第一章 4 チョウミンの弁舌

 次はいつ、どこから戦乱の火の手が上がってもおかしくない状況だ。

 この場はうかつな発言をひかえて、猫をかぶって無難な対応をしておこうなどと考えている者はいそうにない。


 だが、それだけになおさら、おたがいの腹の中に対する警戒心もあるのだろう。

 どの顔も不機嫌そうだったり、いらだたしげなしかめっ面だ。

 あいさつ程度の言葉をかわしただけで、探り合うように眼ばかり動かしている。

 カツラだけは反対に眼を閉じてじっと腕組みをしたままだ。

 およそなごやかな雰囲気とはほど遠かった。


「まっこと、物騒な世になったもんですなあ……」

 重苦しい空気に気をつかったつもりか、カイシュウ先生を除くといちばん年長らしいソエジマが、わざと軽い口調で世間話でもするように先生に話しかけた。


 すると、リョウマが〝信頼するに足る終生の友〟といっていたユリキミマサが横から口をはさんだ。

「他人事ではありませんよ、添島ソエジマさん。三年前の『佐駕サガの乱』をお忘れか。あなたの同郷の江頭エトウ新平シンペイが、むごたらしくも斬首の刑に処せられた。今や真栄原マエハラの運命は、それと同じです。維新政府の最高職をつとめた者が、二人までも暴徒の首魁と化したのです。これではまともな国の政府とはいえんでしょう」

 ユリの口調は冷静なだけに、かえって事態の深刻さを感じさせた。


「しかし、あのとき徹底的に叩かれて、もう腓前ヒゼン佐駕サガには立つだけの力はない。もっと危険なのは、板籬イタガキさん、あんたとこの土左トサだろう」

 ソエジマと同じ佐駕のオオクマが、向かい側の軍人ぽく構えた人物にむかっていった。

「ああ。国からは毎日、『我々も立つべきだ』とか『ただちに職を辞して帰郷せよ』などと矢の催促が舞いこんでくる。軽挙妄動せぬようになだめてはいるが、うかつに説得に帰ったりすれば火に油を注ぐようなものだ。間違いなく真栄原の二の舞になろうな」

 イタガキは固く腕組みしたままうなずいた。


「まともなところなど一つもありませんよ!」

 ついに限界がきたとばかりに声を上げたのは、欧米人のような鋭く尖った顔をしたムツヨウノスケだった。

「こうなったのは、みんな独裁者大久穂オオクボのせいです。やつが反対者を残らずはじき出したために、みんな行き場を失い、仲間の不平士族にすがりつかれて利用されてしまうんだ。やつには国会を開設する気など毛頭ありません。元老院など、時間稼ぎの口実と我々を飼い殺しにしとくための鳥かごにすぎん。いったい政府はどうなっているんです、樹戸キドさん。大久穂を抑えられるのは、政府に残っているあんただけじゃないですか!」

 ムツに矛先を向けられたカツラは、眠ったように閉じていた眼をようやく開いたが、ギョロリとにらみ返しただけで一言も口をきこうとしなかった。


 代わりにカイシュウ先生がなだめるようにいった。

「まあまあ、意見はさまざまにあろうが、今夜はこの海舟の顔を立ててお集まりいただいた。会の趣旨は本場仕込みの〝民権論〟を聴くということになっとる。何はともあれ、まず中柄ナカエ兆民チョウミンくんの講義を拝聴しようではないか」

 ひどく場違いな雰囲気の青年チョウミンがひょうひょうと現れると、肩透かしをくわされたように一同は黙りこんだ。


 だれもがそれを会談の口実としか考えていないのは明らかだった。

 いくら緻密で高邁な学説であろうと、現実の政治のむずかしさを骨身にしみて知っている自分たちを説諭できるほどのものであるわけがないと、最初からたかをくくっている。

 おいらにも、どう見てもぜんぜんさえないチョウミンが、ふてぶてしい顔で居並ぶお歴々を感心させるような話ができるとはとても思えなかった。


 ところが、青年チョウミンは、高価そうな三つ揃いのスーツに身を固めた連中を前にしても、まったく動じる気配がない。

「みなさんの多くは民撰議院設立建白書などというものに名を連ねたわけだが、ぼくにいわせれば、その根拠となさったという『天賦人権論』というのは、つけ焼き刃で、だいぶ理解も甘いシロモノだったといわざるをえませんな。そもそもルサウがいう人権というのはですね……」

 動じるどころか、口の端にうっすらと皮肉っぽい笑みを浮かべ、眼の前のお歴々を見下すようにして話しはじめた。

「ふふん」

 えらそうにふんぞり返ったゴトウがあざ笑うように鼻を鳴らす。

 チョウミンはかまわずつづけた。


 最初は、〈人間は生まれながらにして自由かつ平等であり、だれもが幸福を追求する権利を持つ〉という耳に心地よい『天賦人権論』なるものを、厳密に定義することからはじめた。

 自然状態では、人間はたしかに自由で、だれにも束縛されず、平和に暮らすことができたが、それは自分と無関係なこといっさいに興味を持たなかったからであり、孤独でか弱い存在だった、と規定する。

 その孤独と不安を解消するために〝家族〟というものが生まれるが、それは同時に〝他者〟という存在が出現したことも意味するのであり、不自由と不平等を生ずる社会という状態の誕生であった、と。


「なるほど。てことはつまり、自由や平等は、でき上がった社会の中には、もはやありえないってことなんだ……」

 ワガハイがつぶやいた。

「もともと自由なんだから勝手にふるまっていい、というわけにはいかんのだな。もし、社会の中で自由や平等であろうとしたら、それはその権利を回復していこうとする困難な行動を通してしか獲得できんちゅうことか。なるほどのう……」

 リョウマもしきりにうなずく。


 会合の出席者たちは、例外なくだんだんと粛然としたおももちになっていった。

『天賦人権論』という言葉を、単に自分の正しさを信じさせてくれる座右の銘のようなものか、あるいは、民衆に聞こえのいい政治的なスローガンのようなものとしてしかとらえてなかった者には、さぞ衝撃的なものだったにちがいない。


 そんな先入観のない天井裏のおいらたちには、チョウミンが語る話はまったく新鮮なものに映った。

 理屈好きなリョウマとワガハイはすぐに興味をひかれ、眼を輝かせた。

 小むずかしい話にどこまでついていけるか不安だったおいらでさえ、知らず知らずのうちに引きこまれてしまった。

 チョウミンの西欧流の論理は、まるでケランで見た大聖堂の尖塔のように天高くそびえ、ローモの石造りの堅牢なアーチ橋のように緻密に組み上げられていた。

 リョウマが「政治家の名演説は聴く者の血をたぎらせる」といったことがあるが、思想家の思考からつむぎ出される言葉は、精神に翼をつけて空高く羽ばたかせるものなのだとわかった。


 チョウミンには、片時も人の気をそらさせない軽妙な弁舌の冴えもあった。

 茶々を入れようとする者があれば、機転をきかせた絶妙な受け応えで周囲を巻きこんだ笑いをさそい、それを踏み台にして軽やかにつぎの話題へと飛躍する。


 みすぼらしい小男のチョウミンの姿が、まるでウェンナで聴いたオーケストラの一糸乱れぬ交響曲の演奏を先導する指揮者のように見えたものだ。

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