第二章 5 どん底への光

 何だろう、あれは……


 上のほうでぼんやりと光が揺れている。

 雨よけにしていた板が、風で吹き飛ばされてしまったのだろうか?

 いや、陽光にしては妙に赤っぽい。ここには夕陽など射しこまないはずなのに……。


 不審には思ったが、立ち上がっていって確かめることはもちろん、はっきり見ようとまぶたを持ち上げることさえおっくうだった。

 それに、もしかしたら空腹のあまり意識が混濁して、幻を見ているのかもしれなかった。


 すぐ横では、リョウマが大きないびきをかいて眠っていた。

「動けばそれだけ腹がへる。寝ているのがいちばんじゃ」

 リョウマはめんどくさそうにいって、四六時中そうやってゴロゴロしている。


 ここは、〝最悪の場合の避難場所〟と決めていた、島の裏側にある先住民の竪穴式住居である。

 暖炉はないし、火を焚こうにも燃やす流木が近くでは手に入らない。

 最低限必要な分だけ、わざわざ山越えして引きずってくるしかなかった。

 火を使えるのは唯一の食料である魚を焼くときに限られ、長い夜は漆黒の闇に閉ざされた。


 その魚も、このところずっとシケがつづいて、ボコイ頼みの漁がなかなかできず、やれてもたいした収獲にならなかった。

 しかも寒さが日に日に身にしみるようになってきた。

 冷たい波しぶきをかぶる海辺にいられる時間はすぐに限界がきてしまう。

 空きっ腹をかかえているのが今やふつうの状態だった。


 そんなこんなで、ぐうたらの見本みたいなリョウマのセリフが、結局いちばんかしこい教訓になってしまった。

 もちろん、本格的な冬が到来したらどうすればいいのかなどということは、考えるすべも気力もなかった。


 たったひとつの救いは、ボコイがちょうどいい熱源になってくれることだった。

 リスに似た姿でいるときはふつうの体温だが、クルリと丸まって黒光りする固い羽に包まれると、つやつやした表面からじんわりと気持ちのいい温かさが伝わってくる。

 寝るときにリョウマとの間に横たえれば、凍てつくような夜でも寒くて眼が覚めることはなかった。

 そればかりか、ボコイは火打ち石の代わりもつとめてくれた。楕円形に変貌したボコイの表面をそっとなでてやると、最初のときの殺人光線のような激烈な炎ではなく、こちらが必要とする程度の小さな火を噴いてくれることがわかったのだ。


 こうして考えてみると、このどん底のような悲惨な生活も、何から何までボコイなしでは成り立たない。

 おいらとリョウマがかろうじて生き延びていられるのは、まちがいなくボコイという奇妙な動物のおかげだった。


 だが、天候は悪化するばかりだ。

 風は強まり、雨に混じるみぞれやあられの割合が確実に増えている。

 食料の欠乏や凍えることへの恐怖がおいらとリョウマの気力をじわじわとむしばんでいたが、竪穴式住居が深い雪に埋もれてしまえば、たった一晩ですべての希望が失われることだってありえた。


 もうよけいなことに心をわずらわされたくない。

 リョウマのいうとおり、眠っているほうがましだった。

 おいらはまた眼を閉じ、粉っぽくなった古い敷きワラに顔を埋めた。


 顔に温かいこそばゆさを感じて、おいらはうす眼を開いた。

 すぐ前にボコイの顔がある。

 初めて出会ったときのように、小さな舌でぺろりとなめたのだ。


 おいらたちが眠っている間に、ボコイが勝手に元の姿になることはめったにない。

 起きるときには、黒い殻の表面をポンポンと軽くたたくと、ふわっと膨らむようにしてリスの姿にもどる。

 それがボコイの眼覚めでもあるかのように、眼をぱちくりさせてキョトンとする表情がかわいかったのだ。

 なのに……


「どうした、ボコイ?」

 すると、そのボコイのむこうに、また揺れる赤い光が見えた。

 それはさっきよりずっと大きく、ずっと近くに見えていた。


「おお、かわいいのう。まったくもって、リョウマにはもったいない子だわい」


 ひきつぶれたようなダミ声を聞いて、おいらはいっぺんに眼が覚めた。

 もっと驚いたのは、その言葉がまちがいなく久々に耳にする日ノ本ヒノモト語だったことだ。

 おいらを真上からのぞきこんでいるのは、四角い、大きな岩のようなふてぶてしい顔をした中年の男だった。


「だ、だれだ。おまえは?」

 おいらは飛び起き、ギョッとして思わず後ずさった。

「人の顔を見るなり、いきなり『だれだ』とは失敬な。迎えにきたにきまっとる。こんな立派な格好をしている者が、怪しげな人間であろうはずがあるまいが」

 男は、鼻の下にたくわえた太いひげをへの字に曲げて、尊大な表情でいった。


 たしかに、西洋人と見まがうような仕立てのいい三つぞろいのスーツを着て、片手に新式の明るいランプをぶら下げて立っている。

 ずんぐりした体型と、太くて短い首に巻いた蝶ネクタイだけが、いかにも不似合いで苦しそうだったけれども……。

 おいらたちを助けに現れたのは、そんないかにもひと癖ありそうな人物だった。

 おいらは、安心したというより、意想外の展開に呆然とするばかりだった。


「わしのことなら、この男がいちばんよく知っておる。おい、いいかげんに起きろ――」

 男は、きれいに磨き上げられた革靴の先で、リョウマのすねをじゃけんに蹴りつけた。

「うるさいのう……なあんじゃ、弥太郎ヤタロウか」

 リョウマはボサボサ頭をさらに荒っぽく掻きむしりながら、むっくりと起き上がった。

 安眠を妨害されて、いかにも不機嫌そうに顔をしかめた。


「それが、わざわざ迎えに来てくれた恩人に対する挨拶か。おまえはまったく変わっておらんな。昔の坂元サカモト龍馬リョウマのまんまだ」

「礼はいうさ。だが、その前に何か食わせろ。腹が減っていては、感謝の気持ちも半分がたじゃ。おんしだって、形ばかりの礼の言葉なぞ聞いてもうれしくあるまい」

「チェッ。相変わらず口の減らないやつだ。そんなこともあろうかと、ちゃんと用意してきとるわい。――おい」

 ヤタロウと呼ばれた男が、竪穴の入口のほうにむかって声をかけた。


 日ノ本ヒノモト人らしくないスラリとした長身の青年が布の包みを運んできて、リョウマとおいらの間に置いて包みをほどいた。

 布は風呂敷という日ノ本式の独特なバッグで、包まれている木の箱は重箱というランチボックスだということは後で知った。

 黒光りする箱には繊細で優美な花や鳥の絵柄が描かれており、おいらが馴染んできた西洋の文化とのきわだったちがいが印象的だった。


 中から現れたごちそうにはもっと眼をひかれた。

 盛りつけといい、色どりといい、まるで精巧な細工物か美術品のようで、死にそうなほど空腹でなければ、崩して口に入れていいものかどうかためらってしまいそうだった。

 だが、身体は正直なもので、ふんわりと立ちのぼってくるおいしそうな香りに、鼻はピクピクうごめき、腹がぐうっと鳴った。


「さあ、好きなだけ食べなさい。わしは日ノ本から専用の料理人も連れてきた。こんないいかげんな男といっしょでは、あんたがろくなものを食ってなかろうと思うてな」

 ヤタロウは、いかつい顔に似合わない優しげな笑みを浮かべ、おいらのために重箱のふたの上にごちそうを取り分けてくれさえした。


「うまい……ほんとにうまいよ。迎えに来てくれてありがとう」

 おいらはいって、ペコリと頭を下げた。

「あんたは礼などいい。実をいえば、わしは龍馬のことなぞどうでもよかったのだ。おリョウさんの子どもが帰ってくると知って、忙しい身もかえりみず、矢もタテもたまらず船を仕立ててやって来た。これでわしの顔も立つというものだ」

 ヤタロウは、いかにもうれしそうにいった。


「ふん。弥太郎、おんし、さてはお龍に横恋慕しちょったな」

〝よこれんぼ〟という言葉は知らなかったが、リョウマがそれを皮肉っぽい口調でいうと、ヤタロウは岩のような浅黒い顔をたちまち赤くして、怒鳴るような口調でいい返した。

「うるさいわい。おまえにはもう関係なかろう。お龍さんをラメリカに連れてってやろうともしなかったくせに」

「なあに、あいつは最初からついて来る気など毛ほどもなかったさ。わしが出港する間際にいきなり現れて、背中に赤ん坊をくくりつけたんじゃ。『こんな子、あたしは知らないからね』などと捨てゼリフのようにいったきり、名前も教えずにとっとと消えうせおった。わしは捨て子をひろうたつもりでおる」

 リョウマは卵を焼いて巻いたものをポイと口に放りこみ、クチャクチャと品のない食べ方をしながら平然といった。


「勝手なことをほざきおって。おまえは、子どもが生まれたことも知らなかったんだろう。知らなけりゃ責任がない、などというわけにはいかんぞ」

「知るわけがない。むこうが知らせてこなかったんじゃ」

「知らせたって、おまえのようなろくでなしが親らしい愛情を示したり、家庭をささえるようなことをしてくれるはずがないと思ったからにきまっとろうが。わしには、お龍さんの気持ちが痛いほどわかる」

 ヤタロウは口からツバを飛ばしながら、鋭い口調でリョウマを非難した。


「もういい。水かけ論じゃ。それに、おんしなんぞにわかってもらったからといって、今さらどうなるもんでもない」

 リョウマのほうはうんざりした熱のない声でいい、プイと横を向いた。


 だが、二人の口論は、おいらにとって初耳で、とんでもなく重大な内容に満ちていた。

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