪めながら過ごしている人かもしれない。
いつも同じ感情で脳が覆い尽くされている人など、本当はいないはずだ。
誰でも、本来は様々な場面で笑い、泣き、怒り……そんなはっきりとした感情の元に生きていたはずだ。
それを、いつしか、いつも同じ形に歪めなければ過ごせなくなった人。
そういう人に、時々出会う。
ある人は常に周囲を威嚇し、不快感を撒き散らし。ある人は周囲の攻撃を躱すことさえままならず、無数に痛みを抱え。
——ともすれば崩れそうなその心の重心を、少しずつでもシーソーの真ん中へ戻せるならば。
だからと言って、バランスのいい表情のできる人の心が、健やかなのかどうか。
決して、そうは言い切れない。
いつも心のままの表情をできている人など、きっとどこにもいない。
悲しみや苦しみ、痛みを堪えて、何でもないように笑う。
傷ついたことをひた隠し、強い自分の仮面を被る。
「感じないふり」でもしなければ、この世を歩くことなどできない。
強く見える人、逞しく見える人、明るく見える人。
全ての人が、心の奥には重苦しい荷物を抱えている。
ただ、それを感じさせないだけだ。
そんな、自分自身の心の絶えることのないざわめきが、堪らなく鬱陶しい時がある。
心の中の全ての波が消え、今すぐにさわさわと静かな音を立てて凪いでくれたら。
心から、そう願う時がある。
静かな凪に心を委ねることこそが、最も難しい。
そんな気がする。
ジャズには、喜びでも悲しみでもない心情を表現する不思議な曲がある。
おそらく、ジャズでしか表現できない心情だと思う。
"What's New?"という曲だ。スタンダードジャズで、たくさんのアーティストが様々なバージョンで演奏しているが、私が最高に好きなのはボズ・スキャッグスが歌う"What's New?"だ。
そこに歌われるのは、今目の前にあるそのままの心。昔の恋人に偶然出会い「久しぶり、最近どう?」と歌う、何ともさりげない曲。
そこには、特別な嬉しさも、悲しみもない。ただ過去の二人の断片と、またそれぞれの生活へ戻っていく一瞬の再会を微かに懐かしむ思いが綴られている。
その旋律も、いつもと変わらない心に一時思い出が過ぎっただけ、というゆるりとした和音を選び取る。長調とも短調とも言えぬ、その間を何気なく揺蕩うようなメロディだ。
これを聴くと、不思議に全ての緊張感から解放される。
喜びにも、悲しみにも。その心情の明暗に関わりなく、大きな感情の波には必ず緊張や不安が伴う。そういう「心の波」を、この楽曲は積極的に描き出そうとしていない。むしろ、「どちらでもない」というその心情を敢えて描こうとしなければ、この旋律にはならないかもしれない。
そういう思いを抱きつつ聴くと尚更、この曲はとてつもなく深い意味を含んだ傑作だ。あくまで個人的な独断と偏見に満ちた感想ではあるが。
心に立つ波を一切感じたくない時がある。
様々なことに翻弄され、神経を尖らせ、心身の不快感に追い立てられ、生きていることそのものが厄介で鬱陶しく感じる時というのがある。
そんな時、ただいつもの街を何気なく歩くようなこの旋律は、まるで薬のように心を「平常」に結びつけてくれる。
心の波の打ち寄せない、肩の力を抜いた「平常」が欲しい時、是非聴いてみて欲しい一曲だ。
"What's New?" ボズ・スキャッグス
https://www.youtube.com/watch?v=6pWmeSyl1kk
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