秘密の箱


 春立ちてまた開く引き出しの奥



 陰暦では、1年を二十四気に分け、季節を定める基準とした。立春は、その二十四気の一つ。陽暦では毎年2月4日頃で、節分の翌日に当たる。2018年の立春は、2月4日。 

 暦の上ではこの日から春となり、俳句においても春の季語を詠む。まだ寒さは去らないが、微かな春の気配が感じられる時期だ。





 立春。

 暦の上では、この日から春だ。


 それでも、まだ日差しはどこかひどく恥じらうように、淡い暖かさしか持たない。



 そんな季節になると、決まって——

 普段は心の奥にしまい込んでいる思い出が、微かに動く。



 ごちゃごちゃと、本当はもう捨ててもいいようなものばかりが詰め込まれた、小さな引き出し。

 誰も覗かないような引き出しの奥の、つまらないものにしか見えないそれが——私の宝物。



 こうして、日差しが少しずつ明るさを取り戻す頃になると——

 それをそっと取り出して、見つめて……触れたくなる。


 ささやかでも、決して忘れたくない大切な思い出が、自分の中に暖かく蘇る。




 もしかしたら……

 それはもう、私だけしか覚えていないことなのかもしれない。



 それでも——

 遠く過ぎた日の輝きと、苦味なようなものを、鮮やかに思い出させてくれる——

 それは、この季節に引き出しの奥で密やかに微笑む、私だけの宝物。








 秘密の箱。

 他の人に見られたくないものを、収める箱。


 そんな箱が欲しいと思うことがある。



 自分だけの中に、しまっておきたいこと。

 今風にいうなら、プライバシー。


 きっと、誰にでもある。

 そこへは誰も踏み込んで欲しくないし——周囲に何か悪影響や迷惑をかけない限り、誰も踏み込んでくるな!という主張を堂々としていいものだと思う。



 けれど——

 そんな部分を持っていることって、思ったよりも周囲には認められていないような気がする。




 プライバシーの捉えられ方は、年齢や生活環境などによっても違うと思う。

 例えば——

 思春期を迎えた頃の、心の中に秘めた気持ち。

 誰にも知られたくない、自分だけの秘密。

 そんな密やかな思いを込めた日記や、溢れ出した言葉を書き留めたノート。大切な誰かと心をやりとりした紙の切れ端や、そんなもの。


 芽生えたばかりの初々しい心を映した、柔らかく繊細なそんな物たちは、引き出しに鍵をかけてしっかり見えないように守ったとしても、周囲から静かに認めてもらえるような気がする。



 けれど。

 時を経て、分別のついたいっぱしの大人、というような歳になり。

 もし、誰にも見せない鍵をかけた引き出しや、秘密の箱を持っていたとしたら——

 周囲から、「……そこには何が入っているの?」という視線が突き刺さってくるような——中身を問われても仕方ないような……そんな息苦しさがつきまとう気がしてならない。



 自分だけのものを収める箱を持ちたい、という気持ちよりも……そんな箱を持っていることの居心地の悪さの方が、結局勝ってしまうような。

 パソコンや、スマホの中など……そこはプライバシーの詰まった場所だという暗黙の了解と、ロックのかかる安心感に守られたスペースへ収める以外、なぜか心安らぐ場所がないような——そんな息苦しさ。



 誰にも見せたくない部分なんてありません!という、どこを突かれても痛くない様子でいるのが、大人として当然だ……結局、そういうことなのだろうか。






 秘密の箱。


 年齢や、生活環境などに関わらず——

 誰からも干渉されないそんな場所を、本当は誰もが堂々と持っていいはずなのに。


 ——そんな箱を持つことは、とても難しいことに思えてならない。






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