字幕の魅力

 

 言葉なき間のいよよ濃く蛍の夜



「蛍」は、夏の季語。 

 初夏の闇に光を放ちながら飛ぶ蛍は美しいだけでなく、神秘的なものを感じさせる。

 蛍の種類には、平家蛍・源氏蛍・姫蛍などがあるが、古くから蛍狩りの対象となってきたのは、平家蛍と源氏蛍である。




 会話と会話の間が、会話の最中よりも一層濃いものに感じられる時がある。


 それは——言葉以上の想いで結ばれたひととの間にだけ流れる静寂。

 互いの想いをどんな言葉にしても、興醒めなだけ——それほどに熱を持った、濃密な沈黙。


 闇夜を過ぎる蛍の火が、その静けさの意味を一層深めるようだ。






 洋画や海外ドラマなどを観ていて、「字幕って、すごい」とよく思う。


 吹き替えで声優が喋っている言葉の量と、字幕で画面の下に出る文字の量が、全く違うからだ。

 当然と言えば当然だ。ひとつの画面で読める文字の量には限りがある。どんどん移っていく会話に対応するには、だれでも読み終えられる最小限の文字量にしなくてはならない。

 しかも、その場面の空気や会話のニュアンスも伝えるのだから、適当には済ませられない難しさがあるはずだ。



『サウンド・オブ・ミュージック』というミュージカル映画がある。ご存知の方も多いだろう。『ドレミの歌』や『エーデルワイス』を生み出した名作だ。

 もう50年以上前に制作されたものだが、内容の素晴らしさは全く色褪せず、何度観ても温かい感動に包まれる。


 明るく活発な修道女マリアが、オーストリアの陸軍大佐の子供達7人の家庭教師となる。妻を失って愛情を忘れかけた大佐と、母を失った寂しさを抱える子供達。彼らの冷たく沈んだ心を、マリアの明るい愛情と音楽が力強く包み、再び家族の絆を結んでいく物語だ。



 この映画を最初に観たのは、中学生の頃。字幕版だった。

 そして、それを録画したビデオを何度もリピートで観たものだ。



 数年前、同作のDVDを買い、初めて吹き替え版を観た。

 そして、驚いた。


 字幕版の方が圧倒的に面白かったのだ。


 ミュージカルのため、俳優や女優の声が歌の部分だけ吹き替えをされず、会話の場面に移ると全く違う日本人声優の声で吹き替えられている。しかしこの違和感はやむを得ないだろう。

 驚いたのは、台詞のやり取りのシーンだ。

 吹き替え版を作成した年代も関係するのかもしれないが、その言い回しも表現も、「日本語訳して吹き替えるとこんな感じになっちゃうの?」というガッカリ感、興醒め感のようなものがどうしても拭えない。



 なぜだろう。とても不思議だ。

 なぜ、字幕版の方が「面白い」と感じるのか。

 吹き替えの方が、明らかに伝達できる情報量は多いはずなのに。


 その理由を、いろいろ考えてみた。

 そして、ふと気づいた。



 字幕版の台詞は、視覚のみを通し、必要最小限のことしか伝えていない。

 イントネーションも言い回しも、何も伝えてこない。

 だからこそ字幕版は、その場面の空気全体を、観る者に「想像させる」ことができるのではないか。


 場面ごとの情報量がギリギリまで削られる。そのことで視聴者は、俳優たちの声をはじめ、加工されない物語のオリジナルな面白さを、自分の想像力も使いながら「感じる」ことができる。



 つまり——字幕のすごさは、「文字で最小限の情報を伝える」ことで、逆にその作品の空気や雰囲気を壊さずに観る者へ届けることができる、という点ではないか。


 ……と、勝手に結論づけてみた。




 伝える情報量を最小にとどめ、余白の部分を相手に想像させ、感じさせる。

 それは時に、丁寧な情報を与えるよりもずっと豊かに、その情景や思いを相手に届けることができる。


 むしろ——心で感じたいシーンには、余計な情報など興醒めにしかならないのかもしれない。

 


 人間の感覚とは、とても面白いものだと思う。







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