第二章 6 おいらの〝正体〟
「そ、それって、こういうことなのか? おリョウさんという人がおいらの母親で、それでもって、リョウマがおいらの父親だと……」
おいらはフォークを重箱の上に置いて、どちらへともなくおずおずと問いかけた。
それを聞くと、ヤタロウという男は、唯一優れた知性を感じさせる切れ長の細い眼をせいいっぱい見開き、心底あきれ果てたようにいった。
「なんと、かわいそうに、そんなことも聞いてなかったとは……」
いや、おいらだって、もしかしたらリョウマが父親なのではないかとは、いくらなんでも考えなかったわけではない。
物心ついてこのかた、まともな話し相手はリョウマ一人だった。
おいらにとってリョウマは〝リョウマ〟以外の何者でもなく、唯一無二の存在だった。
わざわざ〝父親〟というものだと意識する必要すらなかったのだ。
リョウマにとっては、ただ父親だと名乗る必要がなかったというだけでなく、どこかにためらいのようなものがあったのは確かだった。
おいらもなんとなくそれを察して、あえて問いただそうとしなかったような気がする。
父親だと名乗ってしまえば、当然母親はだれかということになる。
さらにおリョウさんという具体的な名前を口に出せば、おいらは彼女がどんな人で、どんないきさつがあったのかと考えはじめるだろう。
すべてを捨てて海を渡ったリョウマとすれば、おいらがそうやって過去に関心を向けるのは、きっと耐えがたいことだったにちがいない。
「まっこと、不憫なことじゃなあ。幼い子には母親が必要なものだ。
ウンウンとうなずきながら、ヤタロウはおいらをなぐさめるようにいう。
リョウマは横を向いたまま、知らんぷりして料理を食いつづけていた。
「いや、まあ、でも、おいらにはリョウマがいるし……」
おいらは何と答えていいかわからず、口ごもった。
しかし、おいらが知らなかったのは、それだけではなかったのだ。
日ノ本に帰る切符を手にするためには、もうひとつの驚愕の事実と向き合わなければならなかった。
「そういうわけにはいかん。今の日ノ本は、あんたらが出ていったころとはまったく様変わりしておる。
「え……。おいらは、男なんじゃないのか?」
おいらが問い返したとたん、言葉をさえぎられたヤタロウばかりか、リョウマさえ不審そうな顔をしておいらを見つめてきた。
「そんなばかな……。あんたは、多少うす汚れとるが、顔立ちはリョウマみたいな無愛想な寝ボケづらとは似ても似つかん。ハッと人の眼をひく美人のお龍さんの子なら、なるほどたしかにこんな娘が生まれるだろうと十分納得させるような可愛らしさだ。わしは、たしかに女の子だと聞いとったぞ」
ヤタロウはうろたえた声でいい、同意を求めるようにリョウマのほうを見た。
リョウマはポカンとあきれ顔をしていた。
「おまえ、自分が男か女かもわからなかったのか?」
「そ、そんなこといわれたって……。女の子らしい格好なんか一度もしたことがないし、婦人用のトイレに入ったこともないし……だいいち、ラメリカやユーロピアで出会った同じような年頃の娘たちは、おいらとは似ても似つかなかったし……」
ローモのトレピの泉の前で、真っ白な帽子を風に飛ばされた金髪の女の子を見た。
泉に落ちた帽子はお付きの者が水に飛びこんで拾い上げたが、クシャクシャになってしまい、女の子はそれを石畳の上に投げ捨てて激しく泣きじゃくった。
あの姿を眼にしたとき、おいらはなぜかドキドキしていたたまれなかった。
アウストリアのチロリの高原では、乗っていた馬車がヒツジの群に囲まれ、彼らが道を横切ってしまうのを待つ間、ヒツジ飼いの少年としばらくにらみ合ったことがあった。
少年はそのとき、おいらにだけわかるように小さくうなずいた。
あのときおいらが感じたのは、親しみだったのか、敵意だったのか、それとも……。
まるで世界が一瞬にして裏返ってしまったような気がした。
今まで見たり聞いたりしてきたことが、とたんにぜんぜん別の意味と様相をもって走馬灯のように頭の中を渦巻き、クラクラと激しいめまいにさえ襲われた。
「おいら、女だったのか……」
「……まあ、無理もないか。いわれてみれば、人さらいなぞにねらわれてはと用心して、粗末な男の子の服しか着せたことがなかったな。トイレはいつもわしがついていける男子用ですませた。そんな風にしても、成長が早くて栄養もいい西洋の娘たちに比べれば、半分くらいの年齢にしか見えんし、周囲にはまったく不自然に思われんかったなあ」
いいながら、リョウマは妙に納得した表情でため息をつき、天をあおいだ。
「だが……おお、そうじゃ。名前があるじゃないか。わしがおまえにつけてやったのは、まちがいなく女の名前だぞ!」
「名前って……」
おいらが口ごもると、ヤタロウが興味深そうにあらためておいらの顔をのぞきこんだ。
「そうか……何というんだね?」
おいらは、ゴクリと生唾をのんでいった。
「『ことこ』じゃ。言葉の〝言う〟に子どもの〝子〟で、『
「言子ちゃんか。たしかに、それならやっぱり女の子の名だな」
ヤタロウは、気が抜けるほどあっさりと認めた。
「そうじゃろう。それに、いい名だと思わんか? 音の響きもいいし、世界の根源にかかわる言葉の連なりだ。わしの一世一代の傑作じゃぞ!」
リョウマが得意そうにいうと、ヤタロウも重々しく納得した顔でうなずいた。
「だけど、『言子』が女の名前だなんて、おいらはいっぺんも聞かされたことがないぞ。リョウマって名前だって、〝龍〟に〝馬〟なんて、変な動物の組み合わせじゃないか。おまけに、おリョウさんも〝龍〟なんだろ? 〝馬〟がつくかつかないかだけで、どうして男と女のちがいになるんだよ。〝子〟がついたら女だなんて……知るかよ!」
いいつのりながら、自分でもわけのわからない無駄な抵抗をしている気がした。
リョウマもヤタロウも、おいらがいくら必死で訴えたところでどうしてやることもできず、渋い顔をして黙りこんでいる。
おいらは、とんでもない大きなかんちがいをしながら生きてきたのだ。
今までの自分の生き方やものの見方が、取り返しのつかないまちがいだらけだったような気がして、悔しいような悲しいような、たまらない気持ちで胸がいっぱいになった。
胸もとにはい上がってきたボコイに顔をなめられて、おいらは自分が泣いていることにようやく気がついた。
「ボコイ……」
それは、おいらが名づけた世界でたったひとつの名前だ。
『言子』というおいらの名前には女という意味がこめられていることが、今になってやっとわかった。
『ボコイ』という名前にも、おいらがまだ気づいていない驚くような意味が秘められているかもしれないし、まったく未知の新しい意味がつけ加わっていくのかもしれなかった。
おいらはボコイをぎゅっと抱きしめた。
そうだ……
自分がまちがって生きてきたなんて考える必要はないはずだ。
たった今、新しい意味が自分に加わったということだ。
これから新しい自分を見つけていけばいいのだ。
おいらはそう考えて、ようやく気をとり直した。
そして、新しいおいらの眼の前に、『日ノ本』という未知の世界が広がろうとしている。
それは、父親リョウマの故国――なつかしいだけの、古いしがらみばかりが残る国などではなく、おいらが生きていく新しい場所になるはずだ。
帰るんじゃない。
行くんだ。
日ノ本へ――
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