セックスレス
吾子の手は男になりて春ともし
「春ともし」は、春の季語。
春の宵の燈火は、明るい華やかさと同時に艶やかさも感じさせる。
中学生の息子に数学を質問された。
そのノートに顔を寄せ、質問に答えながら、改めて気づいた。
シャーペンを握る彼の手が、急に別人のように大きくなったことを。
まだ声変わりは迎えず、身体つきもほっそりと少年のままだ。
なのに、こんな風に何気なく眺めた手や、床に投げ出した足のゴツさ、大きさは、もう昔とは明らかに違う。
あの小さく柔らかかった手足が、いつの間に。
嬉しさと同時に、強い寂しさが胸に訪れる。
思春期、男の子は心も身体も音を立てるように急激な成長を遂げる。
第二次性徴が現れ、逞しい大人に変身してしまうのも時間の問題だ。
堪らない切なさがこみ上げるのを押し隠しながら、春の夜の仄明るい灯火の下、あどけなく優しい笑みを見つめた。
セックスレスは、カップルや夫婦間の重大な危機。
当たり前のようにこういう表現がされるのをしばしば目にするのだが、その度に大きな違和感を感じずにいられない。
セックスは、愛し合う恋人同士や夫婦ならば、お互いが絶対にしたくてたまらない行為かどうか?
根本的なこの部分の議論が抜け落ちたまま、「セックスレスは重大な危機」と当事者以外のギャラリーが騒ぎ立てるのは、あまりにも興味本位で滑稽な話だと、私には思える。
日本人女性の約6割はセックスがあまり好きではない、という記事を最近読んだ。そこにはいろいろな理由が隠されているようだが、今回は詳しくは触れない。
セックスをしたいと思うかどうか。そこには性別による積極性の違いも当然あるし、個人差もまた大きいだろう。しかしとにかく、このデータからも明らかなように、人間なら誰もが例外なく愛する相手とのセックスが大好き、というわけではないのだ。
相手のことを愛おしく思う気持ちは間違いないのに、セックスは好きになれない。
こういう苦しさを抱えている人々が、少なからず存在するはずだ。
そういう人々の存在を無視し、なぜ第三者が一律に「セックスレスはいけないことだ」と決めつけようとするのだろうか?
学校は好きだけど、体育の授業は嫌い。
あなたは好きだけど、あなたの作るチャーハンは好きじゃない。
そういう事象は、日常の中のあちこちに普通に存在している。どこにも矛盾点はない。
なのに、なぜ、「あなたは愛しているけれどセックスは好きじゃない」という主張だけが、それほどに異常視され、容易に認められないのだろう?
体育の授業が学校生活のごく一部であるように、セックスもまた、お互いに注ぎ合う無数の愛情の中のごく一部に過ぎないのに。
この主張が認められない、というのは、つまり「相手の性的欲求を満たすためには、セックスが嫌いなどという我儘は許されない。セックスは恋人や配偶者のこなすべき任務だ」という暗黙の前提が、強制力として恋人・夫婦間に働いていることの現れではないだろうか。
その前提がおかしいということに声を上げられず、「愛がない」と誤解されることが怖ければ、その人は黙って苦痛に耐えるしかない。
嫌がる相手と無理にセックスをしなければ、愛情は育てられないのか?
セックスがない関係は、無意味に等しいのか?
セックスがないことは、愛し合う二人の危機。その見方はあまりにも一方的だ。そういう基本姿勢を見直せないことが、むしろ問題である気がしてならない。
「するのが当たり前だ」とか、「したくないのは愛のない証拠だ」とか、そんな風に一律かつ乱暴に判断することなどできない、この上なくデリケートな問題がそこに潜んでいると、私には思える。
時の流れに伴う心や身体の変化、環境の変化など様々な条件が重なり、セックスの捉え方が変わっていくこともあるだろう。
「セックスを嫌がること=相手への愛情の欠如」。少なくとも、そこを何の疑問もなくイコールで繋ぐ捉え方は、間違いなく誤りだ。
セックスへ抱く感情、そう感じる理由。
相手のことが本当に愛おしいならば、私達はその行為に対する互いの思いをしっかりと受け止め、深く理解し合いながら共に歩むべきではないか。
「全てを晒して身体を繋げる」という、極めて特殊な行為だからこそ、「する、しない」のみで愛情が測られるのはあまりにも悲しい気がする。
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