まずは自分を受け入れる。そこで初めて、自分が好きになれる第一歩でしょうか。小春日和の暖かさは、心を穏やかにする事なく、色々と負のイメージが擡げてくる時期だなと、愛宕は感じます。
――『ならば聴こうか 秋桜の歌』
小春日和に誘われて花開くコスモス。まさしの曲が愛宕の脳裏を過ります。どん底まで心を締め付けてみるのも良いものです。あとは上がるだけですから☆
作者からの返信
とても奥の深いコメントを、ありがとうございます(*^^*)
自分自身がどうしようもなく情けなく、打ち拉がれたような気持ちになることがありますね。そんな経験はない、と言い切れる人は多分いないんじゃないかと思います。
そういう自分自身も温かく受け入れるのは、難しい……。
そうなってしまったら…とことん嘆き、泣き崩れてしまうのも一つの方法だと、私も思います。
そうして気の済むまで土砂降りの雨の中でびしょ濡れになった後は、きっと心にまた微かに陽射しが差し込む。
そういうことを繰り返しながら、誰もが生きているんでしょうね。
「秋桜」、私も好きな歌です。温かく、切なくて、自然と涙が滲んでしまう曲ですね。
私は普段あまり孤独感に苛まされることがありません。
根本的にお気楽成分が多いのかも(´・ω・`)
小説という人の内面を描くことを趣味としている人間として、そういう資質は必ずしも良いとは言えないのかもしれませんが…。
それでも、思い悩む時はあります。
その気持ちをそっくりそのまま理解し共感できる人間は存在しません。
だったら日差しや風、海、そういったものに心を宥めてもらい、包み込んでもらう。
そんな風に自分を慰めてもいいのかな、と思いました。
作者からの返信
孤独感に苛まれない。それは、ひまわりちゃんが持って生まれた、最高に幸せな宝物ですね!ひまわりちゃんの作品の持っているふんわりした明るさは、そういう部分が言葉や文に現れるからかもしれませんね。
自分が愚かで、情けなく思えて仕方ない。
時には、誰もが苦しむことではないかと思います。
自分を責める時間というのは、本当に辛いものですよね。
けど…そんな苦しみから自分を救うのは、結局自分自身以外にいない。どんなに酷く自分を責めても、それはますます自分を傷めつけるだけで…。
自分を反省することが必要な時は確かにある。けれど、自分自身の不完全さをいつまでも責め立てることは、決して自分のためにはならない。
そんなことを、強く思うのです。
独りでいるときも…会社にいるときも…時と場所を選ばずに孤独が訪れる。
たまらなく不安になり…誰かに抱きしめてもらいたくなる…。
「大丈夫だよ」とでも言ってもらいたいのだろうか。
それすら解らないまま…ひたすら孤独が過ぎ去るのを待つしかない。
そんな気持ちを知っていないと…書けないことがある。
たぶん…作者も、孤独を知っているのだと感じた。
作者からの返信
私も、ドロドロの沼を一人で這っているような孤独感から抜け出せないような日があります。
人は、結局一人きりで。
どんなに誰かを愛していても、その人と一つになることなど決してできなくて。
生まれるのも、死ぬのも。思い悩むのも。結局は一人。
そんな「孤独」というものを、こんなにも辛く感じるように生まれた人間は、ずいぶん重いものを背負った生き物ですよね。神様、人間にだけ重い物を課しすぎ!…そんなことを、よく思うのです。
「苦しみは、きれいごとでは済まない自分自身の生に、必死に立ち向かっている証拠」ですね。苦しいのは生きている証拠。苦しんでいる自分ごと受け入れて愛するのは難しいけれど、愚かな自分を認めて赦して生かせたい。そう思いました。
ところで、私も視力が良くないので、メガネやコンタクト必須です。
しかし、裸眼でぼやけて見える程度が丁度良かったりします。
「はっきり全てが見え過ぎない方が実は楽」と思っているのかもしれませんね!
作者からの返信
ひいなさん、コメントをありがとうございます!(*^^*)♡
自分自身を幸せにする方法は、泥の中を必死に這う自分自身の努力を認め、生きる上で犯してしまう誤ちや罪を赦し、包むように愛してやることではないかと……そして何より、どんな時も自分を見放さないことかもしれないと、そんなことを思います。
見えないことをラクに思う。そうなんですよね。ただ、手に入るはずだった情報をぼろぼろ見落としているのだと考えると、何か大きな損をしている気もして……きっとクリアな視界でいる方が望ましいですよね!^^;(笑)