普通とは何か
陽の射さぬ翳ありてこそ若葉美し
「若葉」は、夏の季語。夏に入って全ての樹木についたみずみずしい新葉を指す。
2020年は5月5日が「立夏」に当たり、暦の上ではこの日からが夏である。俳句においても、この日からは夏の季語を詠む。
若葉の美しい季節だ。
爽やかな風に吹かれて頭上にさざめく無数の若葉を、じっと見上げる。
枝の一番外側で眩しい陽射しを浴び、その葉脈が透けて見えるほどに輝く葉。
そこから一枚、二枚と重なるごとに、葉の色は昏い濃さを増して行く。
それでも、その昏さは光を失った闇なのではなく、陰にありながらもそれぞれの美しい色を保ちながら、自由に風に揺れている。
——陽射しに照らされて輝く明るい色の葉ばかりでは、この美しさは恐らく生まれない。
明るく照らされる葉、その陰になる葉、無数の葉の下で穏やかな翳の色を湛える葉。
そんな色の濃淡、明暗が存在するからこそ、若葉は美しい。
同じ形、同じ色の葉がただずらりと並ぶ光景は、美しいどころか不自然であり、むしろ不気味ですらあるだろう。
様々な色や形が存在し、お互いに柔らかに受け入れ合うからこそ、決して壊れることのない調和が生まれる。
穏やかな自然の中に立ち、改めてそんなことに気づいたりする。
息子の友人に、約一年ほど不登校の状態の子がいる。
中学校になってクラスが分かれてしまい、息子はその経緯をあまりよく知らないようだが、不登校の原因は周囲の男子達から受けた心ない悪戯だったようだ。
息子はその友人としょっちゅうオンラインゲームで遊んでいるが、彼はとても大人びていて、思考力があり、ちょっとした言葉にも思い遣りがある。
「学校に行けない」は、「劣っている」のではない。
寧ろ、繊細で優しく思考力のある子が、犠牲になる場合が多い。
はっきりと、そう思う。
「普通」と「普通でない」。
この区別には、何の意味があるのだろう。
そもそも、「普通」とは何か。
「普通」とは。
goo辞書で引くと、『特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。』とある。
ごく標準的、平均的。突出しておらず、周囲とレベルや足並みが揃っている。
そういうことを表している気がする。
集団生活や社会生活の中で、「普通」を保てることは、ある意味とても重要なことだ。
そして、「普通」は、取り敢えず全員がクリアすべき基準——そういう考え方を、私たちは幼い子供の頃から意識の中に叩き込まれる。
毎日学校へ行くこと。真面目に授業を受けること。親や先生の言うことを素直に守る。友だちとは喧嘩せず、仲良く過ごす。テストで取り敢えず平均的な点数は取れること。
そして、「普通でない」こと——つまり、周囲と足並みを揃えて平均的な行動ができないことを、世間は当たり前のように「落ちこぼれ」と呼ぶ。
「普通」のことを、みんなと同じように「普通に」できない。そのことは、どんな言動も一律に「=悪」、とみなされる。
けれど。
「普通でない」ことは、「=悪」、なのだろうか。
標準的なことを、普通に行える。そのことは、言い方を変えれば「平凡」だろう。
同様に考えれば、「普通でない」ことは「非凡」だ。
例えば、学校に行けない子。
その理由を深く把握もせずに「落ちこぼれ、問題児」とレッテルを張るのは、なぜなのだろう。
「学校に行けない=問題」、と捉えるのは、あまりにも短絡的で愚かな行為だ。
レッテルを張る前に、その子の心の中を「解剖する」ことが先ではないだろうか。
詳細に解剖した結果、普通ならスルーできるレベルの友達の行動や言葉が、その子にとって大きなストレスや負担になっているのだとしたら——その子の心は、普通の子よりもはるかに鋭い感受性や思考力を持っている。そう言い換えることもできるだろう。
その特徴は、その子の「非凡さ」であり、長所ともなる可能性があるはずだ。
「普通でない」——つまり「非凡」であることは、その「非凡」の理由を解剖していけば、何か優れたものを潜ませている場合も多いのではないだろうか。
普通の子よりも傷つきやすいことは感受性の鋭さであり、人と接することが苦痛だという性格を裏返せば、一人きりで集中することは得意だという個性を持っている可能性がある。
「普通でない」という事象も、分解すればメリットとデメリットは表裏一体であり、しかも「普通でない=非凡」である分、そのメリットをうまく抽出できればその突出具合は大きい。社会の中でも、「普通」の人より一層大きく活躍できる可能性もある。そういうことが言えないだろうか。
だが——
今の日本の社会には、その「メリット部分」を丹念に抽出できるような「学校以外の機関」はほぼ皆無だ。
あくまで表面的に見て「普通でない」人が存在すると、そのデメリット部分だけを見て、「あいつは落ちこぼれだ」と指をさす。「普通」な私たちは、ただそれだけしかしていない。
学校へ行けない、周囲と同じ社会生活ができない。そのことは完全に「デメリット」としか働かない。——それは、「デメリット」と扱う以外に視野を持たない社会が、そうさせている気がしてならないのだ。
毎日学校へ行けることだけが偉いのではない。そして、周囲と同じことが同様にできる者のみで人間は構成されているわけではない。人間はロボットではない。一人一人違うのだ。
それにもかかわらず、学校へ行けない学生時代を過ごす人に新しい視野を提供する手立てが、この社会にはない。本当は「登校」以外にも胸を張って歩ける道は無数にあっていいはずなのに、この社会にはその道がない。
「普通」の社会生活ができないことを「=落ちこぼれ」と蔑む。「普通」というあまりにも偏った基準を絶対視する私たちは、明らかに傲慢だ。
「普通」というその基準こそが、既に傲慢であり、大きな勘違いなのだ。
そう気付くべきなのに。
緊急事態宣言による臨時休校が続く中、息子の友人は、次回の登校日には学校へ行くことを決めたらしい。
息子は、彼と一緒に登校する約束をしたようだ。
息子の笑顔が、いつもより明るく輝いているのは、気のせいではないだろう。
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