第一章 8 ヤタロウの執念

「親切だと? いや、そういうことではないな……」


 ヤタロウは細い眼をさらに細め、何かを探すように宙に視線をさまよわせた。

「わしは土左トサの最下級の武士の息子だ。同じ下級でも、龍馬の生まれた家は城下で指折りの大金持ちじゃった。あいつは、人の前にはいつくばるような経験をしたことがない。わしは毎日そうせねばならんかった。しかもあいつは、下士とさげすまれたり、脱藩者とののしられたときですら、人の顔色をうかがったり、屈辱的な思いをしたことはあるまい。どうして龍馬はそんな風でいられるのだろうと、わしはずっと不思議じゃった」

 おリョウさんは、つぶやくように語るヤタロウを、けげんそうに見やった。


「才能のあるなしということなら、わしは龍馬にすこしも引けをとらんつもりだ。あいつは現実をまともに見ず、大言壮語し、遊びたわむれるように世の中を渡ってきた。わしはその現実を慎重に見きわめ、相手を見て言葉を選び、真剣に世間と向き合おうとしてきた。あいつとはまるで正反対にな。それは、ずっと龍馬への抜きがたい反発心、対抗心からだと思ってきた……」

「そのとおりだったんだろう?」

 おいらが問い返すと、ヤタロウはゆっくりと大きな顔を横に振った。


「あるとき気づいたんじゃ。わしは結局、龍馬の背中を追いつづけてきたのだとな。前を行く龍馬の肩ごしに未来を見て、龍馬が足を向ける方向へとついていった。ただ、やり方や向き合う態度が、あいつとはまるで違っていただけなのだ。わしは慎重に、綿密に計算しながら、用心をおこたらず、機会という機会をすべて生かすことを心がけた。その結果としてかちえた成功じゃった。そして、日ノ本の海運は今やわしの手中にある。維新後の日ノ本が産業や経済の飛躍的な発展をとげつつあるのは、その海運あってのことだ。しかし、広い海を最初に無限の可能性をもった新天地と見たのは、リョウマならではの画期的な発想じゃった。やつがわしの手本だったことはまぎれもない事実じゃ」


 おいらは驚いた。

 さっきの会談では、新国家建設の理念を考え出したのはリョウマだということだった。

 ヤタロウは今、その新国家の隆盛をささえる海運までが、リョウマの独創だったといっている。


「リョウマは、ほんとにそんなえらいやつだったのか……!」

「かんちがいしてはいかんぞ。最初に思いついたり、手を出そうとする者はたしかにすごい。しかし、それをしっかりと現実のものに作り上げていくことこそ肝心なんじゃ。龍馬はなんでもかんでも中途半端にしてしまう。いまだにふらふらと革命なんぞという見果てぬ夢を追っとるのだろう。わしは、それを見とると腹立たしくてたまらん。おまんのことも、それと同じことなのだ」

「おいらが、リョウマにちゃんと育てられていないっていうのか?」

「そういうことだ。龍馬にはできん。わしだからできるんじゃ」

「えらい自信じゃな」

 それは皮肉というより、そこまでいえるのかという驚きだった。


「いいかな? 世間の人間は、龍馬が考えちょるような自由だの平等だのを求めちゃおらん。今日よりいくらか楽で、他人よりわずかでもましな生活ができさえすればそれでいいんじゃ。全国民のだれもが持っているその小さな欲望が、大きな塊となって世の中を推し進めていく。国への誇りだの忠誠心なんてものも関係ない」

「ほう」

 おいらにとって、それは初めて聞く意見だったが、実にわかりやすかった。

「わしは海運だけでなく、さまざまなものを生産する工業から、商業から、金貸しまで、国を動かしていくために必要な原動力となるすべての仕組みをつくり上げていくつもりじゃ。日ノ本ヒノモトの栄光は三樫ミツガシ財閥の繁栄とともにあり、日ノ本でいちばん価値ある国民は、すなわち三樫に貢献している人間であるというような時代が、かならずやって来る」


「リョウマのホラ話にも見劣りせんほどの大ボラじゃな」

「龍馬のホラと似ているのは当然じゃ。発想の元はそこにあるんじゃからな。だが、わしはそれをけっして夢想では終わらせん。国民は、だれもが三樫がつくる家や街に住み、三樫が運行する乗り物に乗り、三樫製のものを手に入れてありがたがるようになるのだ。三樫は、日ノ本の上にピッタリ重なった大組織となる。その頂点に君臨するのがわしじゃ。政府や役人は、その下でせっせとわしらの仕事をつくり、独占的に金をもうけさせてくれればいい。わしらに文句をたれるやつらを厳しく取り締まることとな。そうやって、わしはいつか、善も悪も超越した存在となることだろう」


 ヤタロウはとんでもないことをいっている。

 こいつはなんと、日ノ本の支配者になるつもりでいるのだ。


「驚いたか? わしはその恩恵を、まず最初におまんにあたえてやりたいんじゃ。おまんを日ノ本一の幸福な女性にしてやりたいと思っちょる。もう一度洋行したければ、こんどは豪華客船に乗り、汽車の特等のコンパートメントを一人占めし、各地の最高級ホテルのスイートルームに泊まり、六頭立ての馬車で観光し、ゆくゆくはパレの社交界にデビューするんじゃ。どうだ、夢のような話だろう。だが、この巌崎イワサキ弥太郎ヤタロウならその夢を楽々とかなえてやれる。そうだ、かならずかなえてやれるとも……」


 そのとき、テラスに面したカーテンがふわりと揺れ、外側にむかって大きく開かれたフランセ窓のところに長身の人影が現れた。

「そんなことでわしに勝ったと思いたいのか、弥太郎」


「リョウマ!」

 おいらはソファから立ち上がり、そっちに駆けだそうとした。

 だが、横合いからオグリがサッと手を伸ばし、おいらの身体を抱きとめた。


「どこから入ってきたのです?」

「裏口からさ。こいつが教えてくれたんじゃ。まさか弥太郎の本邸がこんな近くにあろうとは、思ってもみなかったぞ」

 リョウマは、肩に乗ったボコイのあごをくすぐりながらいった。

 大きなしっぽがまだ濡れているのがわかった。やっぱりボコイは、さらわれたおいらの後を追いかけてくれたのだ。

 この建物に連れこまれたのを見届け、それから急いでリョウマを呼びに行ったにちがいない。


「よう入れたな。庭には犬が何匹も放してあったのに……」

 ヤタロウが、苦々しげに歯がみしながらいった。

「ああ、ドーベなんとかっちゅう真っ黒くてどう猛なやつのことじゃな。さいわいなことに、番犬を黙らせることなんぞお手のものの人間がいるもんでね」

 リョウマがニヤニヤしながらいっているところに、その背後からヒジカタがべっとり血のりのついた剣をぬぐいながら悠然と入ってきた。


「家宅侵入、器物損壊――今はそういう罪状があるのを知っていますか? それに、正当防衛という理由があれば、こういうものを使うことだってできるのですよ」

 オグリはおいらを片手で押さえつけたまま、懐から黒光りする拳銃を取り出し、リョウマの胸にピタリとねらいをつけた。


「さらわれた自分の娘を取り返しにきたんじゃ。正当な理由はこっちにこそある」

 リョウマは向けられた銃口にたじろぎもせず、平然といった。

「残念ながら、こちらにも母親のお龍さんがいます。誘拐したことにはなりませんね」


「おんし、尾栗オグリといったな。幕臣に尾栗上毛介コウズケノスケ忠順タダマサちゅう危険な切れ者がおった。徳河トクガワ幕府の存続をはかるためといいつつ、そいつは日ノ本をあやうくフランセ一国に売り渡してしまうところじゃった。おんし、その息子じゃろう」

「だったらどうだというんです。あなたがいない間に、日ノ本は出自で差別される世の中ではなくなったんですよ。ましてや、親のしたことなどわたしとは何の関係もない」

 オグリは秀麗な顔を引きつらせ、憎々しげにリョウマをにらみ返した。


「いや、いかにも小才がきいて、野心を秘めた生意気なツラつきをしちょると思ってな。弥太郎、せいぜい飼いイヌに手をかまれんようにせいよ」

 リョウマは挑発するようにいう。

「よけいなお世話だ。有能な部下に恵まれるのも、経営者本人に才覚と人徳があってこそじゃ。おまえにはよからぬ仲間はおっても、しょせん一匹オオカミにすぎん。一人でやれることなんぞたかが知れちょるぞ」

 ヤタロウが吐き捨てるように言い返した。

「そうかのう。自由で身軽だからこそできることもあるぞ。おまえみたいに金太りしては、他人の娘をかどわかして自分の思いどおりに育てようなんていう悪趣味なことしか頭に浮かぶまい。一匹オオカミには一匹オオカミにしかできんことっちゅうもんがあるんじゃ。ところが、オオカミに鋭い牙と強靭な脚が欠かせんように、わしにもどうしても必要なものがある。愛刀と、娘と、そしてこのボコイじゃ」


 リョウマがいい放ったとたん、ボコイがその肩からピョンと飛び上がった。

 オグリの拳銃がとっさにボコイの動きを追い、銃口が火を噴いた。


 ガイイイイイーン――

 金属的な轟音が高い天井に響きわたった。


 だが、その寸前、リョウマがすばやく抜いた剣の背がオグリの手首を叩いていた。

 銃弾はあらぬ方向にそれ、シャンデリアのガラスが粉々に割れてロウソクが何本も落下し、拳銃も後を追うように吹っ飛んだ。


 ボコイは前方に差し伸ばされたオグリの腕を飛びつたい、その顔を思いきりひっかいた。

「うわっ」

 たまらずオグリの力がゆるんだすきに、おいらはその腕を振り切ってリョウマのほうへと走った。

 ヤタロウは、おリョウさんをかばいながら部屋の隅へ逃れた。


 すると、廊下のほうからいくつもの足音があわただしく交錯するのが聞こえてきた。

「待て!」

 制止しようとする声が聞こえたと思ったとたん、扉が乱暴に大きく引き開けられた。


「龍馬さま!」

 そこに現れたのは、抜き放った小ぶりの剣を手にしたサナコさんだった。

 そのすぐ後ろから、警備の者らしい何人もの殺気だった屈強な黒スーツの男たちが追いすがってきた。

「ご無事ですか? 言子ちゃんは――」

 剣で後方の男たちを牽制しながら、サナコさんが眼を引きつらせて問いかけた。


「大丈夫。今助け出したところじゃ。犯人はもはや抵抗できまい」

 リョウマは、ボコイに引っかかれた額から血をしたたらせ、剣で叩かれた手首を押さえて呆然と立っているオグリを眼で示した。

 壁に当たって落ちた拳銃は、すでにヒジカタの手に収まっている。


「どけ、どけ。天下の三樫の総帥たる巌崎邸で発砲騒ぎとは、なんたることだ!」

 扉口に固まった男たちをかき分け、羽織を重ねた和服姿の男が大声で怒鳴りながら入ってきた。

「カ、カツ……!」

 ヤタロウが細い眼をせいいっぱい見開いた。


「おうよ、いかにもカツ海舟カイシュウさ。巌崎さん、状況はだいたい見当がついてるぜ。誘拐犯の足取りが巌崎邸に向かってたことで、すぐにわかった。龍馬父娘にはあえて教えてなかったが、あんたがお龍さんを数年前から同居させてるという噂は聞いている。だが、小さな子どもまで無理やり巻きこもうってのは、大富豪の道楽にしてもちょいと行き過ぎってもんじゃないかね」

「身内のもめごとだ。いくらあんたでも、口出しする権利はないぞ」

「そうかな。発砲まであったのだぞ。これはもはや事件だ。この醜態が表沙汰になってはこまるのは、どう考えても世間体を気にするそちらだろう」

「ウムム……」

 ヤタロウは地黒の顔をまっ赤に紅潮させてうめいた。

 後ろのおリョウさんは、もう知らないとでもいうようにそっぽを向いている。


「それとも、外に待たせておるお歴々にも入ってきてもらおうか。あんたを大立者にしてくれた土左の伍藤ゴトウ象二郎ショウジロウもおるぞ。はたして彼らは何というかな?」


 カイシュウ先生が宣告するようにいうと、ヤタロウはついにガックリと膝を折った。

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