第10話 作品における世界と現実の世界を混同しない

 これは小説を書く人の間でも意見の分かれる話ですが、現実にはありえないことを書くべきか否か、という問題があります。


 小説で描く世界というのは、とかく現実とは違うものでありまして。例えばトイレ。必要でしょうか?

 トイレと書くのは、登場人物がトイレに行くシーンを書くときでございます。ですから、密室に24時間閉じ込められても、トイレのシーンが不要なら書かないし、それで登場人物の健康に問題ございません。

 生理現象があることをちゃんと書きたいと思ったら黄信号。あなたの物語を読む人は、登場人物がトイレを我慢する様子を読みたいのでしょうか?もしそうでないのなら、たとえ100時間だろうと1000時間だろうと登場人物はトイレに行かないし、そもそも生理現象は起きません。可動部に機械油をさすロボットが炭鉱で100年間労働しても、表現として不要であれば油は垂れないし燃料切れにもなりません。書きたい話を書くべきであり、そこに現実を持ち込むべきかには注意を払うべきです。聖書だってそのあたりをよく分かっています。海は割れるし、十字架に磔になったイエス・キリストの生理現象は描かれません。死んでいたあとに蘇ったって、体は腐ってないし内臓にあるはずの排泄物や体液による黒い水もありません。御都合主義ではありますが、聖書で現実が云々と語るのは野暮というものでしょう。


 聖書を例にあげましたが、実際には様々な作品で現実世界との差異があります。

 それらは主にストーリーを面白く見せるため、テンポの操作だったり、出来事の印象を操作するのが目的です。他にも様々な理由がありますが、今は二つの理由に注目しましょう。


 テンポや出来事の印象操作のために、現実世界との差異を作るとは、どういうことでしょうか。シーンを軸に考えてみましょう。

 シーンを意識して読んでいる人にとってはお馴染みのことが多いかもしれません。

 神の怒りに触れた人々が、次々と落雷を受けて死ぬシーンがあるとします。これは落雷という自然現象の都合上、狙った人に都合よく落ちるわけではありません。しかし、作品としては登場人物に雷を落としたいし、テンポよく落ちてくれないと困ります。隣の人が落雷で黒焦げになって死に、悲鳴をあげた人が次に犠牲になる。落雷に打たれる順番やタイミングは、演出そのものなのです。現実にはありえなくても、作品内では起こるべき現象です。

 このとき、現実の雷を強く意識しすぎると、とても奇妙なシーンが生まれます。

落雷は一瞬のことですから、誰が打たれたかなど、だれも分かりません。白く光った次の瞬間、轟音と衝撃で耳が聞こえなくなり、近くの人がいきなり人が倒れます、人は火傷することはあれど黒焦げになったりしないし、突然のことに頭が追い付かないので悲鳴をあげることもなく、演出上求められるタイミングで雷が落ちたりはしません。それどころか、最初の一回が半径数百メートルに落ちてくれないかもしれません。雨が降って欲しいシーンで雨が降ってくれないかもしれません、

 実は天気の問題というのは観測記録が残っている年代や地域については確定しているものなので、日にちを指定して書いていると指摘が飛んできます。例えば、昭和36年6月19日の京都は晴れです。もしその日に雨が降った話が書きたいなら、その時点で現実とは剥離させる必要があります。むしろ、現実には起きなかったことだからこそ幻想的で心に残る雨の日として描くこともできます。そういう自由さが物語を作る醍醐味であったりします。



 次に世界観や世界設定を軸に考えてみましょう。

 魔法が使える世界。はい、実はこの時点で物理法則外のことが起こっています。質量保存の法則も多くの場合に成り立ちません。なので、魔法が存在する世界に対して、現実ではこうだからおかしい、と考えることはあまり建設的ではありません。そこで多くの場合、魔法が存在するのだから、この世界はこんな歴史を辿ったのではないかとか、魔法があるからこんな文明になるのではないかなど、別方向の想像と創造が行われることになります。

 みんなが火の魔法を無制限に使える世界では、石油プラントを作って燃料を精製する必要はないでしょうし、魔法のない世界の冬を長年温めてきた木炭や石炭にも価値がなさそうです。

 魔法で宝石が無制限に作れる世界では、宝石の価値はずいぶんと低いでしょう。

 魔法が作り出せるものと、それによる価値観の変動というのは、多くの作品で世界観や舞台設定を端的に表すものとして利用されます。けれど、それらはあくまで常道であり、必ずしも真似をする必要があるわけではありません。

 やろうと思うのであれば、魔法で火が出せるけど、木炭や石炭の匂いが好きだからみんなそちらを使うことにしてもいいし、宝石を無限に作り出せるからこそ、どれだけ美しい宝石を作れるかが評価され、美しい宝石こそが最も価値を持つ世界にしてもいいのです。

 もう気づいたかもしれませんが、世界観の作り方において、どんな設定に対しても有力な説明をつけることが可能です。まるで屁理屈をこねまわす子供のような話ですが、その屁理屈を、物語の核となる世界観にまで昇華させてしまうことが、ひとつのテクニックなのです。

 現実はこうだから、もしこうなら現実ではこうなるだろう。それはそれで正しいのです。でも、現実はこうだから、わざとこんな風にしてやろう、そういう天の邪鬼な設定もまた、それはそれで正しいのです。


 さて、ここまで説明したのはフィクションの世界でした。もしかしたら、ノンフィクションでは違うのではないか、と考える方もいるでしょう。

 ノンフィクションは現実だ。ノンフィクションは本当の話だ。そのように考える方も多いと思います。けれど残念ながら、ノンフィクション作品もまた創作なのです。もちろんノンフィクションですから、ある程度は現実に寄せて書きますが、それでも現実から離して書くことは多いです。

 普段の会話を思い出してください。周囲の人々の会話は、そのまま作品として使えるものでしょうか。周囲の人々の動作や行動は、常に描写するに値するものでしょうか? 一瞬一瞬を切り取ったとして、それを連続性のある物語に落とし込むためには、つなげるための説明が必要になるのではないでしょうか?

 そう、ノンフィクションは、実際にあったことを下敷きにした創作なのです。もし実際にあったことを真実そのままに書いたなら、それはきっと描写ではなく説明文です。ノンフィクションの本質は、出来事をいかに物語として見せるかにかかっています。


 長々としたお話でしたね。

 さて、あなたの書く小説はどんな世界でしょうか?

 それは現実の世界でしょうか、それとも、物語の世界でしょうか?

 フィクションも、ノンフィクションも、現実をそのまま書くものではありません。現実にはありえないことを、現実ではないことを物語として届ける。そのためには、現実に囚われないようお気を付けください。

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作品の完成度を高める方法 石宮かがみ @isimiya

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