砂浜のアコーストロニカ
洗濯機が回っている。仄かに洗剤の匂いがしている。
駅で彼女が乗ったバスを見送った後、僕は煙草を買って、少し歩いて、ファーストフードで軽い朝食を食べて、コーヒーをテイクアウトして、部屋に戻ってきた。洗濯が終われば、ベランダに上がり、服を干してしまって、それから映画を見ようと思う。
静かに、静かに心の海は凪いでいた。
あれほど、荒れ狂っていた水面は、泣きつかれて眠ってしまった子供のように、穏やかだ。
昨日の夜。よく二人で行っていたお気に入りの居酒屋で、少し早い誕生日のプレゼントを彼女に渡した。ずっと前から欲しがっていた本と、日記帳だ。日記帳の一番初めのページには、手書きでメッセージを書いた。内容は、端的に言えば「どうしようもない夜に、こいつに文字を書きなぐればいい」といったものだった。それは、僕が自分に施すいくつかの行為の中で、一番効果があったものだった。それを、僕から離れていく彼女に手向けとして渡したかったのだけれど、上手く渡せたのかは分からない。「汚い字ね」と彼女は言った。
僕のアパートに戻ってきて、彼女と激しく抱き合って、疲れ果てて、僕と彼女の好きだった音楽をかけたまま眠った。出来れば色々な話をしたかったのだけれど、何を言ってももう彼女は泣くだけだった。だから、アルコールの入った朦朧とした頭で気の利いた言葉を探すよりも、本能のままに抱き合っているほうが良かった。そして、それが一番二人にとって誠実な行動だったんじゃないかと思う。
眠っている時に夢を見た。
僕と彼女はどこか遠い場所の、あるいは外国の砂浜にいた。目の前の海はとても静かで、空は薄く細長い雲が地平線に何本もスッと消えていっているような、そんな気持ちのいい空だった。どこまでも行ける気がした。目の前は海だというのに。砂浜にはありきたりな赤と白のボーダーのパラソルが立てられていて、その下の色々なものが入った籠にはラジオがあった。ラジオからは二人で探したエレクトロニカとか、ジャズとか、そういった音楽が流れていた。
彼女は出会った当時のように長い髪で、白いワンピースを着ていた。頭には同じ色のつばの広い帽子を被っていた。それは、僕が彼女によく望んでいた格好だった。そういう映画のような気恥ずかしい服を着ている彼女を見たかったのだ。現実では彼女は一度もそんな格好をしなかった。だから、僕はこれが夢であることが分かった。
ラジオから静かに音楽が流れてくる。よく耳を凝らして聞いてみれば、それは二人が出会った順番に流れていた。オルタナティブなロック、エレクトロニカ、ジャズ、アコーストロニカ。
最後は二人で聞いた始めての曲だった。
僕はそこで、初めて、その歌詞が、別れの歌だということに気づいた。同じフレーズのピアノが何度も繰り返し繰り返し、流れていく。永遠に続くかと思われたその綺麗なフレーズも、あのピアノの独特の美しい最後の余韻を残して、消えていった。
気づけば、空はすでに茜色に染まり、海には夜が流れ出していた。彼女はそれをずっと眺めていた。僕は何かを言わなければと思って、口を開いた。そこで、目が覚めてしまった。
まだ、早朝だった。
彼女も目を覚ましていた。
僕はその呆けている顔に向かって、何か大事なことを言わなければならない気がした。
でも何も言葉が出てこなかった。
もう、何を言うべきかも分からないほどに、海は凪いでしまっていた。とても優しい海だった。残酷なくらいに全てを受け入れてしまった海だった。静かに、静かに、小さな波が打ち寄せては返っていった。
彼女がアパートを出る前に、もう一度、激しく抱き合った。最後だという気はしなかったけれど、これが何かの始まりだという気もしなかった。一番近い感覚としては、通過点だった。二人の道がこの先交わろうと、交わらなかろうと、二人の通過点なのだろうと思った。
彼女を見送るために二人でアパートを出たとき、僕はいつもしていたように、彼女にキスをした。いつもどおりに。
片手にコーヒーを持って、ファーストフードの店から、自分のアパートへ帰る道で、空を見上げた。台風が近づいているらしいが、空には薄く細長い雲が南の方へと伸びていた。頭の中でピアノのフレーズが延々と繰り返されていた。涙は出てこなかった。
あの雲を追っていけば、どこかの砂浜で、ありきたりなパラソルの下から聞こえる音楽があるはずだ。そこには、白いワンピースと、同じ色のつばの広い帽子を被った女の子がいる。そしてそれに見とれている馬鹿な男の子が居るのだ。ただただ優しい海が二人を見守っている。そんな美しい世界がどこかにある。だから、何も悲しむ必要はないのだ。
ピアノの音が、遠くの空へと舞って行く。
それは静かに静かに、消えていった。
八月の猫は笑う 水上 遥 @kukuru
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