第一章 7 おいらを生んだ人

「久しぶりじゃのう。元気にしちょったか、お嬢ちゃん」


 ヤタロウは、おいらに向かい側のソファを示して座るようにうながしながら、ネコなで声の土左トサ弁でいった。

「黙って船から消えてしもうたりするもんじゃから、わしはおまんのことをずいぶん心配したんじゃぞ。あの無鉄砲なリョウマめは、何をしでかすかわからん。ひとがせっかく助けに行って、日ノ本ヒノモトに連れ帰ってやったのに……」


「リョウマのところへ帰してくれ。あいつが心配してる」

「どうかな。今ごろ、まだ自分の娘がいなくなったことにも気づかずに、ろくでもない連中とワアワア騒いじょるこったろう。すくなくとも、あんな危険なやつらとつき合うようになっては、もうお嬢ちゃんはいっしょにはいられんよ。西のほうでつぎつぎ物騒な反乱が起こっちょる。リョウマはそのうちおまんを放り出して、戦いの中に飛びこんでいっちまうにきまっちょるわい。悪いことはいわん。このままここにいなさい」

「ここ……?」

 おいらはあらためて高い天井の豪奢な部屋を見まわした。


「わしの本邸じゃ。あんたが何不自由なく暮らせるだけの設備がととのった部屋を用意してある。明日にでもさっそく日ノ本橋の三古志ミツコシ呉服店を呼びつけて、おまんにお似合いのかわいらしい着物や洋服をたくさんそろえさせるようにしよう」

「おいらはずっとこの格好で通してきて、何もこまってないよ。そんなものはいらん」

「それは、龍馬なぞといっしょに浮浪者のような生活をしていたからじゃ。これからはそういうわけにはいかん。新しい生活を始めるんじゃからな」


「新しい生活だって? なんで、おいらが親でもないおまえと暮らすんだ」

「ああ、そうか。おい、忠成――」

 ヤタロウが合図すると、オグリがいくつもある大扉のひとつを開けて姿を消し、まもなく眼のさめるような深い紫色のドレスをまとった女性をともなって現れた。


「こちらは、おリョウさん。おまんの生みの親じゃ」

 ヤタロウは、女性を自分の横に座らせて紹介した。

 女性は優雅なしぐさでお辞儀し、大輪の花が咲くような笑みをたたえておいらを見た。


「この子があたしの娘なの? 一〇年も見ないとこんなに大きくなってしまうのね」

「赤ん坊が自分一人で大きくなれるわけがないだろ。リョウマが育ててくれたんじゃ。あんたは関係ない」

 おいらがいったとたん、女性の表情はガラリと変わり、上品な見かけとは裏腹な、つっけんどんなくせに妙にネチっこい口調で吐き出すようにいった。

「まあ、実の親にむかって、この子はなんてことをいうのかしら。育てられなかったのには、それなりのわけがあったにきまってるでしょ。その理由のひとつは、もちろん、あんたがくっついているあの男よ。あいつさえちゃんとしていてくれたら……いいえ、あいつがちゃんとしてくれようとしたことなんて、一度もなかったわ。つかのま眼の前にいるときだって、いつも気持ちはどこか遠いところへ飛んでいた。革命なんていう絵空事だったらまだまし。どうせ、千波チバ道場のさな子だとか、土左トサの家老の娘のお多鶴タヅとか、長埼ナガサキの芸者のおトモとか、ほかの女のことを思い浮かべてニヤニヤしていたのよ。あたしのことなんか、下働きの女か、ひまつぶしの相手くらいにしか……」


「おいらは、あんたに捨てられたことをうらんじゃいないよ。母親がいるなんて知りもしなければ、ましてやさみしいなんて思ったこともなかった。どこかに母親がいるって教えられてからだってそうだ。リョウマが父親だというのがまちがいないなら、おいらには親はリョウマだけでたくさんじゃ」

 おいらは、おリョウさんがリョウマについてひどいことをいいつのるのをさえぎって、冷たくいい放った。

 ずっと心の中で考えていたことだから、自分でも驚くほどそんな言葉がスラスラと口をついて出た。


 おリョウさんは、おいらをすごい眼でにらみつけた。

 細おもての美人で、眼鼻立ちはすっきりとととのい、口元はきりりと引きしまっているのに、うっすら浮かべた皮肉っぽい笑みにえもいわれぬ色香が漂っている。

 そういう点では、ミサトさんや、サナコさんや、カツラの奥さんのイクマツさんでもかなわないだろう。


「あなた……ええと、なんていったかしら……言子コトコさん? ふん、いかにもあいつがつけそうな妙な名前だこと。よくわかったわ。それがあなたの本音なのね。なんで子どもなんか産んだんだろう。玖州キュウシュウの温泉に連れてってやるなんていわれて、ついその気になったのがまちがいだったわ」

 おいらはハッと思い出した。

 ボコイと出会った火山島で、リョウマが玖州に温泉旅行に行った話をしかけ、途中で口ごもってしまった。

 その連れがおリョウさんで、おいらはそのときにできた子どもだったのだ。


 おリョウさんは、笑みがすっかり消えても、それはそれでゾッとするような美しさだった。

 おそらくリョウマは、絶体絶命の窮地に追いこまれたときにでも、逃げ場のないこの凄絶な美しさを見せつけられたのだろう。

 そうでなければ、こんな危険な相手を結婚相手に選ぶはずがない。

 そのとききっと、この女が自分の運命的な相手にちがいないと信じこんでしまったのだろう。


「待て、お龍。少々邪険ないい方をされたからって、真に受けちゃならん。この子はまだ一〇歳だぞ。龍馬に、ろくでもないことを吹きこまれたにきまっちょる」

 ヤタロウがおリョウさんを押しとどめ、なだめるようにいった。

「何も吹きこまれてなんていないぞ。船を脱出してから、おまえたちのことはひと言も話に出たことはない」

「だったら、おまんの思い込みにすぎんとは思わぬか? そうではないか。おまんは想像を絶する異常な生い立ちをしてきた娘だ。自分の幸せとか、安らぎとか、満足とか、考えたこともないのだろう。人とは、だれに教えられなくてもそれらを求めるものだ。そういう本能さえ押し殺されてしまっとるんじゃ」

「そんなものはおいらには無縁だ。それでかまわん」

「それが思い込みだというんじゃ。眼を引かれたきれいなものをそのまま身にまとい、うまそうだと思ったものを心ゆくまで味わい、気に入ったものを自分の手元において楽しんでみい。しばらくここで暮らし、そういう喜びを経験してみれば、自分の本心が欲していたものが何なのか、すぐにわかることだろう」


「どうして、おまえはそんなにおいらに親切にしてくれようとするんだ?」

 リョウマがいったように、ヤタロウがおリョウさんに〝よこれんぼ〟し、彼女の気を引くためにおいらを利用しようとしてるのだとばかり思っていた。

 だが、おリョウさんのようすを見ていると、ぜがひでも娘を取りもどしたがっているという風ではない。

 おリョウさんにおいらを手元にとどめておく動機があるとすれば、そのことがリョウマに対する当てつけか復讐になるからというにすぎないだろう。


 だが、ヤタロウには、どこか奇妙なところがある――おいらはそう感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る