第二章 4 陰謀の成果

「集会の前半はね、中柄ナカエ兆民チョウミンというみすぼらしい思想家だか学者だかの、ありがたい『人権論』の講義でした。板籬イタガキだの友利ユリだのといっても、民権派などどうせ不勉強な連中ですからね、思想の本場ユーロピア仕込みの論理を聞いて、みなえらく感激してましたよ」


「それなら私もぜひ拝聴したかったな」

「ええ、思想家の言葉ほど耳に心地よいものはありません。彼らには論理の一貫性こそが大切なのであって、その点ではまちがったことなどいうはずがありませんからね。ですが、実際のフランセ革命が、あんな理屈のおかげで成功したなどと思ったら大まちがいです。あれの本質はブルジョア革命なんですよ。日ノ本ヒノモトにはまったく存在しない巨大資本家たちが、聖職者や王侯貴族が持つ特権や横暴をきらい、自由な経済活動と海外進出を求めたことが背景にあるからなんです。日ノ本ではまだとうていそんなことは起こりえない。人権論なんてものは、単なる合言葉や旗印にすぎなかったのです」


 オグリの鋭い分析は、欧米の暮らしを実際に体験したおいらだからこそ、子どもながらにもなるほどと納得できるものだった。

 オオクボにはそんなことは先刻承知のことらしく、おだやかな笑みを浮かべてゆっくりとうなずいた。


「しかし、そうした基盤のない貧しい日ノ本だからこそ、思想によって突き動かされた革命が起こる可能性もあるのではないかな? サムライというものは、もともと世界にも類のない潔癖で理想家肌の戦士なのだぞ。気位の高さや使命感は、話に聞く西洋中世の騎士以上だろう。それがまだ百万以上もいる」

 オオクボは、カワジのときとはうって変わり、若いオグリとの議論を楽しむかのように悠然と反論した。


「たしかにそのとおりですね。まあ、頭が固くて、思想といえば〝尊王攘夷〟止まりの連中に、人権論など吹きこんで眼が覚めればということですが。しかし、あいつらは廃藩置県で俸禄を完全に失って、そんな空論では生きていけない現実を身にしみて知ったのです。動かされる者の数など知れていますよ。それよりむしろ、攘夷、攘夷と騒いでいたくせに、外国の脅威をすっかり忘れてしまっているようだ。反乱につけこんで攻めこまれるようなことになれば、革命も何もあったものではないのに」


「まったくだ。世界は今や、日ノ本のような弱小国家が、一国の中に閉じこもって安逸をむさぼっていられるような状況にはない。『新政府は攘夷をやらぬ』とまだ不満顔でいう連中も、列強の間をうまく調整してどこか一国が突出して侵攻してこぬようにさせることのほうがどれほど難しいか、それがまったくわかっていないのだ。そういう者をサムライとは呼びたくないものだな。……では、例の交渉のほうは?」

 オオクボは机の上に上半身を乗り出し、ひじをついて両手の指を組み合わせた。

 どうやら、〝例の件の報告〟といっていた肝心の話題に入ったらしい。


「手紙だけではらちが開きませんからね、用事をでっち上げて、湘海シャンハイまで出張しましたよ。巌崎イワサキさんに怪しまれないようにするのが大変でした」

「それはご苦労。で、結果はどうなった?」


「なんとかまとめました。日ノ本で大きな内戦が勃発した場合、イグランド、フランセ、ドーチェスの三か国は、開戦から一〇〇日以内に介入してくることはありません」

「一〇〇日か……まあ、妥当なところだろう。よくやってくれた。しかし、内戦だからな、対外戦争のようにはっきりと宣戦布告の期日がわかるわけではない。その判断はどうなるのだ?」

「わたしは外交官でもなんでもありません。交渉の相手たちも、現場の代表として、おたがい『まあ、あいつなら』と認め合った者同士というにすぎません。これは、密約――いわば口約束でしかないのです。つまり、情勢の推移をにらみながら、各国が自分で勝手に行動できる余地をわざと残してあるということです」


「表沙汰にはできぬ性質のものだからな。すると、おおよそ一〇〇日となったあたりで、おたがいが出方をうかがい合う構図になるということか。要は、われわれができるかぎり早期に、戦況を決定的に有利なものにしてしまうことだ」

「ええ。ぐずぐずしていたら、やつらの介入は薩磨サツマへの支援という形にもなりかねません。どちらが正当な政府かなどということは問題ではない。利益が見込めるほうにつくのが当然です。その心配を一〇〇日延ばしたにすぎないのです」

「しかたなかろう。合意ができたことだけでも満足せねば」


「ただし、各国とも、『通商に支障をきたさぬこと』という条件つきでの合意です。船舶の安全はもとより、戦争の長期化によって貿易品の不足などが生じないようにしなくてはなりません。これだけは、くれぐれもよろしくお願いしますよ」

三樫ミツガシにとっても事情は同じだろう。長埼ナガサキなどの貿易港には、とくに厳重な警戒態勢をとらせるようにしよう。……そうなると、残る問題はもう一か国の動向だな」


「そうなのです。残念ながら、湘海ではついに接触することができなかった……」

 オグリは唇をかみ、いらだたしげに長い前髪をかき上げた。

 ボコイに引っかかれた傷跡が、まだ赤い筋になって残っていた。

坂元サカモト龍馬リョウマをアリョーシャン列島に迎えに行ったとき、カラホトで入手した情報では、オルシアの上層部は薩磨の動向にかなり注目しているようでした」


 リョウマの名前が出てきて驚いた。

 だが、オグリがオオクボとこれだけ親密な関係にあるなら、当然おいらたちのことはとっくに知られていたにちがいない。

 オオクボのほうも平然と話を聞いている。


「列強のうち、オルシアだけは特殊な事情をかかえている。大海に乗り出すための不凍港を獲得するという永年の悲願だ。やはり、薩磨が反乱を起こして日ノ本じゅうが混乱におちいれば、そのときを狙って北海堂ホッカイドウを侵略するつもりか……」

「そうですね。戦争が長引いて、全国六か所に駐屯する政府軍がすべて玖州キュウシュウ方面に投入されるような事態にでもなったら、オルシアは手薄になった北方の守りをついて動きだす可能性が大です。それでも薩磨を叩くおつもりですか?」

 オグリは机の上にひじをのせ、興味深そうな表情でオオクボに迫った。


「しかし、オルシアの独走を、はたして他の列強が黙って見過ごすだろうか」

「そこです、いちばんの問題は。さきほどの三か国合意は、あくまでも内戦への不介入ということです。他国からの侵略となれば、これはまったく別の話です。日ノ本があわてて頼みこむまでもなく、三か国は黙ってはいないでしょう。しかしそうなると、オルシアを撃退するという名目で、こんどはやつらが北海堂に居座りかねません。彼らにいったん駐留を認めれば、ちょっとやそっとではもう動きませんよ。資源も豊富な広大な未開の大地が、なしくずし的に乗っ取られてしまう恐れがある」


「甘い期待をしてはならぬということだな……」

 オオクボは腕組みして、深く考えこむ表情になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る