泣かない


 泣かぬとはおそろしきこと大旱



大旱おおひでり」は、「ひでり」の傍題。連日の日照りで川や池、井戸などの水が枯れること。田畑の水も枯渇し、農作物などに甚大な影響を及ぼす。

「大旱」は、夏の季語。




 梅雨が明けた。

 今年は、関東地方などの梅雨時期の降水量は、著しく少なかった。


 日光は、生命の維持に欠かせない。

 けれど——水分の欠如は、死に直結する。



 人間の心も、おそらく同じだろう。


 乾ききった心では、人間は人間らしく生きることができない。






 泣く。

 泣くことは、恥ずかしいこと、いけないこと。そう捉えられることがとても多い。


 例えば——

 泣く男は、弱い意気地なしだ。男は泣くものじゃない。

 母親は家庭の太陽であるべきだ。泣き顔を家族に見せてはいけない。

 女は、泣けば済むと思っている。世の中はそんなに甘くない。



 泣いてはいけない。泣くことは、逃げること。涙は、弱さの証拠だ。

 ——こういう感覚。

 涙を流す人に、そういう感覚を安易に投げつける。


 これは、果たして正解だろうか。




 泣くことは、精神的なストレスを軽減するための心の仕組みだと、私は思う。

 このエッセイで、以前の話(『優しい仕組み』)にも書いた。


 分泌物を体外に放出する瞬間、人間の脳は快感を感じるようにできているのだそうだ。

 心が悲しみや苦しみの底にいる時に、涙が出るのは……自分自身の潰れそうな心を何とか救う方法を、身体が必死に探した結果なのだと思う。


 涙を流した後、心のどこかに晴れ間ができるような不思議な安らぎが訪れるのは……そんな身体の仕組みのおかげなのだろう。



 自分が、また前を向くために流したい、その涙を……弱い、恥ずかしい、という理由で第三者が責める。

 泣くな、と教え込む。

 これほど、理不尽なことはない。

 私には、そんな気がする。




 そして——

 本当に涙が流れなくなった感情ほど、恐ろしいものはない。


 何も感じない。

 悲しみや痛み、辛さ……そのようなものを認知する感覚が、失われる。


 限界まで我慢を積み重ねてしまえば……人間の感情は、きっとそうなる。

 何も感じず、引きつり硬直した表情しか作れない。

 精神への過度の負担や我慢が、そんな深い傷を負った心を生み出してしまう。




 心の中の悲しみや苦しみ、痛みを、決して我慢してはいけない。

 気の済むまで泣いて、思い切り叫ばなければいけない。

 それらの苦しみに、黙って耐えろ。涙を我慢せよ……そんな歪んだ行動を命令できる立場の人間など、どこにも存在しない。

 ——そして、自分自身にそう命令し、必死にブレーキをかける必要も、どこにもない。


 自分を限界まで抑え込まない。それこそが、自分自身の心を救う方法なのだから。




 我慢は、美徳。

 私達を縛る、そういう頑固な固定観念。

 そんなものは、捨て去るべきだ。


 ——そして、涙は、流すべきものだ。



 そう教えてくれる人が、もっといてもいいと思う。





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