愛する、汚す
春服の包める肌のやはらかし
「
春。
寒い冬が終わり、コートやジャケットを脱ぐ季節。
硬く分厚い上着を脱いだ明るい色の薄手の衣服に、どこか新鮮な思いでときめく。
むしろ、何も着ていない素肌より——その内側の肌の柔らかさや匂いのようなものを連想させる、淡い色合いのシャツやブラウス。
セーターなどで隠れていた首筋や胸元、手首などが露わになり——意図しない艶やかさが、そこから匂い立つ。
そんな、胸の奥の何かが芽吹くように、瑞々しい思いが動き出す。
春は、抑えようもない力で新たなものが湧き上がり、生まれ出る——そんな季節だ。
イエス・キリストは、聖母マリアから生まれた。
マリアは、神から『受胎告知』を受け、男性と関わりを持つことなくイエスを身ごもった。
仏教においても、僧が性的な欲望を抱くことは固く禁じられている。
文化の違いに関わらず、「性的な行為」は、忌むべきもの、汚らわしいもの……そのように取り扱われることがとても多い。
なぜか。
それが、種の存続に不可欠な行為であることくらいは、いくら科学の未発達な時代であってもわかっていたはずなのに。
もしかしたら——
その行為が——その行為だけが、人間の常識や理性から遠く離れた特別な衝動に感じられるから、なのかもしれない。
生きるためには、本能の働きは欠かせない。
なのに、人間は、本能の衝動を「恥ずべきもの」と捉える。
ならば——「恥ずかしい」とは、一体なんだろう。
猿が二足歩行をするようになり、やがて脳が発達し、高い知能を持つようになり——
いつしか人は衣服をまとい、自分の裸体を隠すようになった。
自分の体を晒すことを、恥ずかしいと思う。
生まれたそのままの、自然な姿を晒すことができない。
それは、なぜなのだろう。——とても不思議だ。
思えば、この「羞恥心」という感情は——人間だけに発達した、ひどく不自然で特殊な感情である気がする。
性行為が「恥ずべきもの」になったのは——もしかしたら、この不自然で特殊な感情が脳をコントロールするようになった、その瞬間からではないだろうか。
衣服を脱ぎ合う。脱がせ合う。
ひた隠しにしていたものを、晒す。暴く。
激しく触れ合い、興奮を高め合い、苦痛にも似た快感を味わい——強烈な生理的欲求を満たす。
性行為をそうやって客観的に捉えれば——そこには、欲求と同時に、「相手を汚す」という感覚が、自ずと入り込んでくる。
汚す、汚される、というよりも——それは、「汚し合う」行為だ。
人間同士が関わりあって営む、これ以上に本能的で衝動的な行為は、見つからない。
それも——あまりにも突出した、生々しい本能的行為だ。
そして——
その行為には、愛情や幸福感、喜び……時に、独占や征服、服従———
そんな、人間が普段心理の奥底に沈めている本能的な欲求を強く刺激する、ありったけのものが詰め込まれているから——
だから人間は、性的な行為にこれほど深く執着し、時に厳しく遠ざけ——激しく翻弄されるのかもしれない。
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