香りの記憶

  

 蚊遣かやり芳し生家の庭につごとく


 

 蚊遣は、「蚊遣火」の傍題。蚊を追い払うために植物の葉を焚いていぶすこと。除虫菊を原料とする線香が蚊取線香。夏の季語。



 香りとは、不思議なものだ。

 言葉や写真など他の情報源に比べ、遥かに強く記憶を刺激する。脳を働かせて記憶を手繰り寄せる、というより、その匂いを嗅いだ場面が反射的に脳裏に蘇ってくる……そんな感じだ。


 いつのことかもわからない、ずっと昔の一場面が、香りの刺激によって何の脈絡もなく呼び起こされる。嗅覚と脳も、きっと興味深い関係で結びついているのだろう。その辺の専門的な知識は私にはない。しかし、こんなにもちょっとした現象のせいで胸がぎゅっと切なくなる愚かさは、いかにも人間らしい。



 蚊取線香の香りは、母親が家族のために焚く、懐かしい夏の香りだ。この香りをかぐと、一気にさまざまな記憶が蘇る。



 私の生家の庭には、百日紅さるすべりの木があった。毎年夏には親しみのある紅色の花をたくさんつける。

 ある夏の日。この百日紅の下、お気に入りのピンクのムームーを着た幼い私は、ランニング姿の小さな弟とはしゃぎ回った。

 夏の太陽の明るさがひたすら嬉しくて、芝生に裸足になった。もう、そんなことだけで笑いが止まらず、飛び跳ねる足を止められない。


 庭で遊んで、水を浴びて、夕方くたくたに疲れた鼻に、いつもの蚊取線香の香りが漂ってくる。


 昼間明るく暑かった庭は、もう夕方の色に暮れかかり、涼しい風が渡っていく。百日紅が静かに揺れる。

 そんな庭をぼーっと眺めながら、薄暗い畳にぺたんと座って、ただ蚊取線香の香りを嗅いでいた。


 弟は疲れて、扇風機に吹かれながら眠っている。

 笑い上戸な母が、側で何か喋りながら小さく笑う。




 蚊取線香の少し煙たい香りをかぐと、そんな幼いある日の思い出が、今目の前で起こっていることのように浮かぶ。

 


 そして——

 どれだけ時を経ても、その夏の香りをかぐたびに、心はまた生家の庭へ飛んでいく。

 百日紅が揺れる、あの懐かしい庭へ。







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