祈り
秋雨ののちの陽射しの祈るごと
「秋雨」は、「秋の雨」の傍題。
秋といえば爽やかな秋晴れを連想するが、むしろ天気が悪いことの方が多い。「秋雨」はどんよりと、気持ちも沈んで浮き立たない薄寒い雨。秋の季語。
午前中の雨が上がり、雲間から薄日が差してきた。
その力は弱くても、温かく慈悲深い眼差しのような光だ。
さっきまでの雨が残していった無数の雫が、その光に一斉に輝き出す。
生きていること。
その美しい光景に出会えた幸せに、心の奥底が静かな感謝に満ちる。
”Ave Verum Corpus (アヴェ・ヴェルム・コルプス)”を聴いている。
これは、モーツァルトが死の半年前に作曲した聖体賛美歌。
賛美歌は、不思議だ。
日本とは全く異なる文化と宗教を持った国の、祈りを捧げる調べ。
同じ時代の日本には、その音階も、その音を奏でる楽器も、何ひとつ生み出されることはなかった。
文化が行き交うようになって初めて触れることのできた、音と旋律。
けれど——
その旋律は、人間という生き物全体に共通する「祈り」という感情を、この上なくリアルに表現していると思う。
目に見えない何かに向かい、強く誠実な思いを捧げる。
——自分の犯した罪を、許されたい。自分自身の罪を、許したい。
そんな、「祈り」という行為。
それは、人間が決して逃れることのできない苦しみと向き合う一つの方法だ。
"Ave Verum Corpus"は、モーツァルト晩年の傑作。
この賛美歌の調べを聴くと、「許されている」ことを感じる。
打ちひしがれ、背を丸めてうずくまる肩を、温かいものでやさしく包みこまれるような——そんな、深い幸福感が満ちてくる。
まるで、傷口を清らかな水で洗われ、優しく温められるように——心が、静かに癒されていく。
思わず胸が熱くなり、こみ上げる涙を抑えられない。
自分に厳しくする。
それは、時に大切でも——決して、自らを安らかに満たすことはない。
自分自身を許すことは、自分を甘やかすこととは全く違う。
それを罪だと感じ、後悔し、苦しみにのたうちまわる。
その時点で、その人には許される資格がある。
——そうではないだろうか。
そうでなければ、私たちが自分自身の罪から救われる瞬間は、決して訪れないのだから。
自分自身を許す。自分を愛する。
それは、自らを救うために、絶対に必要なことなのだ。
この旋律を聴くと、そのことに気づく。
自らを許すことの安らかさ。
その幸福感に、心が満たされていく。
この賛美歌は——人間の傷だらけの心を柔らかに包む。
もしかしたら、人間の死の間際というのは、こんなふうに安らかで——
その心地良さを、作曲者は知っていたのかもしれない。
——そんなことを思わずにいられない、不思議な輝きに満ちた調べだ。
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