第二章 3 思いがけない来客
翌朝、内務省に向かうオオクボを乗せた馬車が門を出ていってしまうと、邸内はいったん平穏なたたずまいを取りもどした。
厳重な警戒は屋敷への出入りに限られ、日中の内部の見回りはないようだった。
こわばった身体を伸ばそうと時計から出かかったところで、いきなり若い女性の使用人が入ってきて掃除にとりかかった。
「精密な機械だからうっかり触らないように」とギエモンさんの部下が強く念をおして帰ったが、出来心でガラス扉くらい開けないともかぎらない。
拭かれている間じゅう、自分の身体をまさぐられているようで、気持ちの悪いことこのうえなかった。
午前中は下の応接室にも来客はなさそうなので、おいらとリョウマは時計を抜け出し、机の陰で身体を伸ばして休んだ。
「なあ、リョウマ。おいらたち、あと何日時計の中で生活することになるんじゃ?」
「さあな。昨夜はたまたまカワジとの密談に出くわすことになったが、そうそう重要人物がやって来るものかどうか。こればっかしは相手しだいじゃからのう……」
リョウマが行き当たりばったりなのはいつものことだが、ただあきれていればいいような状況ではなかった。
敵の真っただ中にいて一刻も気の休まるひまがないし、だいいち身体がつらくてしょうがない。
「でも、政府が
「しかし、
「そうか。真相がわかっても、何の解決にもならんのか」
「そういうことじゃ。むしろ、カワジがいいかけていた開戦のきっかけとなる作戦というもののほうが気になる。それがわかれば、その時点にむけてこちらも何らかの手が打てるかもしれん。このままでは、何もかもが大久穂らのペースで事態が進んでしまうだけじゃからな」
「てことは、またカワジが来るまでここでねばるしかないのか……」
「かもしれんのう」
リョウマの頼りない返事にも、それ以上不満をぶつける言葉が見つからなかった。
白いレースのカーテンの端からそっと外をうかがうと、冷たい時雨が最後まで木の枝にしがみついている茶色の葉っぱを情けようしゃなく叩いていた。
その日は結局来客はなく、夕方帰宅したオオクボが新たに持ち帰った書類をそっくり机の中に収め、またきちんと鍵をかけて出ていっただけだった。
そうやって、緊張感と苦痛だけがえんえんとつづく、実際はひどく退屈で変化のない時間がおいらとリョウマの上を通りすぎていった。
世の中でこんな奇妙なことをしている人間は、まちがいなくおいらたちだけだろう。
「
ひまにまかせて、リョウマがそんなことを教えてくれた。
「先生といえば、ショウザン先生たちはどうしてるだろう。
おいらがいうと、リョウマはハッと何かを思いついたように顔を上げた。
「おお、そりゃもちろんだとも!」
「何が?」
「先生が忙しくしとるってことがじゃ。雪に閉じこめられてストーブの前から離れなれなくなるような、年寄りくさいお人ではないからのう」
「まあ、常人ばなれした人物ではあるよな」
「美里さんも、そんな先生に振り回されっぱなしだろうよ。眼に見えるようじゃ」
リョウマはクククッと、思い出し笑いでもするように笑った。
いったいリョウマはミサトさんのことをどう思っているんだろう?
おリョウさんは、
革命に夢中になっていたリョウマを、陰からささえたりかくまってくれたのかもしれないし、落ちこめばなぐさめてくれた人もいるのだろう。
おリョウさんのように、娘のおいらを生んだのにリョウマを恨んでいるような人もいる。
政府と薩磨の衝突が確実に迫りつつある。
リョウマがそこに割りこんでいくことになるのも、だんだんと現実味をおびてきている。
おいらはどこまでもついていく覚悟でいるが、「おまえさえいなけりゃ」とはいわれないまでも、「おまえはここまでじゃ」と宣告されるのではないかと思うと気が気ではなかった。
そして、それ以上の恐怖は、実は、戦いが終わった後リョウマがおいらのほうを見向きもせず、どこか遠くへ去っていってしまうという想像につながっていた。
その先にいるのは、やっぱりミサトさんなのだろうか。
だけど、ほんとうに、ミサトさんはリョウマにとってどんな存在なんだろうか……。
肉体的な苦痛とともに、息苦しい闇に閉ざされた空間でときおり脳裏をかすめるそうした妄想が、おいらを苦しめていた。
それ以外の時間はほとんどうつらうつらと夢と現実の境目を行ったり来たりしている。
二日、三日と過ぎていくうちに、時計の中にいるくせにだんだん時間の感覚があやしくなり、しだいに昼夜の区別さえ瞬時につかないようになってきた。
そんな朦朧とした日々の間にも、来客がなかったわけではない。
イトウは文官で大蔵卿、ヤマガタは軍人で陸軍中将。
どちらもリョウマからさらにいくつか年下なのだろう。
胸に秘めた理想とか、カワジのような職務に対する異常な執念めいたものは感じられなかった。
オオクボに忠実に仕えて職務を遺漏なくこなすことしか頭にないようで、彼らの漂わせている緊張感は、オオクボという強大な権力を持つ上司に対するものにすぎなかった。
オオクボはそれに気をつかうようなそぶりも見せず、黙って無愛想に報告を聞き、事務的に指示をあたえて早々に追い返した。
カワジとの密談を聞いた後では、驚くような目新しい情報はなかった。
オオクボは、いざ薩磨との開戦となったら、戦況に迅速に対応するために政府機能を一時的に
また、ヤマガタを内密に政府軍の総司令官に任じ、薩磨軍がとりそうな経路の検討と対応策の立案を急ぐように指示していた。
「あいつらは能吏にすぎんな。つまり、能力や野心は感じられるが、出世と権勢欲にとりつかれちょるだけじゃ。だが、そういうやつにかぎって、いざ自分の利益になるとなったらどんなことでも平然とやってしまう。そこが怖いところなんじゃ」
リョウマは自戒するようにつぶやいた。
オオクボの手足となって現政府を支える顔ぶれが具体的にわかっただけでも収穫というべきなのはわかったが、おいらは精神的にも肉体的にももう限界が近かった。
やつらの事務的で平板な口調や書類を棒読みするような細かい内容は退屈きわまりなく、気にくわない連中だという印象しか残らなかった。
冷水をぶっかけられたような気がしたのは、ある夜ふと妙な気配を感じてピクリとまぶたを持ち上げたときだった。
のぞき穴のむこうからこちらをじっと見つめる一対の冷ややかな眼ざしと出会ったのだ。
おいらはてっきり、こちらとピッタリ視線が合わさっているとばかり思ったが、どうやらそうではなく、鏡の扉が仕込まれた箱の中を一心にのぞきこんでいるらしい。
その眼光が今にも何か不審なところを見つけてしまいそうで、おいらも眼をそらすことができない。
リョウマは気づいているのかいないのか、ピクリとも反応しない。
(見憶えがある……)
距離が近すぎるのと相手が手にしたロウソクの位置のせいで、まったく顔の見分けがつかなかったのだが、微妙な眼の動き方にどこか記憶があった。
そのとたん、むこうがスーッと手を伸ばしてきた。
スーツの袖口から手首をぐるぐる巻きにした白い包帯が見えた。
(オグリ!)
やっぱりそれは、ヤタロウの部下のオグリタダナリだった。
おいらは思わず息をのんだが、ガラス扉を開けようとした手に痛みが走ったのか、オグリは秀麗な顔をしかめてその手を引っこめた。
「待たせたな」
オグリの背後から声がして、ちょうどオオクボが入ってきた。
「時計仕掛けに興味でもあるのかね?」
「いいえ。でも、以前にこんなものはありませんでしたよね」
「どういう風の吹きまわしか、
オオクボは皮肉まじりにいった。
「樹戸といえば、先日の
オグリはカワジとはちがい、勝手に木椅子を引き寄せて座りながらいった。
二人が時計のそばを離れたことでおいらはホッとひと息つき、リョウマの足をつついた。
ビクッと反応が返ったところをみると、やっぱり居眠りでもしていたらしい。
イビキがもれたりしたら、あやうくここにいることがばれるところだった。
「ほう、樹戸も池之畑に現れたのか。そういうことがあったのなら、すぐに知らせてくれなければこまるではないか。あの会合のことは、
オオクボもゆっくりとひじかけ椅子に腰を下ろした。
「わたしは河路とちがって、あなたの部下でも密偵でもありませんからね。報告する義務などない。だいいち、会合の情報は、もともと
オグリはずいぶんくだけた口調で、その分政府高官であるオオクボに対しては尊大とさえ思えるような態度でいい返した。
「しかし、今夜きみが現れたのは、頼んでおいた例の件の報告だけではあるまい。たぶんあの会合でよっぽど興味深いことがあったにちがいない。そのことを私に伝えたかったからだろうと思うがね。ちがうか?」
オオクボのほうは、余裕たっぷりにオグリのいい草を受け流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます