第四章 Beautiful Lady in the 'Kotan' コタンの女先生
第四章 1 青年よ、大志をいだけ!
「せめて一晩だけでも――」
手を合わせんばかりにして懇願したのは、クローク先生のほうだった。
おいらたちと別れてしまえば、ボコイもいずこへとも知れず去っていく。
先生にとっては、驚くべき生き物と間近に接する機会は、もう永久に巡ってこないかもしれない。
警備の者が奇妙な親子連れの深夜の来訪を怪しんだが、おいらと先生が流暢なイグランド語で親しげに会話するようすを眼にすると、気圧されたようにこそこそと入り口の前から退いてしまった。
「では、あなたは、この国にもう一度レボリューションを起こすおつもりかな?」
クローク先生は、居間と兼用になった書斎のソファに案内し、夜食にとパンにチーズとハムをはさんだものを運んできてくれた。
自分は机の前の椅子にかけ、手なれたようすで香りのいい紅茶をいれながらたずねた。
「さあ、どうですかな。だいいち、わし自身が今の
リョウマは、反対に興味深そうに質問した。
今のリョウマにとっては、出会う人間はすべて、自分にとって貴重な情報をもたらしてくれる相手にちがいなかった。
クローク先生は、ボコイを明るいランプの光の下であらためてじっくりと調べながら、首をひねった。
リョウマの質問に対する答えを考えているのか、ボコイの身体の仕組みに考えをめぐらせているのか、おいらにはわからなかった。
ボコイはまったく警戒したり緊張するようすもなく、クローク先生の手の中でおとなしくされるがままになっている。
「ラメリカは、ちょうど日ノ本にレボリューションが起こったころ、南北に分かれて内戦を戦っていました。まさに建国以来の危機だったのです。ワタシ自身も参加しましたが、戦争はけっして容認されるべきことではありません。しかし、内戦が起こる原因が国の体制がかかえる致命的な矛盾にあるならば、内戦どころか、どのような反対意見も運動も一方的に封じこめられるような状況は、けっして健全とはいえないでしょう」
「日ノ本にはそのような危険があると?」
クローク先生は、立派なアゴひげをひねって少しばかり沈黙してから、たとえ話をするような慎重ないい回しでいった。
「東亰の発展ぶりは、眼を見張らせるものがありました。満ちあふれる活気が肌に直接感じられるほどです。瀟洒な洋館がつぎつぎ建ち、海外の珍しいもの、目新しいものが店先にたくさん並べられていましたよ。ですが、優美なマゲ髪は〝断髪令〟とかいうバカバカしい法律で禁じられ、見事な細工をほどこした伝統的な家具や道具類が、古臭くて恥ずべきものとされてうち捨てられているのも見ました。浮世絵のような芸術や歌舞伎といった芸能も、どんどん顧みられなくなっているようです。クレスチャンとしては、荘厳な神社や仏閣が見捨てられてさびれていくのを眼にするのは悲しくさえありましたな」
「そうか、文明開化の実態とはそういうものだったのですな」
リョウマは、パンくずを口から飛ばしながらいった。
「どうやら新政府は、日ノ本独自の文化や精神を、西洋にさげすまれる野蛮さとかんちがいしているようですね。わたしのように、日ノ本に魅力を感じてやって来た者にとっては、日ノ本の姿そのものが失われていくようなさみしさを覚えましたよ」
クローク先生は、こんどはボコイをテーブルの上に座らせ、ノートに細かくていねいにスケッチしながらいった。
リョウマは、それを聞いてめずらしく悲しげな顔をしていった。
「日ノ本人は、長い封建体制の精神的支配によって、〝寄らば大樹の陰〟とか〝長いものには巻かれろ〟というような従順さを植えつけられてきたのです。波風を立てないのがなによりの美徳になっちょります。わしらの戦いで何が最大の障害だったかというと、実をいえば、親兄弟、親類縁者、友人知人、主君やその取り巻き連中の、そうした事なかれ主義じゃった。不平不満を押し殺して上位の者にしたがってしまうというのもあるが、むしろ上の者のいうことを盲信してしまい、疑うということを知らない。これが、素直で美しい、日ノ本人の精神の悲しい側面でもあるのです」
「なるほど。政府の御用視察団などの立場でなく、ものごとにとらわれない旅人の自由な眼でラメリカやユーロピアを見ていらっしゃったあなたらしいご見解ですな。維新政府の意向が絶対であるというような上意下達の風潮は、たしかに感じられました。富国強兵、殖産興業といったスローガンのもとで邁進する日ノ本人の姿は頼もしく、壮観でさえありますが、危険な匂いがないとはいえないようですね」
「わしは、日ノ本にいるときから、大工や店の手代が堂々と自分の意見を主張して大統領に選ばれるような日が、いつか日ノ本にも来ればいいと思うちょった。それはないものねだりだったんかのう……」
「ワタシは、あなたのような人こそが、まず最初の大統領になればいいと思いますよ」
クローク先生は、リョウマのほうを見て笑顔をつくった。
「いやいや、人に号令して前に進ませることなど、わしにはとてもできませんな。リズム感ちゅうものの皆無なわしなんぞが音頭取りをしては、右手と右足がいっしょに前に出てしまいますきに」
「号令なんかかけなくてもいいじゃありませんか。あなたが先頭に立って、自分の思うところへむかってどんどん駆けだせばいい。心ある民衆たちは、あわててあなたの後についていくでしょう。ぐずぐずしてたら置き去りにされてしまいますからね」
いいながらクローク先生が笑いだし、リョウマもいっしょになって大笑いした。
それでやっと、おいらには二人が冗談をいっているのだとわかった。
「おっと、娘さんの眼がうつろになってきた。そろそろおしまいにしましょう。ワタシも、明日の朝いちばんに、学生たちにむかって初めての訓辞をしなければなりませんから」
クローク先生の宿舎となった洋館は小ぢんまりとして心地よかったが、残念ながら客間というものがなかった。
リョウマとおいらは書斎のソファでそのまま寝ることになり、先生がシーツと毛布を持ってきてくれた。
「では、最後にひとつ、ミスター・リョウマからぜひアドバイスをいただきたいのです。明日の訓辞では、ワタシはどんなことを話したらいいでしょうかね?」
「クレスト教は西洋では普遍的な概念じゃが、最初から『神はこう申される――』では、日ノ本の若い学生たちはまごついて引いてしまうかもしれませんな。なるべくわかりやすく、ふつふつと力がわいてくるようなやつがいい。そうじゃ、『青年よ、大志をいだけ!』ちゅうのはどうです?」
「おお、それはいい。イグランド語に訳せば、さしずめ "
クローク先生がドアを閉じる音を聞く間もなく、おいらはふっくらした暖かい毛布にくるまって眠りに落ちていた。
つぎに眼が覚めたとき、おいらはそのまま毛布に包まれていたが、身体の下にあるのはクッションのきいたソファではなく、リョウマのごつい背中だった。
しかも、その背中は揺れていた。
リョウマがおいらを背負い、まだ暗い夜道を歩きだしていたのだ。
「わしらがあのまま官舎にいては、クローク先生に迷惑がかかるやもしれん。警備員から通報を受けた
リョウマがつぶやくようにそういうのを聞きながら、おいらはふたたび深い眠りの中に誘いこまれていった。
ボコイが毛布の端から首を出し、リョウマがとんでもないところに迷いこんでしまわないように、じっと闇のむこうを見守っているようだった。
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