応援コメント

拭えぬかなしみ」への応援コメント

  • どうしようもなく、かなしい日がありますね。人間の初期設定に、絶対的な「かなしみ」がインプットされているかのように。
    血管を流れる血が「かなしみの河」のように感じられる日には、泣いてしまうのがいいですね。耐えてしまうと、かなしみという水の表面が、どんどん張り詰めて壊れてしまう気がします。

    作者からの返信

    ひいなさん、コメントをありがとうございます!(*^^*)♡

    人生には様々なことが起こりますね。ここには明確に書いていませんが、この話を書いたのも、深い悲しみが立て続けに訪れたまさにその時でした。
    この時に、深い闇にある私の心を救ってくれたのは、やはり「涙」でした。
    心を覆う分厚い暗雲に割れ目を作り、微かな光を投げかける力を持つものは、涙以外にないのだと……この時、はっきりとそう感じました。

    編集済
  • 生きていることは、かなしいこと。

    泣きたい時は我慢しなくていいんですよね。
    思いきり泣いて、前を向きたいですね。

    作者からの返信

    ayaneさん、コメントをありがとうございます!(*^^*)♡

    生きることって、辛さや苦しさ、悲しみを耐えている時間の方がずっと多い気がします。
    その重さに耐え切れず涙の流れる瞬間を、恥ずかしい、甘えだ、と非難する姿勢は、あまりにも冷酷で傲慢なものに思えてなりません。
    我慢せずに泣いて、また前を向く。人生はそうやって歩くものではないかと思います。

  • 涙は正に通り雨。
    時雨という季語を用いる事で、冷たい雰囲気の切なさも浮かんできます。

    ――『涙を糧に 陽浴びて芽吹く』

    涙の後、時雨の後には陽が射します。
    水気を養分に変えて、新たな気持ちや息吹きが芽吹いてくるよう、上を向いて陽の光を待ちたいものですね☆

    作者からの返信

    愛宕さん、コメントありがとうございます!(o^^o)♡

    時雨には、やり切れない悲しみのようなものを感じますね。台風などのような強烈さがない分、しとしとと心に染み込んでくる悲しさと似ているような気がします。
    いつかは晴れるだろう、と頭では思っていても……目の前の悲しみをやり過ごすまでの時間は、やはり辛いものですね。

    愛宕さんの歌で、明るさを加えていただきました。分厚く垂れ込める雲間から、なるべく早く日差しがまた射しますように……そんなことを思います(*^^*)

  • この俳句を詠んだときのあおいちゃんの時雨のように続く静かな悲しみを想像しました。

    どうしようもなく悲しいとき、自分の心から悲しみを追い出そうとするのではなく、心をその悲しみにどっぷりと浸からせることも必要な時がありますね。
    深く沈んで、沈んで、沈みきったある時にふと重りの糸が切れて、少しずつゆるゆると上へ向かっていく。
    そのときはいつか自然に訪れるものだから、その時までは心の重みに任せて沈んでもいいと思います。

    作者からの返信

    ひまわりちゃん、コメント嬉しいです!(*^^*)

    この話を読み直して、思い出しました…この時のやりきれない物悲しさを。
    人間の心は、悲しみが常に奥底に流れている。それを覗き込まないように、上を向く。…そんなふうに思うことがあります。
    嬉しい時の喜びの分量より、悲しい時の辛さの分量の方がずっと勝っている気がして…生きることは、そんな気持ちに負けないことかもしれない、と思ったり。

    でも、仕方のない時は、その悲しみに勝とうなんて思わなくてもいい。そのまま、疲れるまで流れていって…力が戻るのを待つ。そんな方法を選ぶことがあってもいい。
    「悲しみに勝とう」と思っては、上手くいかないのかもしれませんね。そこに浸りきって初めて癒される。
    ……人間の心は、複雑で不思議ですね。

  • 泣くと楽になる…そうだ。
    僕は子供の頃から、それを我慢してしまう。
    泣くことすらできない…。
    悲しみが川ならば…この悲しみを向こうへ流してくれるのかもしれない。
    でも川ならば、とめどなく悲しみを運んでくるのだろう。

    素直に泣く、それもまた勇気のいることなのだろうか。

    作者からの返信

    人間は、分泌物を体外に放出するとき、快感を得られる脳をしているのだそうです。汗などもそうですし、涙もそうなんですね。
    悲しい時に涙が出る理由は、自分が悲しんでいることを周囲に知らせるため、という説をどこかで読んだ気がしますが…私は、脳が安らぎを求めて涙を流すのではないかと思うのです。
    脳が悲しみに潰され、負けてしまわないように…少しでもその負担を軽減するために、涙を分泌するのではないかと。

    涙も、きっと脳がそうしたいと感じて、求めているもの。
    そうだとしたら…泣くのを我慢することは、一層自分に負担を強いることになるのかな…そんなことを感じます。

    性別や年齢や、そんなこと関係なく。
    泣きたい、と思ったら、涙を流してあげる。自分自身のために。
    悲しみという川が、心に流れているのだから。
    常にそばから離れない悲しみを、どこかでやり過ごす方法がなければ…きっと人間は、苦しすぎます。

    泣くことを責める人間は、きっと誰もいないと思うのです。
    だから、自分自身にも、許してしまっていいのではないかな…自分にこそ、許してあげたいもの…思い切り泣くって、いいことなんじゃないかと思います。

  •  共感しました! 

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!
    共感いただけて嬉しいです♪

  • 嬉しいことがあった時、全身で噛みしめたいと願う。

    でも、悲しみも、きちんと向き合って 全身で受け止めてあげないと
    いけないのかもしれないって、時折想うんだ。
    ちゃんと見つめてほしいんじゃないかってね。

    作者からの返信

    六月さん、コメント嬉しいです!!

    六月さんの言葉で、はっとしました。
    悲しみも、時には向き合って欲しがっている。
    本当にそうかもしれません。

    心の中の辛さや悲しみも、時にはじっと見つめる。
    苦しいけど…そうしなければ気付くことのできない、大切なものがある。
    私も、そう思います。

    編集済
  • 身体に溜まった檻、膿とか無駄な成分
    余剰物は「定期的に吐き出す」必要があります。

    ストレス?
    哀しみと苦しさを抱えて生きる?

    人間は「許容量を超えた瞬間」
    どこかで破綻を来すのかもしれません。

    経験則として(ここでは詳しく記しませんが)
    突発的な病、根深く抱えた闇、堪えきれない状況

    そんな総ての事象から逃げたいと考える。

    自ら病んでいると気づける人間は稀
    限界は自身で判断できるものでもない

    青から黄色へ注意信号と感じたならば
    赤く染まる前に「信頼おける友人、家族」相手に相談。

    「独りで考えても解決しない問題は考えない」
    ※空けない夜はなく、必ず朝は訪れます。

    作者からの返信

    うっちーさん、コメントありがとうございます♪

    実は、父の四十九日で昨日は実家に帰っており、今日の昼に戻ってきました。
    悲しみに全く理由がなかったわけではないのですが、この物悲しさを吐き出したくてたまらず…今回の話を書きました。ちょっと衝動的に書きつけた感じもあります。

    晴れ間が出たと思うと、また黒い雲に覆われ、冷たい雨が降るけど…また晴れる。
    心も、これを繰り返すものですね。

    自分の心は健康だ!と、ちゃんと感じているので大丈夫。ご心配いただいたのでしたら、お気遣いありがとうございます!

  • 涙と共に、悲しみが体内から排出される

    そう考えれば、涙の意義があるのかも

    作者からの返信

    つばちゃん、コメントありがとう♡

    その通りですね。悲しみって、涙と一緒に体の外に出すことができる気がします。全てが綺麗に片付いてしまうわけではありませんが…。

    編集済