幸せの距離


 寄せて引きてやがてきらめく秋の海



「秋の海」は、高い秋空の下の、爽やかな海。

 浜辺も、寄せる波も、夏に比べて清く澄んで感じられる。秋の季語。



 


 秋の海は、静かだ。

 夏の賑わいをとっくに忘れたような静けさに、波の音だけが果てることなく繰り返す。


 沖の静かなきらめきを見つめる。

 少し寒い風に髪を乱されながら、砂の上を歩く。



 ちょっと冷たくても、水に足をつけてみたくなる。

 しゃがんで、欠けていないきれいな貝殻を探したくなる。


 普段は意識の遥か向こうへ押し出されているような、そんな他愛のないことが楽しい。



 秋の海の前では、無理に喋る必要がない。


 波の音がして、海がきらめいて、強い風が吹いて——


 それだけでいい。

 ただ、それを感じていればいい。——何かが、そう言ってくれている気がする。



 他にはどこにもない、とても不思議で、穏やかな時間。





 ひとの心も、海に似ている。

 思いは、時に寄せて、時に引いて——それを繰り返している。




 どんな幸福感も、片時も離れず側にあるのが一番いいのかと言えば——そうではないかもしれない。



 いつもいつも側にあれば、それはいずれ「幸せ」でなく、「当たり前」になってしまう——そんな気がする。

「当たり前」を心から大切にし続けるのは、難しいことだ。




 寄せて、引く。引いて、また寄せる。

 少し遠くなったり、また近づいたりする——その距離感が、一番「幸せ」というものを実感できる気がする。





 そして———

 悲しい記憶は、寄せたり引いたりしながら、少しずつ遠ざかり——。

 大切な思いは、引いてもまた必ず寄せて、離れてゆくことなく。


 ——そんなふうにあってほしい。




 秋の海に、さまざまな思いを静かに浮かべながら——そんな身勝手なことを考えたりする。









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