幸せな過ごし方
野の果の焚火ひとりに果てのなく
「焚火」は、暖をとるために、枯れ木や枯れ草を燃やすこと。社寺の境内などでの落ち葉焚や、野山で木の枝や枯れ葦を燃やす焚火。建築現場などで木屑や塵を燃やす焚火。どれも冬ならではの光景である。冬の季語。
冬の枯野の果てで、小さな人影が焚火をしている。
暮れてゆく空の下。
一面の枯れ草の遥か彼方に——動くものは、その人影と炎の影だけだ。
温かく人を癒すはずの焚火は、熱も音もなく、冷えた景色の奥でちろちろと小さく揺らぐだけで——それを見つめる心を一層寂しくさせる。
遮るもののない、野の果ての孤独。
自由。
人間に、なくてはならないもの。
澄んだ空気を深呼吸するように。乾いた喉に、清らかな甘い水を注ぐように。
喜びを感じながら生きるために、欠かせないもの。
制限がない。柵がない。行き止まりもない。
もしも、そんな世界があったら——。
自分の思うままに生きられる、自分だけの空間と時間。
それは、まるで夢のようだ。
だが——
ただひたすら自由だけを与えられた時、私たちは果たして、心から満たされるのだろうか。
どこへ行こうと、誰に呼び戻されることもなく。
責任を負うこともなく、果たすべき課題もない。
それは——果たして幸せなことだろうか。
無制限の自由とは——言い換えれば、誰も必要としないこと。誰からも必要とされないこと。
そんな気がする。
それは、もはや「自由」ではなく——「孤独」と呼ぶものではないだろうか。
もしかしたら——
制限の隙間にある、自分の思い通りにできる時間や空間、思考——それこそを、「自由」と呼ぶのかもしれない。
「孤独」に変身することのない「自由」。
人間が一番欲しいものは、おそらくそれだろう。
だから——
ひとは誰もが、自らどこかの柵の中に入り込み、窮屈な空気を吸いながら生きている。
誰かを支えたり、誰かに支えられたりしながら。
そして——わずかに手に入る「自由」を、宝物のように味わって生きている。
——つまりは、それが人間にとって、一番幸せな過ごし方なのかもしれない。
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