第二章 Grandfather's Clock ノッポの古時計
第二章 1 大時計が見た光景
王宮前広場から警視庁を通り、
それが、前年に完成したばかりの内務卿の
さすがに警備は厳しく、数人の門衛が、届けられた大きな荷箱のふたをわざわざ開けさせて中身の品物を確認した。
やっと大八車を正面玄関前の車寄せに着けることが許され、そこから運搬夫二人と技術者一人が中身を慎重に取り出して邸内に運びこんだ。
「……いいえ。贈り主の
「本当か?」
老執事は、技術者からいわれて当惑顔になった。
この日大久穂邸に届けられたのは、人の背丈よりも大きい立派な置き時計だった。
人の出入りが多い広い応接室に置くのこそがふさわしそうな重厚な逸品だったが、贈り主の意向――しかもそれが
「しかし、うるさくはないのか? ご主人がお一人で静かに書き物や読書をされたり、他聞をはばかって小声で来客と会話されたりもする場所なのだから……」
「その点はご心配なく。見かけは骨董品のようですが、
〝ドン〟とは、時計など持たない庶民に時刻を知らせるために、毎日正午に打ち上げられる大砲の音のことである。
有名な蟻右衛門の名まで出されてそういわれれば、執事もそれ以上固執することはできなかった。
大時計は予定どおり二階に運び上げられ、書斎の壁際にすえつけられた。
暦は一二月に入ろうとしている。
その晩も、速い雲の流れが大久穂邸の書斎の窓に射しかかる月の光を数分ごとに明滅させていた。
すえつけられたばかりの大時計が心地よく響く低い音で一〇時を告げてしばらくすると、一人の男が書斎に入ってきた。
身体にぴっちりと合った細身の制服姿をしており、角ばった制帽を脱いでそれをさも大切そうに来客用の木椅子の座面に置いた。
そのすぐ後に手燭をかかげて入ってきた長身の人物が、大久穂利通だった。
家にいても三つ揃いのスーツ姿で、ネクタイまできちんとしめている。
相手に会釈もせず、大きな執務机を回りこんでひじかけ椅子に座った。
「かけぬか?」
オオクボが、帽子が置かれた机の前の椅子をあごで示した。
「いえ、このままでかまいませぬ」
制服の男がいい、椅子をそっと横にずらしてそこに立った。
オオクボに対する敬意というより、椅子の上になど安楽に落ち着いている気はないという風情だった。
机の端に置かれた手燭の光にそいつの顔が浮かび上がる。
薄い唇の上にドジョウひげをたくわえた大警視・
「潮州から連絡が入りました。
「やったか」
「はい。閣下のご指示どおり、弁明の機会もいっさいあたえておりません」
つまり、反乱を起こしたこと自体が国家に対する極悪犯罪であり、犯罪者側の言い分や嘆願などまったく取り上げるつもりはない、という権力者側の一方的で居丈高な意志の表明なのだ。
オオクボは、それでいい、というように小さくひとつうなずいただけだった。
重大な報告をすませた後も、しかし、二人の間の緊張した空気はすこしも解けず、姿勢もまったく変わらなかった。
「では、いよいよ仕上げにかからねばならんな……」
オオクボは小声でいった。
「はい。ここまではわれわれの書いた筋書きどおりに事が運びましたが、すべてはこれからの大事に向けての序幕にすぎませぬ。
「しかし、
「策におぼれてはなりませぬが、打ってきた布石はかならずや役に立つはずです」
「そうだ。そうならなければこまる。あれらの反乱は、密偵をもぐりこませたり、薩磨からの連携の使いを装わせたりして、何らかの形でわれわれが陰で扇動して引き起こしてきたものだ。それが露見しようものなら、政府の信用などかんたんに吹っ飛んでしまう」
「
カワジは薄い唇に不敵な笑みを浮かべて断言した。
オオクボを前にして、例の強いクセのある薩磨弁をまったく使っていない。
あれはやはり、真意をさとらせないための煙幕だったのだ。
オオクボも同様で、なめらかな口調にはなまりの痕跡すら感じられない。
それはまさに、二人の共通した冷酷さと周到さの証しであり、ともに故郷の薩磨を見限る覚悟を決めた印でもあるようだった。
「しかし、こんどはそうはいきませんぞ。われわれには二つの標的がある。これをともに挑発し、誘い出すためには、たとえ稚拙に見えるくらいあからさまな手段であれ、果敢に、苛烈に、しかもたたみかけるように講ずる必要があるのです」
「二つとは、
「ええ。薩磨は現在、藩に代わる体制として志学校というものを組織しています。これは、行政組織のようでもあれば、軍事組織でもあり、教育機関でもあるという、まことに奇怪で、かつ薩磨全体を支配する強大な権力集団であります。まずこれを暴発させなければならない。そして同時に、総帥である西豪
「志学校の勢力を叩きつぶすだけでは足りぬということか。たしかに、西豪が残れば、薩磨は依然として独立国のように
「志学校生徒だけでも一万は下らんでしょう。いったん彼らが立てば、薩磨じゅうの壮年、若年の男子が続々とそこに加わっていくことは確実です。それだけでこれまでの士族反乱の数倍の規模となる。さらに西豪が立つとなれば、西国はおろか、日ノ本じゅうの不平不満分子が馳せ参じてくることも考えられます」
「それだけの危険を冒してでも、志学校と西豪をいっしょに誘い出すことがぜがひでも必要だというのだな。……河路、これは途方もない賭けになるぞ」
オオクボは長い顔をもたげて立ったままのカワジをにらみつけるように見上げ、ひじかけを握りしめた手に力をこめた。
「承知のうえです――」
カワジは深くうなずき、それ以上この方針の是非を語ろうとはしなかった。
その決然とした表情から彼の覚悟のほどを見てとり、オオクボは無言でうなずき返した。
「案は二段構えになっとります。第一が、警視庁のおいの部下の中から精鋭二〇数名を選抜し、帰郷と称して薩磨へ送りこむことです。彼らは宣伝工作員です。出身地域や親類縁者、旧知の者などに働きかけて志学校からの離反をうながし、反乱の無謀さを説かせます」
「ミイラ盗りがミイラにならぬか?」
「もともと西豪が近衛兵を組織するよう要請されたとき、薩磨藩の上級武士である城下士を近衛兵に取り立て、下級武士の郷士を警視庁にときっちり振り分けました。薩磨における城下士、郷士の厳しい身分差別と反目の激しさは、他藩の比ではありませんからな。一介の郷士にすぎぬおいがいきなり警視庁を一手にまかされたのも、そういういきさつがあるからです。おいの部下は郷士としての辛酸をなめてきた者ばかりです。現政府の正しさを再教育するのはもちろん、城下士階級への恨みと憎悪を徹底的に思い出させてやります。よもや裏切るようなことはありますまい」
オオクボは、カワジの説明に納得した表情を見せ、それを受けていった。
「つまり、こういうことだな。帰郷隊は、志学校の内部分裂を工作するために派遣されたように見せかけつつ、実際の目的は、そのような卑劣な手段を弄するわれわれ中央政府への反感をさらにあおりたて、一気に激発するようにしむけることにある、と」
「そういうことです。遅かれ早かれ彼らは一人残らず志学校の手の者に捕らえられ、厳しい拷問を受けることになるでしょう。本当の任務が果たされるのはそのときです。彼らは自白するのです――『われらの真の使命は西豪を暗殺することだ』と」
オオクボがハッと息をのんだように見えた。
手燭の炎の揺らぎがもたらしたイタズラだったかもしれないが、おいらには、その表情は激しい苦悩に満ちたものに見えた。
すくなくとも、大時計の中にうずくまっているおいらから見えたオオクボの横顔は――。
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