利き手


 ビールもて利き手ねぎらふ春の宵



「春の宵」は、夕暮れの後、未だ夜の更けない頃をいう。「春宵一刻値千金」と詩句にもあるように、明るく艶めいた何とも心地よい時間である。

「春の宵」は、春の季語。





 私は、左利きだ。


 父が左利きだった。そのため、私は兄弟3人の中で一人だけ左利きだ。



 まだ物心もつかない頃から落書きが大好きで、暇さえあれば鉛筆を握り、紙にグリグリと絵を描いていた。


 やがて、右手が疲れると左手に鉛筆を持ち替えて描いていることに気づいた母は、それを矯正した。

 左手を使おうとすると、「こっちは使っちゃダメよ」と、ぺちっとされたようだ。——全く覚えていないのだが。


 なので、今は物を書くのは左手はほぼ使えない。

 だが、その他のことは、大抵左だ。特にスポーツの際は、右手はほとんど使い物にならない。



 どちらかが使いやすくて、どちらかが不便。

 大抵の人は右だが、私は左の方が便利——以前は、漠然とそんなふうに捉えていた気がする。




 その意識に、ある時、少しだけ変化が訪れた。


 以前、職場で窓口を担当していたとき。

「うわ、すごいですね!」

 利用者の話を聞きながら鉛筆で書類を書き込む作業を行っていたら、向かい側に座った担当の青年から不意に褒められた。

「——はい?」

「あ、いえ……今、書き間違った箇所を、左手で消しゴム使って消しましたよね?……すごいなあ」


「あ……言われてみれば、確かに……」


 自分自身、そう言われて初めて気づいたことだった。

 右手で書き、間違えたところは左手で持った消しゴムで消す。

 自分にとってはごく当たり前のスタイルだ。


「そうやって、両手を自由自在に使えるって、かっこいいですね。

 ……僕、卒論で利き手のことを調べて書いたりしたから、ついそういうの見ちゃうんです」

 その青年は、そんな些細なことに随分感心したようだ。

「私も、今まで全然意識していませんでした。……そんな風に褒められたの、初めてです」

 そんな会話をして、ちょっと笑い合った。

 そのわずかな時間だけ、ストレスフルな窓口がふわりと和らいだ。



 両手を自由に使うことが、時にはそれほどに羨ましく映ることだった——。

 彼からもらったそんな小さな嬉しさは、そのことを少しだけ誇らしく思うきっかけになったような気がする。




 そして、最近。

 ふと、はっきり感じたことがある。

 コーヒーカップでも、ビールのジョッキでも、グラスでも……利き手で持って飲むほうが、断然美味しいのだ。

 中身は、もちろん同じもの。でも、感じる味わいの深さが、全く違う。

「そんなに違う?」と思う方。ぜひ試してみてほしい。その美味しさの違いに、きっと気づくはずだ。

 利き手と脳は、深く結びついている——そんなことを実感する瞬間だ。




 利き手。

 どちらかの手の方が、本人にとってより使いやすい……そんなことが、生物学的にどれだけ重要なのだろう。

 専門的なことは、素人の私にはわからない。


それでも、利き手に頼らなければ、私たちはうまく生きていくことができない。



 そんな、一見些細なことが——実は、いろいろなシーンでひょこひょこと顔を出し、私たちの生活を興味深く彩っている。

 何気ないことを、時に味わい深くしてくれる——そんなものの存在は、とても素敵だ。



 そして——

 高性能を誇る人間という生き物の、不完全で不器用な一面もそこに見えるようで——どこか滑稽で、愛おしい気もする。







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