水槽

機乃遙

水槽

 それは激しい雨の夜の事だった。俺は借家の一室で呑気に雑誌なんかを読みふけっていたんだ。日が暮れてから随分と時間が経っていたと思う。そんなときに彼女は帰ってきた。

 彼女、というのは俺のガールフレンドのことだ。といっても彼女とは未だにそんな関係にあるという自覚がない。長いこと近くにいすぎたからだと思う。

 だから俺は彼女の事を知りすぎている。彼女がこういった日に遅れて帰って来るのは、総じて『何か』を連れて帰ってくる日だと決まっているのである。そして例に漏れず今日も彼女は連れてきたのだ。妙ちくりんな姿をした『何か』を。

「おかえり」

 俺は雑誌を斜め読みしながら言った。記事の内容よりも彼女が何を連れて来たかの方が気になったのである。

「ただいま」

 と、彼女は社交辞令的な挨拶をして、いつもの様に部屋へ入ってくる。

 そうして彼女はキッチンの方で何やら水を出しつつ、ワシャワシャと何かを手でいじり始めたのだ。

 気になって仕方がなかった俺は、とうとう雑誌を床に置き、彼女のもとへ歩み寄った。

 それは、白っぽい何かであった。四肢を持った、頭のある、何かだ。毛は生えているが、大した量はない。大きさは我々の親指ぐらいだから、おそらく赤ん坊なのだと推測される。

「なんだよこれ」と俺。

「拾ったの」

「どこで」

「公園。落ちてたの」

 こうやっていつも簡潔にしか答えない。コレも彼女の悪いクセだ。

「飼うのか、これ?」

「うん。だってかわいい」

 そう言うと、彼女はその『何か』に水を当て、体をワシャワシャと洗ってやるのだ。優しい手つきで、撫でるように。すると『何か』は、ピクリとその体躯を跳ねさせた。

「いい子ね、シロ」

 どうやら彼女は早速名前をつけていたようだ。

「シロって、そいつの名前か?」

「うん。白っぽいから、シロ」

「俺に言わせれば、少し茶色がかった白だがな。完全な白色じゃないだろ。アルビノ種じゃないんだし」

「わかってるけど。かわいいからいいの」

 なんと適当な理由であろうか。だが、彼女はそういう気まぐれな性格なのである。

「飼うのに必要な道具とかは揃ってるんか?」

「明日買いに行く。トイレと、ご飯用のお皿ぐらいは用意してあげないと。お水は皿に汲んであげればいいし、お風呂はこうやってキッチンに入れればいいしね」

「死んだりしないだろうな? ちゃんと調べたのか?」

 俺は念を押すように問うた。というのも、彼女はこの間、同じように生き物を拾ってきて、結局殺してしまったばかりなのだ。だから俺は念には念を入れて釘を刺す。命というのは粗末にしていいものではないからだ。

「大丈夫。明日ホームセンターで道具を買い揃えるついでに、本屋さんで飼育ガイドを見てくる」

「本当に大丈夫か?」

 再度念押しに問うと、彼女は急に顔を俯かせた。

 こういう時の対応も決まっているのだ。彼女はなにかして欲しい時、決まってこういう物憂げな態度をとる。

「……わかった、付き合うよ」

「本当?」

 彼女は途端に顔を明るくして、俺に抱きついた。こいつの飼育法は知っているのだ。


 翌日、ホームセンターで道具を揃えた後、俺達は比較的大きめの書店へ行った。だが、結局そこでシロの飼育法は分からなかった。図書館にも行ったが、司書の女性には「そんな生き物は見たことが無い」と一蹴されてしまった。

 そんな事だから俺は、もしかしてコレは世紀の大発見ではないかと思ったのだ。だから俺は彼女に何度も言った。「シロを研究機関に送りつけよう」と。だが、彼女は頑なにそれを拒んだ。シロがかわいそう、というのだ。可愛そうもクソもないだろう。シロは確かに研究対象とはなるが、シロたちは保護対象ともなり得るのだ。俺と彼女のような素人に任せるより、生物学の専門家に調べて貰った方がいい――と、言ったのだが、やはり彼女は言うことを聞かなかった。それどころか、もっと悪い事態になったのである。

 この日もやはり雨だった。俺と彼女は傘を差し合い、二人で帰り路についた。そんなとき、近所の公園で見つけてしまったのだ。シロそっくりの生き物。それもメス。

 何故俺が雌だとハッキリわかったかというと、シロとは違って乳房が発達し、しかもペニスが無かったからである。これを説明すると彼女は頬を赤らめたが、しかしシロと夫婦になれるかも、と喜んでもいた。そして結局、このメスも連れて帰ることになったのだ。名前はシロのメスということで、シロ子になった。


それから彼女がシロとシロ子の交配を企んだのは言うまでも無い。家にたまたまあった――というより昔使っていた――水槽にシロたちは入れられ、新生活を満喫している。時折彼らが性交渉を行っているのか、嗚咽のような鳴き声を聞いた時は、俺も少しはゾッとした。

 そんなこんなで一ヶ月が経つ。その頃にはシロも大きくなるとは思っていたのだが、成長は見られない。どうやらあれで成体だったらしい。だから彼らの子供はもっと小さかったのだ。足の小指ぐらい――いや、手の親指の爪ぐらいのサイズだ。ちなみに彼らは二人の子供をもうけ、オスの方をシロ太、メスをシロ美と命名した。無論名付け親は彼女である。シロたちが自らをなんと名乗っているかは分からない。こんな可愛らしい名前ではなく、もっと仰々しい名前なのかもしれない。なんとかニアスとか、なんとかヴィウスとか。

 兎にも角にも、その後のシロたちの繁殖力というのは目を見張る物があった。中には、シロ子のように彼女が公園から拾ってきた新入りもいたが、しかし彼らはドンドンと増殖していったのだ。四人のシロ一家が八人のシロ一族になり、やがてそれは何十人ものシロ国人へと変わっていくよう。

 そのうち、元の水槽では容量が足りなくなった。たとえシロたちが親指大のサイズでも、何十匹もいれば話は別だ。いい加減新しい水槽を買ってやらねばならなくなった。だが、その頃には俺は、もうそろそろ彼らを研究施設に渡すべきなのでは、と思えてきたのだ。素人がこれだけで繁殖出来たのだ。彼らが少しでも付近の生態系に影響を及ぼしてみろ、原生種はたちまち絶滅してしまう。

 だから俺は、また彼女に相談した。だが、やはり彼女は譲らなかった。結局根負けした俺が罰ゲームとしてデカイ水槽を買いに行く羽目になったのだ。

 男一人、ホームセンターで巨大な水槽を買う姿は、何とも珍妙である。それを担いで家まで戻ってくるのだから、隣人は皆驚いた。特に長い付き合いの右隣の部屋の男は、素っ頓狂な声を上げて俺に聞いてきたのだ。

「おいおい、どうしたんだよ。そんな馬鹿でかい水槽、何に使うんだ?」

「ちょっと、アイツがね」

「また何か連れてきたのかい?」

「まあ、そんなところ。それもうまく繁殖しちまったもんで、棲家が手狭になってね。仕方なく買ってきたってところ」

「へぇー。あれかい、外来種ってやつかい?」

 彼は俺が思っていた事をズバリ当ててみせた。

 何とも返し難かった俺は、

「さてね。重いから、お先失礼」

 と言って退散してきた。

 この頃から俺の得体の知れないシロへの不信感が生まれていたことは、言うまでもないだろう。


 水槽を取り替えてやると、彼らは随分と嬉しそうになった。馬鹿でかい箱物の中で、彼らはのびのびと生活している。いつの間に彼女が買ってきたのかは知らないが、お風呂セットや水飲み場などが増えていた。トイレも随分と清潔だ。毎日掃除しているのだろうか?

 俺が仕事から帰ってくると、シロたちは喧しく答えてくれる。まるで一つの文明が生まれた様な、そんな感じだ。彼らは水槽の中に国家を作り上げたよう。まるでゲームのようで面白いな、と俺は少し思っていた。だが、彼女はどうやら違っていたようだ。

「……シロ、最近かまってくれない」

 俺が夕食の支度をしていると、彼女が水槽を眺めながらそう言った。

「シロって……そういや、一番最初のシロはまだ生きているのか?」

「ここ」

 言って、彼女は水槽の片隅を指さした。

 それは水を含む特殊な樹脂の塊であった。その中に、白い体躯が埋まっている。

「知らない間に、シロたちでお葬式してた」

「知らない間に? それはなんだ、こいつらが死者を弔うなんて真似が出来るのか?」

「わかんない。でも、今日帰ってきたらこうなってた」

 彼女は不思議そうに呟いた。

 俺はその時、何とも言えない寒気を感じていた。知らぬ間にこうなっていた? ついにアイツはボケたのかと思ったが、そうは考え難い。彼女が嘘をついた試しはないのだ。では、本当にシロたちが葬式をやったというのだろうか……?


 樹脂に埋められるシロたちの数は、日に日に増加していた。老衰で死んだ初期の彼らが、何者かによって弔われる。それと同時、自宅にあった物が少しづつ消えていたのだ。空き巣でも入ったかと思ったが、盗むならもっと金目の物を狙うはずである。では、一体誰がそんな真似をしたというのか?

 その答えは、シロが家に来てからちょうど一年が経過した日に明らかとなった。

 その日も激しい雷雨だった。俺は傘をさして、一人帰路につく。彼女はまだ帰ってきていなかった。

 鍵を開けて部屋の中へ。すると俺は、部屋の中の有り様を見て驚いた。全てが、しっちゃかめっちゃかに掻き回されたようになっていたのだ。今度こそ泥棒かと思った。だが、思った直後に俺は、ある異音に気がついた。それは嗚咽のような鳴き声。どこから聞こえてくるかは言うまでも無かろう。水槽の中から、絶叫が聞こえてきたのだ。

 俺は直ぐ様水槽の中をのぞき込んだ。だが、その時にはもう手遅れだった。

 彼らは、戦争をしていたのだ。おそらく俺たちの部屋から盗ってきたであろう物を組み合わせ、剣や槍、弓などを作り、戦っていたのだ。自らと同族の者を。互いに殺しあっていたのだ。そして、ついにシロ一族は一匹も残らなかったのだ。残ったのは赤く染まった水槽だけ。戦乱の跡が刻まれた箱物だけ。

 俺は、なぜか昔からこんなことが起きるような、そんな気がしていたのだ。彼らはいつか滅びると。

 そんな時、彼女が帰ってきた。彼女――リリアームは、頭から伸びた緑色の触覚をピョンピョンと跳ねさせ、家に入ってくる。俺はそんな彼女に、先刻まで生きていた最後の亡骸を見せた。白と茶色を混ぜたような肌、黒い頭髪、丸い二つの瞳、スラっとした長い手足。だが、それも全て引きちぎれ、血に染まっていた。

 リリアームはその姿を、可愛らしい二重瞼の一つ目で覗き込んだ。涙腺からは大粒の涙があふれていた。

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